第104話 黒獅子
右腕をもがれ隻腕となったシルエット。左手で掴んでいるのは、半ばから折れてしまった大剣。その精悍な顔つきは、記憶の中よりも逞しい。
「レオ兄……? 本当に、レオ兄なのか……?」
「…………」
「レオに……がふっ!」
その問いかけに対して、返ってきたのは俺の腹部に叩き込まれた乱雑な蹴り。
身体が折れ曲がり、蹴られた衝撃に流されるまま床を転がる。
「ってぇ……! 何を…………」
直後。先ほどまで俺が転がっていた床を、ルシルが放った瘴気の刃が過ぎ去った。
あのまま呑気に転がっていたら、今頃間違いなく俺の身体は両断されていただろう。
「へぇ。素晴らしい家族愛ですね。今更になって弟のことが可愛くなりました?」
「まさか。ただ邪魔者を片付けただけさ。見苦しいものが転がっていては――――君との逢瀬が台無しになる」
「…………は?」
さしものルシルも、今のレオ兄の発言に間の抜けた声が漏れだしていた。
実際、俺もレオ兄の言葉には似たような声が口から飛び出してしまいそうになったぐらいだ。
「心理戦のつもりですか?」
「そんなつもりはない。君が恋の駆け引きを望むならば、いくらでも付き合うがな」
「…………何が狙いだ。レオル・バーグ・レイユエール」
ルシルの眼が鋭く、冷たく、歪んでいく。
これまで俺たちを掌の上で転がし、弄んできた少女が、ここまで敵意を剥き出しにした眼差しを送るところをはじめて目にした気がする。
「君に逢いに来た」
「復讐をするために?」
「君を抱きしめるために」
レオ兄の言葉にルシルは眉間にシワを寄せ、不愉快そうな表情を露わにする。だがレオは構わず続ける。
「オレは弟を助けに来たわけでも、夜の魔女を倒しに来たわけでもない。ただ、君に逢うためだけにここに来た。今も尚、君を愛している……一人の男として」
操られているわけでも、盲目的になっているわけでもない。
今のレオ兄は正気だ。真剣だ。どこまでも真っすぐで、己の意志を貫いた眼をしている。
「…………っ」
「ルシル」
一瞬の動揺を見せたルシルだが、夜の魔女が発した一言ですぐに平静を取り戻した。
「レオルといったか。あの男はお前に任せる。好きにしろ」
「……はい。お母様」
ルシルは母の命に頷くと、瘴気の帳を生み出し、レオ兄を呑み込んでいく。
「レオ兄……!」
「アルフレッド」
されどレオ兄は。瘴気の渦に身を任せ、隔離を享受するばかり。
自らを包み込んでいく闇の隙間からの眼差しは鋭く厳しく、しかしそれでいて強き意志を感じさせるもの。
「オレに勝った以上、無様な戦いは許さん。死んでも勝て」
「…………っ!」
最後にその言葉を残して、瘴気の帳は閉じた。
「さて。私は――――」
奔る閃光。場の流れを裂くが如き魔力の光線を、夜の魔女は足元から昇る影で難なく防ぐ。
「――――客人を迎えるとしよう」
放たれた閃光の根本。機構の銃身を構えていたのは、一人の少女だった。
「マキナ……!?」
「……何とか。最悪の事態になる前には、間に合ったみたいですね」
まだ全快というわけにもいかないのだろう。仄かに汗を流しながらもメイド服に身を包み、左半身を鋼の武装を纏う姿は紛れもない、マキナ本人。
「お前……何で、ここに……!?」
「ソフィ様が地上に置いてった秘蔵の試作品……その中に簡易飛行翼があったんで、地上で合流したレオル様と一緒にここまで飛んできました。まだ未調整の試作品ですからね……わたしの『機械仕掛けの女神』と直結して出力を底上げしないと使えなかったので。それでも、なぜかこの城の高度が下がってたおかげでギリギリ届きましたって感じなんですが……」
「そうじゃねぇ! なんで来たって言ってんよ! そんな……病み上がりの身体で……!」
「……立ち止まることを許さないって言ったのは、アル様じゃないですか」
マキナは夜の魔女に立ちはだかるように、そして俺を守るように。
「わたしは間違えました。罪を犯しました。目が覚めた時、怖かったですよ。圧し掛かる罪の重さに震えて、やっぱり死んだ方が楽になれたって考えて。せっかく生き残ったのに、このまま俯いていたかった。立ち止まっていたかった。でもわたし……ずっとアル様のお傍に仕えてたんですよ?」
