寝言は寝ても言わないで
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
ふああ〜。ああ、つぶつぶ、おはよう。
というか、何。人の顔見て、笑いかけるとか、失礼じゃない?
――顔に落書きされてる?
くあ〜っ、ホント?……あら、ホントだ。
やだも〜っ、ウチの女どもはいい年こいて、中身が子供なのよね〜。ちょっと待って、洗ってくるから。
はああ。おでこやほっぺた以外に、まぶたにも落書きされてたわよ。やんなるな〜。
あれよ、あれ。目を閉じていても、開いているかのように見えるペイント。片方ずつ目をつぶって確かめたわ。
私、特にこの落書き、不快なのよね。あまりいい思い出がないわ。
まだ朝ご飯まで時間があるでしょ? その間で、ちょっと聞いてもらえない?
閉じたまぶたに落書き。初めて出会ったのは、小学校低学年の時だったかしらね。クラスの男子のひとりが、実際にやっていたの。
最初のうちは、書かれた目があまりにお粗末で、先生にもすぐにばれる有様だったわ。
それでも彼は懲りず、今度はクラスで一番絵が上手な女の子に、目を描いてくれるように頼んだわ。まぶたの開閉をしても、色が落ちたり、にじんだりしにくい画材を自分で用意してね。
女の子も面白半分で引き受けたらしいけど、いざ取り組むとなると真剣。私が日直で、たまたま早めに登校した時も、もう二人は教室にいて、細工を施していたのを覚えている。
あまりの熱心さに、私たちはその協力体制を先生にチクったりはせず、静観の一手。時間と共に、技巧はますます際立つようになって、数ヶ月後には、目を開いている時と、ほとんど区別ができなくなっていたわ。
けれど先生は、知りながらあえて付き合ってあげているのか。授業中、手を上げていない彼に、ふいっと抜き打ちで当てる時があるの。
彼も起きている時はちゃんと授業を聞いている人だから、答えられる。だから答えられないと、先生がつかつかと机のそばにやってきて、こめかみをぐりぐりぐりぐり……彼は飛び起きて、私たちは忍び笑いをするという、ほとんど芝居のごとき状態よ。
今、考えると、ここで事態を面白がっていないで、止めに入っていれば良かったと思うわ。
ある日。たまたま先生に一度も怒られることなく、彼がやり過ごすことのできた時のこと。
この頃、彼がその日、授業でどれだけ起きていられるか、どこで眠るのかというのは、もはや私たちの間でちょっとした賭け事になっていたわ。
的中した側に、外した側が10円チョコをおごる、という具合にね。眠気の意図的な操作を禁止するため、賭けを行う日は、彼が自分から話しかけてこない限り、こちらから声を掛けない、必要なこと以外で長話しない、という取り決めになっていた。
その日は一時間目から体育があって、彼も存分に走り回る。疲れのためにどこかしらで眠るだろうから、この日はどこかしらで眠ることに賭けるのが定石。
でも、私は逆に賭けた。彼がずっと起きていられることに。ほんの気まぐれで。
そして、勝ったというわけよ。
一人勝ちした私に負け犬たちはぶうぶう文句を飛ばすけど、遠吠えに付き合ってやる筋合いはない。今日のランドセルの中身が、10円チョコでいっぱいになるのをイメージしてほくそえみつつ、私はこのたびの栄誉をもたらしてくれた立役者に、礼を言おうとする。
ウチの学校だと、最後の授業コマが終わった後は、先生がいったん職員室に戻っている間に日直が準備をし、改めて先生がやって来て、帰りの会を行う運び。それまではしばしの歓談タイム。
彼はというと、ベランダ側にある四枚の窓のうち、一番後ろの席に近いものを開けて、へりに手をつきつつ、じっと外を眺めていた。
「今日はありがと。おかげで大勝ちしちゃった。次もよろしくゥ!」
こんなことを言って、肩を叩きながらねぎらうつもりだった私。昔から、自分中心だったからねえ。
でも、いざ近づいてみると、彼は小声でぶつぶつ、つぶやいているの。
「まもなくこの駅に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側に下がってお待ちください。この電車は急行……」
私の手は止まる。同時に鳥肌が立ったわ。
このアナウンス、私たちの学校からほど近い駅で実際に流れているものなんだ。何度も耳にしたことがあった。
私が怖さを感じたのは、ウチの学校にもある、特別支援学級にいる児童と、同じ空気を感じたからなの。
一度、授業で説明されたわ。彼らは電車の中で突然騒いだり、ひとりごとを繰り返したりすることがある。
でもそれは、彼らが自分を落ち着かせるために、必要なことをしているのだと。だからそのことで、できるかぎり線を引かないようにしてほしい、とも。
けれど、私は怖かった。ずっと前、おつかいのために一人で乗った電車の中で、私は今の彼と同じく、駅のアナウンスを何回もつぶやいていた大人の男性に、いきなり抱きしめられたことがあったの。
