終幕
黄金姫の演説から時は前日にまで遡る。
水曜亭の母屋には夜も深まるこの時間、窓辺に映る灯火は一つだけ。戸口の扉の隙間から漏れる明かりで察するに、それが寝室では無く広間である事が窺える。
裏庭を挟んで建つ宿はと言えば、本来であればこの時刻、多くの客たちで賑わい喧騒の内にある筈なのだが……厨房からは火が消え、誰の姿も見られない宿の一階は深い闇に包まれていた。無論その原因は明らかで、クロムウェルの失踪以来、主であるリサが店を閉めていたゆえである。
それでも宿である以上、泊まり客への対応はせねば為らず、日中に給仕の女性が清掃と食事の支度で幾度か出入りはするものの、リサ自身が宿に姿を見せる事は一度も無く、事実上の休業状態が続いていたのだ。
そんな静まり返る母屋の入り口に、扉の外に、少女は一人立つ。
エルリックは公邸に、ニコは負傷したロイの付き添いで医者の下に行っている。此処まで共に来たカイルもまた、後は一人で叱られて来い、と背中を押して去ってしまっていた。ゆえにこうして一人取り残されたクロムウェルはと言えば、
「ふむっ……まさか宿を閉める程に激怒しておるとは」
と、扉を前にして困り果てていた。
リサは怒っているのだろうな、と当初から覚悟はしていたが、まさか仕事が手に着かぬ程に激怒しているとは流石に想像を越えていた。だからこそ、適切な謝罪の言葉を探すクロムウェルは石の様に固まってこの場から動く事が、次の行動に移す事が出来ずにいたのだ。
が、許されるかどうかは別にして、このままでは埒が明かぬのも事実……ゆえにクロムウェルは覚悟を決めてゆっくりと母屋の扉を押し開く。
開く扉の先、初めに目にしたのは広間のテーブルの上に並ぶ料理の皿の数々。それはこの一月の時の流れの内で慣れ親しんだ『二人分』
続き映る光景は椅子に座るリサの姿。しかし覚悟した鬼の如く形相のリサの姿は無く……テーブルに肘を預けたまま頭を抱えて俯いている、クロムウェルの『知らぬ』儚い女性の姿が其処にはあった。
「リサ?」
扉が開かれても無反応であった女性が……クロムウェルの声に反応して顔を上げる。
瞬間、戸口に立つ少女の姿を目にした女性は眼を一杯に広げ、瞳に涙を滲ませながら、立ち上がる勢いで、がたん、と音を立てて椅子が倒れ、
ふむっ、これは仕方が無いな、
と、此方へと駆け寄って来る女性の、リサの姿を目にしたクロムウェルは思う。
人間が動物である以上、躾とは欠かせぬモノである。
そして躾の上で言葉で言って聞かぬモノに痛みでそれを教え学ばせる行為は道理に敵う適切な手段。前回とは異なり今回は一方的に自分に非があり、クロムウェルはリサに叩かれる理由を理解していたが為に敢えて身体の力を抜く。
が、瞬間、訪れる筈の頬の痛みは無く、逆に何かに包まれる如く感覚と共にその頬には暖かな温もりが伝わり……クロムウェルは自分がリサに抱き締められている事を知る。
「おかえ……り、クロム」
「何故だリサ? 怒っているのでは無いのか?」
頬に触れる柔らかなリサの胸の感触に、嗚咽で途切れるその声に、行為の意味を、言葉の意味を分かっていても、何故許されたのかが理解出来ないクロムウェルは不思議そうにリサに問うていた。
「あんたは……クロムは何も悪くないだろ……悪いのは全部あたし……」
「それは道理に合わぬぞリサ、忠告を聞かず勝手をしたのは我なのだからな」
「クロム……子供はね、無茶をするもんさ……けど、それをちゃんと諌めてやるのが大人の務め、責任てやつなのさ、だから責められるべきはあたしなんだよ」
ごめんね……本当に無事で良かった。
と、強くリサはクロムウェルを抱き締める。
「我には分からぬよ……リサ」
「それで良い……良いんだよ……何時かクロムにも分かる日がきっと来るから……」
リサに優しく髪を撫でられる感覚に、クロムウェルは黙って瞳を伏せる。
親が子に抱く想い。
リサが言うように本当に分かる日が、理解出来る日が来るのであろうか。千年の時の果て、その記憶を引き継いで尚、理解し得なかったその想いを。
神の座を目前に『道具』に喰われる事を望んだ『創造主』の心を。
自らの死を予見しながらも子を生むことを選んだリディアの実母の選択を。
「リサに頼みがあるのだが、聞いては貰えぬか?」
「何だい改まって……ああっ、お腹が空いたんだね、待ってな、今料理を温め直すから」
その言葉の節から、大食いである事を知るリサが何時戻るかも……最悪の事態を想定すれば二度とは戻らぬ自分の為に、それでも毎日料理を作り待っていてくれたのだろう事を察したクロムウェルは、名残惜しそうに身を離すリサの手を、今度は自らの意思で掴み留める。
「リサ……聞いて欲しい。我の本当の名はリディア……リディア・クロムウェル」
例え全ての真実を話したとて人の身では理解が及ばぬだろう。
「クロムウェルは亡き母から授かった名だけれど、きっと明日から皆は我をこう呼ぶだろう……リディア・メレク・アリステイアと」
けれど或いはリサならば、求めていた答えを授けてくれるかも知れない。
「厄介事も隠し事も多い我が身ゆえ、リサにとっては甚だ迷惑とは知りながら……それでももし叶うのならば、我をリサの子にして欲しい」
決して届かぬと、叶わぬと知りながら、それでも手を伸ばし挑む事を止めぬ人の強さ。それはリディアの記憶に触れ、全てのやり直しを誓ったあの日に人間から教えられたモノ。
リディアが道具でしかない自分に願いを託して逝った様に、もしも主が何かを託していたのなら、道具の分際でおこがましいと嘲られようが……それでもソレを知りたかった。
クロムウェルの独白に、流れる沈黙は一瞬で、
リサは握られた手を引き寄せ、もう一度クロムウェルを強く抱き寄せる。
「聞かなきゃならない事は山程あるし、あんたは手の掛かる糞餓鬼だけど」
でも、良いよ。
と、リサの瞳に溢れる涙が滴となって溢れて落ちた。
第一部はこれで完結です。
皆様のお陰で此処まで書けました。本当に感謝です。
拙い文章ですが引き続きお付き合い頂ければ幸いです。




