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黒薔薇冥府ノ当主様  作者: Bee
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第一章 -魂を運ぶ少女-

 皆様、お久しぶりです。

 前回は名乗り忘れてしまって申し訳ありませんでした。私、黒薔薇冥府の当主を務めさせて頂いております、エクス・ヴァルキュリアです。

 実は先日、九大薔薇冥府の中の一角で、主に魂の運搬を行う〈黄薔薇冥府(きばらめいふ)〉の方に会ってきました。今回はその時の出来事をご紹介させて頂けたらと思います。



 死後の世界〈冥府〉でも雨は降る。青い空を覆い尽くす灰色の雲も、雨を横から吹き込ませる風も、肉体を帯びた魂がいる〈現世〉とは何ら変わりがない。それを楽しむ人もいれば、憂鬱に思う人もいる。そこもまた変わらないのだろう 。

 黒薔薇冥府の巨大な屋敷の13階、部屋の窓に伝う雨水をなぞりながら、エクス・ヴァルキュリアは三日月を描く口でため息を吐く。


「雨って素敵よね」

 

 呟いた声は彼女の口元で溶けるように消える。そして再び耳には心地の良い自然のノイズが入り込んでくる。たちまちエクスは冷たいガラスから手を上に滑らせて、錠も解き、素敵な奏者たちにお目にかかろうと窓を開ける。もちろんそれらは遠慮することなく、絨毯に思い思いの絵を描き始める。こんな光景、双子の兄のキラ・ヴァルキュリアに見つかろうものならたちまち説教を聞かされることになる。いつか暗唱すら出来そうだ。

 だが今その鬼はいない。ならば普段止められていることをやる絶好の機会だ。自らの胸元よりやや高い場所にある窓から、少しでも多く雨粒に触れようと手を伸ばす。せめて肘までは……背伸びをして、片足は浮かせて……。いや、やめよう。手を引き戻す。丸まるように屈む。遅れて、広がるドレスの黒と波打つ銀の髪が降ってくる。頭上を何かが通り過ぎる。やっぱり……と、今度はへの字に曲げた口でため息をつく。


「当たったら危ないじゃない。

それにここは私の部屋よ、ノックを覚えて頂戴」


 それが窓から出ていくのを確認すると、ゆっくり立ち上がって振り返る。

 そこには二つのケーキをトレーに乗せた女中が一人。そして、そこからフォークを一本拝借して手で持て余している兄の姿。


「ったく、雨が降ったからって突然昼飯を放って行くやつがいるか。せっかくデザート持ってこさせたのに一本フォークが地面に突っ伏してるぞ」


 そこで思わずエクスも「誰のせいだ」と反論しようとしたが、咄嗟に言葉を飲む。考えてみれば自分が窓を開けたから起こったことであって……いや、だがあそこで凶器を飛ばしてくる兄も兄だ。と、反論の是非を考えているといつの間にか当の兄はロッキングチェアで体を前後させながらショートケーキのてっぺんを胃袋に収め始めていた。わざわざこんな阿呆(あほう)に声帯を震わせて、口を動かして、声を出すことすらもったいない。

 しかし依然としてキラは動こうとしない。特徴を失ったケーキをただ食べている。ジェスチャーをしたのが労力にはなるが、やはり意思というものは言葉で表現すべきものだ。そこを見落としていた。


「お兄様、どいてくださらない?

そこ、私のお気に入りの場所なの」


 兄はこちらに少し目を向ける。数秒経つ。また目線はケーキに落ちる。そこでエクスは本当に見落としていたものに気づいた。この性悪男には何をしても、言っても結局無駄だということに。ようやく諦めがついた彼女は深くため息を吐いてから兄に背を向けて歩き出す。歩みの先では、普段彼女が仕事用で使っている硬い革張り椅子が待っていた。今となっては慣れてきているが、プライベートでも使いたいかと聞かれれば迷わずそれは否定する。だが今は他に背中を預ける場所もない。少々乱暴に椅子に腰掛け、運ばれてくるケーキを待つ。兄の数々の許し難い所業を今まで許してこれたのも、日々の疲れを癒すケーキがあったからこそだ。これでもしもおやつの時間がなければ、自分はきっとストレスによって消滅していただろう。こうして考えてみると、日常的に当然のように行っていることも重要な生命維持の活動だと思える。では今日はそれに感謝して、いつものように愛しのショートケーキを堪能しようではないか。