とっさに何をされたか分からず、動けないまま、そり残しのあるひげで、じょりじょりと頬ずりをされたわ。お父さんとは違う、鼻の詰まりそうな臭いもこすりつけられた。
それからどうしたのかは、はっきりと覚えていない。気づいたら、お父さんの運転する車に乗せられて、家へと向かっていたの。それから、ひとりごとをつぶやく人を見つけると、反射的に身を引く癖がついちゃって……。
「気持ち悪い! やめて!」
ねぎらいの言葉の代わりに、私は非難めいた声で、彼の肩を思い切り押す。
彼の身体がぐらりと傾ぎ、周りのみんなが「何事?」と言いたげな目を私に向けてきた。そして気づいたの。
彼の「目」が開き、本当の「目」が出てきた。あのアナウンスをしていた時、彼は目を閉じていたの。
身震いする彼。それは居眠りしていた時、支えとしていたひじや、足のももなどがずれたりして、一気に目が覚める時の震えに似ていた。
「っと、びっくりした。寝てたかあ……ん? どした? 何か用?」
彼は心底不思議そうな顔と口調で、私を見つめながら尋ねてくる。
――あれが、全部寝言? いや、そんなはずない。目を閉じただけで実は起きてたんだ。それを今、初めて目が覚めたかのように振る舞っているだけなんだ。悪ふざけなんだ。
それからの帰りの会も、みんなからの10円チョコも、なんとなく流していく私。というのも、私の頭の中で有名な言い伝えが、ぐるぐるしていたから。
「人の寝言に、返事をしてはならない」と。
私は家に帰るや、言い伝えを話してくれたおばあちゃんにすがりついて、事のてんまつを話したわ。うんうん、とうなずきながら聞いていたおばあちゃんは、やがて口を開いたの。
「一言だけ、言葉を交わしたのなら、一晩、黙っていれば大丈夫じゃ。でも、あんたには前のことがある。あの案内の文言がよぎることがあれば、それだけでも恐ろしかろう。
一番良いのは楽しいことを想像するか、お話を読むこと。特にお話はええぞ。お話はそこに書かれたもののみを読むことにより、言葉で身体も心も守る。お坊さんのお経も同じじゃ。唱えることのみに気を凝らせば、誰も入り込む余地はない」
その晩、私は久しぶりにおばあちゃんの布団で、一緒に寝ることになった。おばあちゃんは枕元にたくさん絵本を用意してくれている。
いずれも、私がずっと前に読み聞かされたもの。それを今度は、おばあちゃんと一緒に朗読するとのこと。おばあちゃんの布団は大きくて、まだ小さかった私も並んで、らくらく入れる。
私はドキドキしっぱなし。期待ではなく、怖さから。
「もしかすると、お前の関心を引こうとする声がするかもしれない。でも、知らんぷりして、おばあちゃんと一緒に読み続けるんじゃぞ。眠くなったらしめたもの。そのまま寝てまえ。もうけものじゃ」
おばあちゃんは絵本一冊目の「桃太郎」を開いて読み始める。私もペースを合わせながら、ゆっくりゆっくり、物語をたどっていく。
二冊目に差し掛かると、おばあちゃんの部屋の雨戸がガタガタと揺れる。風が吹いてきたようだった。おばあちゃんは意に介した様子なく、絵本を読み続けた。
三冊目、四冊目と時間が経つたび、音はどんどん強くなる。そして五冊目でついに、閉め切ったはずの窓の向こうから、かすかに聞こえてきたの。
「まもなくこの駅に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側に下がって……」
読み途中の私は、思わず口を止めようとして、おばあちゃんに耳を軽く引っ張られたわ。
おばあちゃんは黙って首を振り、あごで絵本を指し示す。私は気にしないように、気にしないようにと、絵本に意識を向け続けた。
「この駅には、止まりません。この駅には、止まりません。この駅には、止まりません……」
「ザザアッ」という音も交えて、同じ部分のフレーズを繰り返すようになる、アナウンス。
私もまた、話の中身など何も入ってこず、ただひたすらに絵本を読み続けたわ。何十冊も積まれた絵本の山がどんどん崩れ、二週目に入ると、アナウンスはちょうど駅から車両が遠ざかっていくように、フェードアウトしていったの。
私がほうっとため息をつくと、おばあちゃんが立ち上がって、雨戸をちょっとだけ開いて見せる。もう、空はかすかに明るくなり始めていたわ。
ほとんど寝ていないにも関わらず、眠気はほとんどないまま、登校した私。今日は彼とメイクアーティストの彼女も、仕事をしていないようだった。
珍しいなと思いつつ、クラスにはいつもの面々が続々と集まってくる。けれど、先生はなかなかやってこない。
本来の時間からだいぶ遅れて現れたのは、今年、学校に来たばかりの授業補助中心の先生。なんでも担任の先生は、昨日の夜中に、急に病院に運ばれてしまったとのこと。
クラス中はざわめいたけど、私自身は、分かる気がした。
昨日、眠らずに受け答えしていたように見えた、彼。だけどもし、あれが全部寝言だったとしたら、先生は私以上の目に遭っちゃったんじゃないかなあ、と。




