2.少女は名乗る
「ごめんね。汚いかもしれないけれど、ここでは目立ってしまうから、そのローブは着たままでいて」
人と会わないよう裏口から、恐らく彼が予約したであろう宿屋の一室に通された。猿轡と、腕を縛ったロープを解いてくれた彼は安心させるように私の肩を撫でる。
彼は、私を誘拐した数人の大人に対して、寸分違わず魔法の炎をぶつけて撹乱させると、一目につかないルートを辿り私の手を引いた。
「同じ部屋を使っている信頼できる仲間に、警備隊への伝言を頼んだ。誰にも見つからないようにここまできたから、もう半刻もすれば助けがきてくれるよ」
「ありがとうございます。わたくし、リリア……、といいます」
久方ぶりに発した声はずいぶん掠れ、震えていた。恩人の名前が知りたいと、自分から名乗り始めたものの、知らない人間に名前を伝えてはいけないと言われたお父様の言いつけを途中で思い出した結果、名前を少しだけ短く伝える結果になった。
「はじめまして、リリア嬢。僕は、アルノルト。一介の剣士だよ」
「……なぜわたくしを助けてくれたのでしょうか。少なからず、あなたにも危険がおよびます」
権力と欲望に塗れた、大人の世界に振り回されていた少女にとって、意味もなく優しくしてくれる大人は大体裏があった。裏がない人間は、家族か、父や母に対して真に好意を抱いている人間だけだった。そんな自分にとって、目の前の少年の行動は驚くべきものだった。私と彼は、今日初めて出会ったに過ぎないのだ。
「君が震えていたから。助けを求める人を助けるのに理由なんてないよ」
それに、君を連れて逃げるくらいならできると思ったからね。何も無謀に突っ込んだ訳じゃないよ。そう笑った気配に驚いて、初めて真正面から彼を見つめた。
茶色の癖毛によく似合う澄んだ青い瞳と目があった。今まで出会った欲のまみれた瞳とは違う、綺麗な瞳だった。
ーー信じたい。
そう思った。
彼を信じてもいいだろうか。
震える私を救い出してくれたのは、お父様でも、我が家の衛兵でもなく、目の前の少年だ。
「アルノルトさま、失礼ですが、魔力はどのくらいおありでしょうか?」
「……正確には言えないけれど、学園の魔法科授業を受けられる程度には」
突然の私の質問に少しだけ訝しんだ顔をしたものの、すぐに安心させるように微笑み、答えを返してくれた。きっと根が素直で優しい人なのだろう。こんな人を巻き込むことに、ちょっとだけ罪悪感を感じた。
「王都からここまで、どのくらいはなれておりますか?」
「ここは王都から北東に30km程度離れた宿場町だね」
でも、これ以上この人を危険な目に合わせたくないという、気持ちが勝った。
「アルノルトさま、これからわたくしは、あなたを厄介ごとに巻き込むことになります。でも、かならず安全に帰します。……なので、わたくしを信じてくださいますか?」
「君が安全にお家に帰れるなら、僕は一向に構わない」
ーーリリィ、君の力は珍しいから、決して人に話してはいけないよ。
お父様に繰り返し言われた言葉を思い出し、そしてひとつ決心をし、息をついた。
「アルノルトさまを信用して、お話しします。どうかご内密に」
ごめんなさい。お父様、言いつけを破ります。
「今回の誘拐は、お金が目当てではありません。……王弟派が、王派の要でもあるベヒトルスハイム侯爵への交渉材料として娘を誘拐しました」
少しだけ、アルノルト様が眉を顰めたのを見逃さなかった。一介の剣士と名乗ったが、恐らく王族貴族の内情にも通ずる方なのだろう。貴族に騎士として仕えるか、……身のこなしが丁寧なので自身が貴族の生まれかもしれない。
敵対する王弟派の人間であった場合、私は無防備に自己紹介をして、身を危険に晒していることになる。
「決して捕まるわけにはまいりません。……わたくしはここから王都のベヒトルスハイム侯爵家まで転移を使います」
「ちょっと待って。……それは僕に話して大丈夫なのか?」
慌てたように口を挟んだアルノルト様に対して、頭を下げる。
「ごめんなさい。厄介ごとに巻き込んでしまって。ただ私の魔力量では30km移動はできません。アルノルトさまの、魔力をお借りしたいのです」
「いや、僕は構わないが……。それを僕に話すことでリリア嬢が危険に晒される可能性があるだろう? その力は、人に話すべきではないよ」
温かい手が私が頭を下げるのをそっと止めた。腰を落として、私と同じ目線に合わせて、かけてくれた言葉は大好きなお父様と同じような音がした。
私を心配してくれる声だ。
「わたくしの本名は、リリアーヌ・ベヒトルスハイム。わたくしを助けてくれたアルノルトさまを、信用して話しています」
じっと透き通る彼の瞳をのぞけば、すぐにそこには優しい笑顔が浮かんだ。優しいブルーに見つめられると、少しだけ鼓動が速くなった。
「信じてくれてありがとう。じゃあ、君のお家に帰ろうか。僕の力は好きに使って」
緊張で冷たくなった私の手を、彼の大きくて温かい手が、ゆっくりと包み込む。
じわりと、掌から伝わる彼の魔力は、彼の言葉のように、彼の瞳のように、優しい気配がした。