 そして視界に入り込むモンブラン。

 私が何をしたのだろうか?いや、確かに今まで目上の者に対しても散々自由にやってきたところがあるかもしれない。だがそのツケが今ここで回ってくる必要があるだろうか。一気に回転し出し余計に糖分を欲する脳は、自分の瞳に女中の顔を確認せよと命令してくる。そして従った暁に見えたのはつい最近入ったばかりの新人の顔。制服姿も少し見苦しく思えるような中年の彼女は、以前の勤め先でやたらベテランだったのか涼しい顔をしたまま、自分の行いの正確さを見出している。違う、違うのだ、お前は間違っている。本来は兄よりも私の方へ、先にショートケーキを寄越すのが正しいのだ。あのポンコツな阿呆にこそ、これを渡せばよいではないか。お前は間違っているんだ!

 と耳から漏れ出してしまいそうなほど脳内で響く声は怒りと悲しみと憎しみで満ち溢れていた。比率でいえば怒りが三、悲しみは一、憎しみは六だ。しかしそれはあくまで彼女の思考の中の寸劇。実際にとった行動は大人しく目の前のモンブランを受け入れることだった。まぁ糖分は糖分だ。メインディッシュの栗は残して、土台から片付けていこう。だが出来ない。フォークは兄が13階下に投げ捨てた!女中も取り替えを持ってくる気配はない!こうなったのも全て兄のせいだ。おそらくケーキをあの新人に用意させたのも兄の図らいだろう。もうストレス解消はいい、逆にストレス死が近づいただけだ。ならば糖分ではなく、仕返しという方法でストレスを発散しよう。


「お兄様、確か今日は特にお仕事なかったのよね?」


 なんとか平静を保ちながらエクスは兄へ声をかける。飽きられたスポンジだけが残る皿から顔をあげたキラは、しばし考えた後曖昧に頷く。


「実は私、このあと十三時から黄薔薇冥府の領地である港町〈ハンブート〉に行こうと思っているの。用心棒さんをスカウトするためで、匿名だけれど既に手紙は送ってあるの。

お兄様、同行してくれるわよね?」


 その言葉に兄は思わず「えぇ〜……」と倦怠感の滲み出た情けない声を出す。そこに妹は指を向けて空気を掻き回すように動かす。一見相手を蜻蛉(とんぼ)に見立てて目を回そうとしているような光景だが、指の軌道を目で追ったキラはたちまち真っ青になる。彼にはしっかりと見えたのだ「ポ」「エ」「ム」の3文字が。

 少し目線を上にあげると、「満足」を顔に書いたエクスが笑みを浮かべている。そこでようやく兄は、妹が償いを求めていることに気づいた。


 こうしてキラは雨の中エクスに連れられて、黄薔薇冥府の中でも観光場所として人気がある港町のハンブートに向かった。スーツケースにはおよそ二泊を見越した衣服や、金銭を詰め込んだ財布。キラは小型の武器ケースを詰め込まれる。もちろんそれを引きずって行くのは兄の役目。妹は涼しい顔をしてその前を先導していくのだ。


 今回の目的地である港町は、港というくらいなのでもちろん海に面している土地だ。〈黄泉の大海〉という名の大海原には〈黄泉の河〉の水が流れ込んでいる。ハンブートはその河とも隣合っている。

 黄泉の河は紫色という異様な色をしており、河べりには点々と桟橋がある。そこへは現世から旅立った亡者を乗せた船が到着し、黄泉の世界への玄関口となっている。そしてその乗客の人数や、黄泉の河と黄泉の大海、そこを走り回る船の管理等は全て黄薔薇冥府が担っている。ちなみに船は河の流れに対して垂直に進むのだが、かかる時間は片道およそ三時間。現世のように自分で動いてくれる船ではなく、せいぜい大人が六人ほどしか乗れない木舟だ。汗水垂らした船員が(かい)で漕ぐしかない。そのため黄薔薇冥府で黄泉の河周辺に新たに配属された職員は研修も兼ね、船漕ぎが最初の仕事となることが多いのだそうだ。