背中だけを見せ、まだ回復しきっていないであろう身体を引きずりながら、毅然と敵を見据える。
「間違いを犯しても、諦めてしまっても。また顔を上げて、立ち上がって、前に進んできたアル様の傍に……いたんです。そんなアル様の姿を見てきたんです。だったら……じっとしているわけには、いかないじゃないですか」
「…………っ」
「アル様が教えてくれたんです。たとえ間違いを犯しても、そこで終わるわけじゃない。諦めなければ前に進めるって。だからわたしも進みます。自分の犯した間違いが怖くても、辛くても、そこで立ち止まりません。償いから逃げません。だから、ここに来たんです」
「マキナ……」
俺は別にマキナを責めようとは思っていない。人の心を弄ぶルシルによる干渉が大きい。だがそれでもマキナは自分が犯した過ちと向き合おうとしている。
「…………分かった」
それで、俺が寝ていられるわけがない。
「何で来たとか、帰れとか……そういうのは、言わねぇ」
立ち上がる。全身から魔力も力も抜けていこうとも関係ない。
「その代わり……俺と一緒に戦ってくれ」
「元よりそのつもりです」
身体はボロボロ。魔力も失ってる。
それでも……なんでだろうな。こうしてマキナと肩を並べるのは、しっくりとくる。安心できる。
「オルケストラの王女。玉座を取り戻しに来たか?」
「欲しけりゃくれてやりますよ。今のマキナちゃんは――――ただの恋するメイドさんなんで!」
『機械仕掛けの銃撃型』による銃撃。銃口から熱線を吐き出し、一直線に夜の魔女めがけて空気を焦がしながら駆ける。だが、『絶望』の影は盾となって熱線の尽くを遮断した。盾に当たると同時に熱線は細い線となって拡散し、周囲を蹂躙しているが、魔女本人には一切届いていない。
「マキナ! あいつは……!」
「夜の魔女、なんですよね! シャル様を取り込んでいて、『絶望』の魔法ってやつを使ってくる!」
「知ってるのか?」
「この王宮の中でのやり取りとか記録とか、なんか頭の中に入ってくるんです! たぶん、ソフィ様のおかげで取り戻し始めた『マキナ・オルケストラ』としての権限だと思います!」
マキナは左半身で銃撃を続けながら、俺に右手を差し出してくる。握った指が広がると、その中にはいくつかの指輪が。
「エリーヌさんから預かってきた予備の魔指輪です! 使ってください!」
「……っ! 気が利くじゃねぇか!」
「これでもアル様のメイドですので」
手持ちの魔指輪は全て『絶望』の影によってその力を喪失されてしまった。
だが、マキナがここまで運んでくれた予備の魔指輪があればまだ戦える。
「『強化付与』、『加速付与』、『大地魔法壁』に『火炎魔法球』……十分だ!」
流石に『王衣指輪』はないか。
「…………」
マキナから受け取った指輪の他に、もう一つ。エリーヌから預かった、シャルのために造られた『王衣指輪』を指にはめておく。俺が使えるわけじゃない。それでもこれをシャルに手渡さなければならないという目的を果たすために、忘れないために。お守り代わりに、右手につけておく。
「それで、シャル様を救う手立ては?」
「……正直、今のところは見当たらねぇ」
「……でも、諦めてないんでしょう?」
「当たり前だろ」
マキナから受け取った指輪を装備し、弾幕に包まれている夜の魔女を睨む。
「絶望的だろうと諦めるつもりはない。……それに、俺は信じてる」
「シャル様を……ですよね?」
「……ああ。あいつらはシャルの心を砕いたって言ったけどな。仮にそうだとしても、俺はシャルがこのままで終わるとは思っていない」
俺だって諦めたことがある。足を止めていたことがある。
だけどシャルは、たとえ何度転んだって、立ち上がってきた。
「俺の知っているシャルロット・メルセンヌは、昔から何度転んでも立ち上がる女の子だ」
「…………シャル様が羨ましいですよ。アル様にそこまで言ってもらえるんですから」
「…………マキナ」
