七の一
愛親達が桐の家に辿り着く少し前、玄関の方から物音があったそうだ。
「先生達が帰ってきたのかもしれない」
と桐は玄関に向かった。その時、僅かな妖力の動きが波紋のように広がるのを藤咲が感じ取った。
ほぼ同時に悲鳴が起こり、藤咲が急いで玄関に向かうと桐が蹲って泣いていたのだという。
妖狐族は人間に比べて夜目がきく。
天井に滴る髪も血も桐にははっきり見えてしまったのだろう。
「どうだった?」
天井に掛けた梯子から降りる愛親に藤咲が聞いた。愛親は首を横に振る。
「髪の毛以外は何も無かった」
天井の上には血溜まりが出来ていたものの、その被害者と思しき死体は確認出来なかった。
「そうか」
藤咲は顎に手を当てた。彼女の隣には麗麗と桐が怯えきった表情で震えながら抱き合っている。
「常盤、この行動を何と思う?」
有明行燈の光を藤咲の眼鏡が反射し、瞳の色を隠していた。梯子を下り切って愛親は口を開く。
「挑発だ。野郎は護衛が家に居る事を知りながら、この気色悪い『悪戯』を仕掛けてきた。まるで『お前らが居ても関係ない』と言わんばかりにな」
「私もそう思う。今までこの妖怪は一人で助けの呼べない状態の少女だけをいたぶる妖怪かと思っていた。護衛さえ付けていれば大丈夫だと思っていたが――どうやら獲物への執着心がとても強いらしい」
「すると」
「ああ」
藤咲はチラリと桐の方を見た後、躊躇いがちに愛親の耳元で囁いた。
「必ずこの家を襲って来る」
有明行燈の光だけが怪しく揺れ動き、硬直した四人の顔を朧げに浮かび上がらせている。
来る。勿論愛親は覚悟していた。妖怪と対峙するのも初めてではない。しかし、いざ本当に来ると分かると緊張感が桁違いに増す。必ず桐を守らなければならない。絶対にしくじれない。
その思いが愛親の神経を鋭くさせいていた。
愛親達は玄関から居間に移り、これからの警備体制等について打ち合わせをする事になった。
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愛親がこの四日間で妖怪の匂いの付いた家を二つ見つけた事を告げると、俄かに藤咲の顔色が変わった。
「すぐ上に報告して護衛を付けて貰えるようにする。桐さん、筆と硯を用意して」
「紙は良いのですか?」
「それはこちらで用意する」
藤咲は懐から折り紙を取り出し、桐から受け取った筆で素早くしたため始めた。それも終わると両手を組み、忙しなく拳の形を変えながら、愛親達には聴き慣れぬ言葉で何かを唱え始めた。一連の動きに無駄がなく、洗練されている。
「式神の術――鶴」
藤咲が言ったその時、全く誰の手も触れていない折り紙が一人でに折り畳まれ始め、あっという間に鶴の形に早変わりした。
「おおっ」
という歓声が三人から飛んだ。愛親の口はぽっかり開き、妖狐族二人の尻尾は嬉しげに揺れ動く。
「もしや、これは動くのか」
愛親は好奇心で目を輝かせる。
「当たり前。何のために鶴の形に折ったと思っているの」
藤咲は折り鶴を手に乗せ、何かを呟くと同時に鶴からニョキニョキと太い足が生えた。それは藤咲の手からぴょん、と飛び降りると、スタスタ扉の方に歩いて行き、本来は翼の部分を手のように使って扉を押し開け、何事もなかったかのように出て行った。
廊下から鶴の足音がペタペタ遠ざかって行く中、藤咲が愛親の方に向き直った。
「これで上に報告が行く。だから私達は桐さんを守る事だけ考えれば良い」
「その前に何か言う事があるんじゃないのか」
「言う事?」
「いや、何でもない」
「そうだ」
藤咲は思い出したように、居間の片隅に立て掛けられていた刀を掴んだ。
「常盤。お前に渡しておきたい物がある」
「饅頭でも貰えるのか?」
「こんな時にふざけるな」
藤咲は眉間に皺を寄せる。「どの口が言うのか」と喉の先まで出掛かるのをグッと堪える。
「これを渡しておく」
藤咲は持って来た刀を片手で突き出した。
愛親は刀を受け取り、自分の正面で鯉口を切ってみた。薄闇に光る刀身は行燈の光に揺らぎ、その背は真っ直ぐ、しかし猛りにうねっている。
「良い刀だ。しかし刀なら間に合っている」
愛親は腰に差した大小二本を叩きながら言った。
「これはただの刀じゃない。お前のような妖力を扱えない人間にも妖怪を斬る事が出来る『塞魔刀』という種の刀。妖怪改方は全員持っている」
愛親は思わず藤咲の目を見た。
「斬れるのか。妖怪が」
「通常の妖怪であれば、な」
無論藤咲は愛親が麗麗の力を借りて妖怪を倒せる事など知らない。しかしこの措置は愛親にとって有難かった。麗麗の能力が再び発動する保証はどこにも無いからだ。
「藤咲、これと同じものをもう一振り貸してもらうことは出来るか? 出来れば短めの物が良い」
藤咲は怪訝そうな顔をする。
「何故?」
「妖怪と戦って折れてしまっては困るだろう。予備が欲しい」
藤咲はじっと愛親の顔を凝視していたが、呆れたようにため息を吐いた。
「どちらにせよ今は無理だ。次この家にくる時持って来よう」
「ありがたい」
愛親はうっとりした瞳で刀を眺めていたが、そっと刀身に口付けた。
藤咲だけでなく、桐も驚いたように愛親を見た。しかし、普段から刀に対して異常なまでの愛着を見せる愛親の姿を知っている麗麗だけは、表情を変えないのであった。
その麗麗の顔に突如緊張の色が走った。
麗麗の耳がピンと立ち、周囲に目を配る彼女の横顔は危険を察知した野生動物そのものだ。
「麗麗、どうした」
「居る」
「何」
「妖怪、居る」