 また最近では、戦の世界とも言われている〈修羅〉に亡者を運び込むのはいかがなものかと一度デモも起こっていた。だが未だに亡者が、冥府でのはじめの一歩をここで踏むことになっているのは、結果としてそれが失敗に終わったからだろう。

 そしてここの特徴はこれだけではなく、ハンブートは黄泉の河の対岸の土地の〈シーグン〉と鏡合わせのような地形を持っている。そのためもちろんシーグンも大きな港町とはなっているのだが、まだ黄泉の河を渡らない亡者は立ち入り禁止区域も指定されている。

 というのが、キラの知り得る黄泉の河の情報だ。エクスはさらに、そこで起こったその他多くの事件や、住み着いている生物や植物、周辺の建造物すらも頭に入っている。


 2人はここに来るまでに一度黄薔薇冥府の屋敷に寄っていた。今回のターゲットは黄薔薇冥府に所属しているらしく、獲得するために人事移動の許可を貰わねばならない。そしてエクスはそれをたった今取ってきたらしい。筒のように丸めた許可証をポシェットに収めるエクスを見ながら、キラはいつも通り呆れたため息を吐いた。おそらくこれが黒薔薇冥府の当主でなければ、30分で許可証を持って出てくることは不可能だっただろう。

 時間は既に14時48分。15時には目的地に着きたい。潮風と河周辺の独特の空気を感じながら、小走りで向かう。雨の日だというのに人々は傘を片手に港町を行き交っている。たまに肩がぶつかって謝りながらも人の波を縫っていく。目指すは黄泉の河の周辺管理を担うチームの本部だ。


 2階建ての白い建築物は、見た目こそ一般のロマネスク建築のようなくすんだ灰色の建物だが、門の上で交差された鎌の装飾は明らかに現世のものとは違う空気を醸し出していた。他にもローブを身にまとった骸骨や、恐怖を顔に浮かべた人間の彫刻なども見られる。その様に思わず「どうして冥府本場の建築物なのに、現世の人間の想像のような死神がいるのだ」と言いたくなる。別に死神はそこまでおどろおどろしくはない。

 扉に手をかけて引くと、巨大な見た目とは相反して軽く(ひら)いた。

 そこから一歩足を踏み入れると、まず感じたのは汗の臭いだった。それもそのはずで、本部の中を制服を着た職員がせっせと通路を行き来しているのだ。見える範囲の職員は逞しすぎる体格の男性のみで、比較的涼しいといわれているこの場所でも汗をかきながら動いている。これならば、ここに来るまでにかいた自分たちの汗を気にする必要はなさそうだ。その職員の熱気のせいで室温はサウナのように暑かった。しかしそんな彼らは魂を運ぶ仕事をしている、いわゆる死神という存在だ。本部の外壁の彫刻にあった、あの薄汚い布を羽織る骸骨の本当の姿だ。


 今回エクスが狙っている用心棒はこの男臭い職場の中、まさに紅一点というべき女性。さらには丸太のような四肢を持つ職員を統べる、本部のリーダーらしい。もちろん事前にその事を知っていてエクスは彼女を選んだ。


 早速活気と熱気の中に足を踏み入れ、中央のカウンターで事務仕事をしている職員の元へ向かう。まさしく力仕事をしていますというような別の職員は、そこで次の仕事の指示を熱心に聞いている。そこに混ざり、比較的細身の男性受付員に話を通す。待ち時間はおそらく10分ほど。その間、2人はアリの巣さながらの社内をを見ていた。しかし気付けば、天井に等間隔に吊り下げられたシャンデリアを見つめていたようだ。視界の中に光の残像がまだ居座っている。案内された部屋の扉は黒薔薇冥府の屋敷とは違い、リーダーの部屋とは気づかないほど周りと同じ作りとなっている。潮風の影響のせいか、縁が腐り始めている。いや、あの男どもの発する熱気のせいでもあるかもしれない。だが部屋に入ると、あの鼻の曲がりそうな臭いは一気に消え去り、代わりに嗅覚を刺激したのは薔薇の香りだった。

 それもそのはずで、部屋の中にあるインテリアにはほぼ全て黄色い薔薇が巻きついている。どうやらツタにトゲはないようだが、真似をする気には到底なれない。黒いダイニングチェア、白いローテーブル、部屋を黄色く照らすシャンデリアにもツタは自由に泳ぎ回っている。