「大丈夫ですよ。分かってます。アル様の気持ちは。……それにわたしだって、まだ諦めたわけじゃありませんから」
「えっ?」
マキナは熱線を撃ち続けながら、華麗にウインクを決めてみせた。
「諦めるなって言ってくれたのは、アル様じゃないですか。だからわたしは諦めませんよ。自分の命も、人生も……恋も」
「お前……」
「これからは覚悟しちゃってくださいね。こうなったら側室狙いで攻めちゃうので」
「…………お前には、負けるわ」
どうして俺の周りの女の子たちはみんな、俺よりも逞しく立ち上がるんだろうな。
「それで? シャル様がこのままじゃ終わらないって前提で、どうするんです?」
「とりあえずはあの魔女をぶっ倒す。そんで、その過程で何か希望を見出すことができれば、シャルを助ける」
「分かりやすくていいですね。それじゃあ……ここからは全力で攻めまくるってことで!」
マキナの右半身が輝きを帯び、鋼鉄の装備が構築されていく。
「『機械仕掛けの女神』!」
その身に纏うは鋼の殻。否。それはかつての形態。
「わたし、ちゃんと謝らなきゃいけないんです。皆に、アル様に……シャル様に」
顔を覆う鋼は砕け散り、その素顔を露わにした。
「みんなに謝って、ちゃんと前に進む。そのためにはお前が邪魔だ! 夜の魔女!」
☆
「気になりますか? 弟さんの戦いが」
「それよりも今は、君と二人きりで居られる幸せを噛み締めたいぐらいだ」
「戯言を」
ルシルの身体から迸る漆黒の魔力がうねり、渦巻き、彼女の指で輝く指輪へと注がれていく。
「……『レグルス』の『王衣指輪』か」
「ええ。アナタの腕を引き千切り、奪った指輪です。とはいえ……この指輪の中に既に精霊はいませんがね。わたしの手に渡った瞬間から、精霊は逃げ出してしまったので、ガワだけですが」
「構わないさ。腕も、指輪も、君が望むならくれてやる」
今のレオルにとっては恨むようなことではない。腕を奪われたことも、『王衣指輪』を奪われたことも。
「へぇ。それは随分と気前がいい。『レグルス』と再契約したと同時に王者の誇りでも取り戻しましたか? まァ……」
ルシルの視線はレオルが纏う霊装衣は以前よりも損傷が蓄積した状態であり、大剣も半ばから折れている状態だ。以前アルフレッドと戦った時とは異なる状態であることは明白だった。
「……その様子だと、随分と傷ついているようですが」
「そうだな。オレの心は確かに傷ついた。だがそれは、弟に負けたからではない。君という最愛の人を失ったからだ」
「まだ言うか」
「何度でも言うさ」
「……つまらない男になったな、レオル・バーグ・レイユエール。以前のお前は、もっと楽しく踊ってくれた。今のお前は見ていることすら悍ましいほど、退屈な存在に成り下がった」
十分すぎるほどの魔力が注がれたルシルの指輪が禍々しい輝きを放つ。
「精霊が消失したとはいえ、指輪そのものは最高位の魔法石を用いて製作された『王衣指輪』。『混沌指輪』の器としては申し分ない……いや。ロレッタやリアトリスが使うものよりも、より精度の高いものに仕上がった」
指環から溢れるその闇の魔力の鳴動は、どこか獅子の咆哮を思わせる。
「咆えろ、『黒獅子』」
指環から出現したのは、たてがみをなびかせた漆黒のレグルス。
その形状はレオルの精霊と瓜二つ。相違点があるとすれば、禍々しい闇に染まり、獰猛な紅蓮の瞳を輝かせていること。そして黒きレグルスはルシルの身体に纏い、漆黒のドレスとなって咆えた。
「お前の精霊の残滓で作り上げた疑似精霊。言っておくが、わたしの『黒獅子』は、『六情の子供』において最強にして最高の性能を持つ。アルフレッドに敗れたお前が勝てる相手だと思うなよ」
「君に勝つつもりなどない」
ルシルが持つのは、かつてレオルが振るっていたものと同じ形状であり、漆黒に染まった大剣。対するレオルは、半ばから折れてしまった刃。
「オレは惚れた女に、変わらぬ愛を伝えに来たのだから」
「それが戯言だと言っている!」
ルシルが刃を振るい、レオルはそれを正面から受け止める。
火花が散り、咆哮が如き叫びが帳の中に満ちた。