一
月の満ちた夜であった。
ポツリポツリと行燈が、紅に白に咲き灯り、道行く人を朧げに、淡く映し出している。
昼間は往来の絶えぬこの道も、夜四つ(21時〜23時)の今は寂しげで、月明かりさえ頼もしい。
冷たい風を切りながら、大小の刀をさした侍が一人、東へ歩いていく。最近の若者らしく髷は結わず、長い後ろ髪を束ねているのみである。
眉は涼しげで、大きな瞳は月の光を照り返し、唇は薄く引き結ばれている。その細面は、同年代の少年の目も心も奪い去ってしまいそうな美しさを秘めている。
華奢な身体を包むのは青い小袖であるが、金色に縁取られた鳳凰が背に描かれており、足には草履でなく西洋風の長靴を履いている。
繊細な顔立ちとは対照的にいかにも傾いた出立ちであった。
この侍、名を常盤愛親と言い、下女のお民と二人で近くに住み暮らしている。
夜更に出歩いているのは、刀を収める鞘を新しく作るため、馴染みの鞘師と相談を重ねていたためだ。愛親は菊の花をあしらった柄を望んでいたが、鞘師は虎か龍が良いという。二人は一歩も譲らず、気が付けばこんな深夜になってしまったのだ。
そして最終的に二人が合意した絵柄は、「蝉」。みんみん鳴くあの蝉を描くことであった。
そんなことをすれば刀が虫に集られているようにしか見えないという事を、この時の愛親は未だ気付いていない。
従って、今この侍が眉間に皺を寄せているのは蝉のせいではない。
「お民に何と言い訳すれば良いのか」
侍は黄色い月に青い吐息を吐いた。
愛親にはかなりの浪費癖がある。こと刀に関しては金の使い方が尋常でない。愛親は太刀を三振り持っているが、鞘は七本、脇差の物を含めれば十一本。今日の物で十二本目になる。
対照的に下女のお民はかなりの倹約家で、愛親の浪費によって常に火を吐く家計を切り回そうと必死に立ち回っている。
「若様は空気を入れておくのに何十両払いなさるつもりなのか。この鞘に入っている空気の方が私より良い生活をしているようでございますね」
前回鞘を作った時はこのような小言を一ヶ月言われ続けた。
「もう鞘は作らない」と愛親が宣言してようやく治まった三ヶ月後にこの様である。これが知れたらどんな恐ろしい事が起こるか、火を見るより明らかというもの。
しかも今回の柄は蝉である。
愛親は頭を振って前を見据えた。考えても仕方がない。お民はもう寝ているだろうから、絶対起こさないよう気を付けよう。
歩いていくと右手に寺の土壁が見えてきた。背の高い壁が愛親を月影へ落とす。
寺を越え、しばらく行くと丹後坂と呼ばれる坂があり、坂が始まる手前で右へ曲がるとすぐ愛親の家がある。
リン、と鈴の音が、澄んだ空気に馴染んでいく。
気のせいか?
リン、と、また鳴った。
愛親は歩みを止めて振り返った。
誰もいない。
いや、近づいてくる。寺の向かい側の小さな路地から、何かの気配が大きくなってくる。
リン、リン、リン、と鈴の音は連なって風鳴りのように響く。
月は隠れて闇を増し、
気配が俄かに染み出して、
黒く凝縮されていく。
愛親は剣の柄に手を掛けた。
その目は鋭く路地を睨む。
と、何かが路地から走り出した。
あどけない顔立ち。細身の身体。
頭には布が巻かれている。
虚をつかれた愛親は刀から手を離してしまった。
それが少女だったからだ。
背丈からして十に満たない程幼く見える。
少女は左右を素早く向いた後、愛親のいる方へ一目散に駆けてきた。
その目は恐怖で張り詰めている。
こちらには目もくれない。走り去るつもりなのだ。
愛親は逡巡したが、ひとまず声を掛けるのはやめておいた。
鈴の音がどんどん近づいてくる。あの鈴の音はこの子の物だったらしい。
少女が速度を増し、愛親とすれ違うその瞬間、彼女の頭を覆っていた布がばさりと宙に舞った。
長い髪が旗のように棚引き、行燈を反射して星のように瞬いた。
黒髪ではない。
いや、それよりも愛親の視線は少女のある一点に吸い込まれていた。
頭の上に二つ。ふわりと生えた何か。
耳である。犬や猫のように、この少女の頭からも耳が生えている。
「妖狐」
その考えに思い至った瞬間、弾かれたように振り返った。
闇に、目の眩むような朱色が浮かび上がっている。
山のような鳥居が、天に聳えているのだ。
無い。
先ほどまであった景色も、天も地も無い。
愛親と、ただ燃え盛るような鳥居のみがそこにある。
俄かに背筋が凍り付く。
ここはどこだ。
門前町はどこに消えた。
一体何が起こっている。
愛親は恐怖を振り切るように、再び路地の方へ向き直った。
静寂。
左手に寺の土壁。
ポツポツ灯る行燈。
店の看板を仕舞う居酒屋の店主。
どこかで野良犬の声が聞こえる。
息を吸うと空気の冷たさで鼻がツンとする。
戻って、来たのか……?
愛親は恐る恐る、鳥居のあった方へ振り返った。
地続きに門前町が続いている。遠くに、先ほどすれ違った少女の背中が見える。鳥居は無くなっていた。
愛親はふぅっ、と大きく息を吐き、強くかぶりを振った。
いかんいかん、俺は狐に化かされていたのか?
愛親が歩き出そうとしたその瞬間、再び路地から複数の足音がした。また狐が出るのかと思ったが、どうやら違う。
浪人風の男が一人、また一人と合計六人走り出した。浪人達は素早く左右を見、少女の姿を確認すると後を追った。
「いたぞ!」
「絶対逃すんじゃねえ!」
どの男も上背があり腕も太く、目は赤く血走っている。その形相は人というより獣に近かった。
彼らも少女と同様愛親の存在には目も暮れず、宵闇の彼方に走り去っていく。
愛親はその光景を呆気に取られて見ていたが、大小二本を握り締め、すぐ男達の後を追った。