 そんな幻想的な空間の中心で1つの影が立ち上がった。そこには白いリボンで束ねられた、先端が渦巻く金色のツインテール。眼帯で覆われた左目。唯一覗く片目は髪と同じ色にらんらんと輝く。九大薔薇冥府の位の高い者が身につけるポンチョ。死神とは思えない愛らしい風貌だ。何より驚くべきことは、彼女はエクスと同い年かそれより年下の少女ということだった。


「初めまして、(わたくし)黄薔薇冥府の56代目当主ニュクサの娘、そして黄泉の河管理チームのリーダーを務めております、タナトレア・マートレスと申します」


 はきはきと大きな声で名乗る少女は背後に薔薇ではなく、向日葵(ひまわり)が見えるかのような笑顔を向ける。


「初めまして、私は黒薔薇冥府32代当主のエクス・ヴァルキュリアと申します

こちらは双子の兄で同じく黒薔薇冥府32代当主のキラ・ヴァルキュリアです」


 エクスが一礼し、続けてキラも頭を下げる。

 以前の龍剣冥府との面談とは正反対の和やかな空気が満ち溢れる。要因としてはタナトレアが年相応の可愛らしい微笑みを絶えず浮かべていたからである。我ながらいい人材に会えた。エクスはこっそりと胸の中で独りごち、1度座ったもののすぐに立ちあがる。そのまま少女の前に置かれた机に勢いよく手をつく。知っている、彼女にはこのやり方が最もだ。


「単刀直入にご用件を申しますと……あなたのお父様の許可は頂いているので、ぜひとも私の直属の用心棒になってみませんか!?」


 まさに自己中心的な言動。現にタナトレアは突き出された許可証を呆然と見つめているだけだ。音もなく時間だけが流れる。さすがのエクスもその様子には助け舟を出す。元凶が助け舟を出すというのもおかしな話なのだが。


「あ、一応申しますと許可を頂いているのみで強制ではないのでご安心ください

 断ってくだされば私共も下がりますので」


 そう言ってしまったからには、キラはNOしか返ってこないと考えていた。なんとか落ち着きを取り戻した彼女も難しい顔をし始めている。そしてそのまま、少し小さな声で話す。


「では……上から物を言うようで恐縮なのですが、交換条件ならば……」


 諦めて帰ることの何千倍もマシだ。もちろん覚悟はできている。


「はい、できることならばなんでも致しましょう!!」


 よっぽどタナトレアを用心棒として迎えたいのか、目を輝かせてさらに前のめりになる。既にタナトレアは後ろに反りすぎて、背もたれが背中にめり込んでいる。キラはただただ妹の愚行を見つめていた。


 そして出された条件というものは、現在黄泉の河管理チームで問題になっている事件の解決だった。期間は特に問わないらしい。

 その事件の名は至ってシンプルな「黄泉の河 亡者失踪事件」。その名の通り、黄薔薇冥府により冥府へ運ばれる予定の亡者が消えてしまうというものらしい。

 さらに詳細を聞くところによると、黄薔薇冥府は毎日運ぶ予定の亡者をリストにまとめているらしいのだが、その数がどうにも合わないという。亡者の数を数えるのは、まず船に亡者を乗せる時、そして運び終わって降ろす時だ。

 主に警察のような役割を担う白薔薇冥府の考えでは、何者かが亡者を船に乗る前に逃がしていることになっているらしい。というのも、失踪している亡者は全て罪を負った罪人だったらしく、船に亡者が運び入れられた時には既に人数が足りなかったという。

 しかしそれならば、船乗り場側を徹底的に捜索すれば白薔薇冥府の実力で解決出来るはずだが、そうもいかない理由がある。それが、確かに船乗り場で数えた時に亡者の数は減っているのだが、船着場では予定通りに戻っているそうだ。


 という事件の詳細を教えて貰いながらエクス達がまず向かった先は船着場だった。そこには本部にいたような汗臭い船乗りがわんさといた。ここと本部の職員で制服以外の違いは一切見当たらない。

 実際に運ばれてくる亡者の元へ行ってみると、船から下りて冥府の土を一歩踏みしめたその瞬間に職員はリストにチェックを入れている。リストといっても亡者の名前が書かれているわけではなく、ただ人数を数えるためだけの表という具合だ。

 そのままタナトレアの許可で、全て亡者が降りた船をシーグンに送り飛ばすための、いわゆる"回送便"に乗せてもらえることになった。

 昔はタナトレアもいつかリーダーになるとはいえど、船漕ぎの仕事は2年間やっていたという。それ故か、本来ならば3時間かかる運航も脅威の半分、1時間30分の到着に同船していた新人職員は身を縮こませている。久しぶりの力仕事で、タナトレアもいいストレス発散になったようだ。顔には大きな向日葵が咲いている。


「それで……これが例のメモです」


 船から降りた後にタナトレアから受け取った1枚のメモ用紙。そこには地図と文字が書いてあった。船乗り場の近くで不審な残留消痕(ざんりゅうしょうこん)が発見され、それを復元したところ、これが出てきたらしい。

 残留消痕とは、不思議なこの世界の不思議な力の一つである。この世界では特殊な現象を使うことによって、小さい物ならその場で消滅させることが出来る。その後、その場所に発生するものが残留消痕なのだ。見た目としては蛍の光のような、球体の青白い光が一所に固まっているもので「青い蛍」とも呼ばれている。そしてそれは、時間が経つにつれてどんどん薄くなっていく。しかし最近では、その残留消痕から消滅されたものを、復元させることが可能になっている。つまりこのメモは犯行現場で見つかった大事な証拠品というわけだ。

 メモに書かれた地図はどうやらこの港の近くの土地を指し示したものらしい。有名な大通りから伸びている細い路地の奥に印がつけられている。

 地図の下には、

「貴様らに死後の裁判によって下されるのは永劫の罰である

それから逃れたくば示された場所で待機せよ」


 という文章が書いてあった。


「なるほど……では今からその示された場所に向かうのですね?」


 エクスがタナトレアに向き直る。


「はい、それではこちらです」


 再びタナトレアが先導して港町を歩いていく。地図にある通り、古風な喫茶店の横から続く裏路地に入る。ここまでは爽やかな潮風も届かず、じっとりとした潮臭い空気が押し込められている。奥に進むにつれて建物も次第に腐敗や虫食いが見られるようになる。地震が起きれば確実に倒壊は間逃れないだろう。

 そんなことを考えながら辿りいた先は、少し開けた小さな港だった。自分たちが立っているこの路地を中心に灰色のレンガ石が敷き詰められ、そこから申し訳程度の極小桟橋が小さな池に脚を浸している。そこに麻縄でつなげられた舟が息を殺すように、小さな木製の体を雨によって波紋が描かれる水面に浮かべている。単位も「一艘」ではなく「一個」の方がしっくりくる。

 まずはエクスがその小舟に近づいてみる。池は完全なため池ではないようで、奥にこの舟一()が通れるか通れないほどの幅の水路が続いていた。さすがにこの木舟を誰かが抱えてここから水に浮かべたわけではないだろうから、ちょうど横幅……目分量で150センチほどの余裕はあるはずだ。


「ここは黄泉の河の横を流れる細い水路に繋がっているんです

だから恐らく、ここを使って罪を負った亡者たちは脱出をしていたのだと思います」


 舟を調べるエクスの背中に向かってタナトレアが話しかける。

 エクスは頷きもせず縄を引いたり、船底を少し上から押してみたりと、初めて船を見たように探る。

 一方、頭を使うことが面倒なキラは、独特の雰囲気を醸し出す周囲の建物を見回していた。だがその行動にもしっかりとした意味はある。例えば袋小路の場所だと、何者かに狙われる可能性は格段に跳ね上がる。防衛として目を光らせておかねば、少女2人の命は簡単にロックオンされてしまう。今この時のように。

 キラは確かに背後に殺気を感じていた。誰に向けられたものかはわからない。だがジリジリと体を啄む存在に、思わず隠し持ったナイフに手を添える。指の間に一本ずつ挟み、いつでも応戦できる状態を整える。見るなら今だ。振り返れ。急流からピタリと定まった視界の中に、遠くの曲がり角を逃げるように走り去る謎の影が入り込んだ。


「エクスっ、怪しいヤツいたぞっ!!!」


 その一言だけを放って、キラはその影を追っていく。この所派手に暴れる場所がなく、鬱憤が溜まっていたのだ。その速さはまさしく久方ぶりに獲物を追いかける肉食獣のそれだ。


「あっ、キラさんっ!!」


 続けてタナトレアも追いかけようとするがその肩にそっとエクスが手を乗せる。


「大丈夫ですよ、気が済めば戻ってきますから

それに、どうせあれには捕まえられっこありません」


 ですが……と反論をしようとしたが、エクスから向けられた微笑に思わず口を閉ざしてしまった。

 結果からすると、キラはエクスの言う通り戻ってきた。しかもたったの5分で。さすがのエクスもそこまで短いとは予想していなかったようで、途中で雨が止んで用済みになった傘をまるめ、その先で兄の頭を引っぱたいた。キラの言い分は「怪しい影が見えて追っていったが角を曲がった直後に見失った。その後根気よく探したが見つからずに戻ってきた」ということらしい。5分のどこが根気よくだ、と突っ込みをいれたい気持ちを抑えたエクスは踵を返して大通りへと向かい始めた。


「エクスさん、もういいのですか?」


 エクスの急な方向転換に間に合わず、小走りであとをついてくるタナトレアは心配そうな顔をする。すこし萎んだ向日葵。


「大丈夫ですよ、それより……」


 そう言って大海に吸い込まれるように伸びる大通りの先の港へ目を向ける。既に太陽は水平線に半分体を沈めていた。港町は黄金の光で照らされて、人々は眩しさに目を細める。港町では亡者が運ばれてくるだけではなく、漁業も盛んな場所だ。海での仕事を終えた漁師達も次々戻ってきている。最後に水溜まりを残して消え去った雨と、そこに黄金を溶かす夕陽。内陸で、さらにどちらかというと都会のような場所を治める黒薔薇冥府の当主は、その光景に目だけではなく、五感全てが奪われていた。


「ここは黄薔薇冥府の領地の中でも自慢の場所なんです

そうだ、よければせっかくですし、他にもご覧になります?」


 向日葵は陽の光を受けて輝く。元より観光はエクスがここに来る第二の目的だ。時間もまだ17時近く。断る理由はもちろんない。


 まず案内されたのは博物館だった。エクスは嬉しそうに館内を練り歩き、タナトレアはそれぞれの展示物について得意げに説明をしていた。そしてキラはその後をモタモタとくっついて歩いていくのみ。そもそもここは死人が次々と蓄積されていくだけの世界。18世紀の貴族が使用していたとされる道具を紹介したところでマリーアントワネットは驚かない。そのため、自然と展示品の中の人工物の割合は少なかった。それよりも館内を埋め尽くすのは奇怪な色や形、大きさをした道の生物の標本。どれも黄泉の世界にしか生息していない幻想的な種類ばかり。見たことも聞いたこともない標本をその目に収めてはエクスはただただ情報の収集に幸福を覚えていた。

 そんな中、ふと足を止めた彼女の前に鎮座するのは巨大な女性の像だった。絵でしか表せないほどの美しさを持つはずなのに、限りなく現実の人間にも負けじ劣らずの精巧な表情も見せるそれには、不思議と言い表したらいいのか何とも言えぬ奇妙な感覚を伝えられる。白くなめらかな裸体は腹部で大きく穴をあけられ、のぞき込む闇からはアリやクモ、ムカデやヤスデなどの不釣り合いというよりかは正反対の存在が溢れ出ていた。


「あら、これはなんですか……?

 とても大きいけれど……」


 見上げる視界から延びる巨体は10メートル程。天井につきそうな頭部から察するに照明の入る隙はなく、おかれた機器から黄色の光がまっすぐに立ち上がっている。


「これはタナトスという名の神を模して造られた女神像です。タナトスは死を象徴する神で、いわば死神。魂を運ぶ役職につく私たちにとっては大きな信仰対象でもあって、お父様はそんなタナトスになぞらえて私にこの名前を授けたそうです」


「そうなのですね……確かに、この女性とおんなじくらいタナトレアさんは美しいのですもの。さすがは黄薔薇冥府のご当主様。きっとタナトレアさんがお生まれになったころは神の名をいただく人は少なく、勇気のいることだったにも関わらず、その大胆さは彼の偉業にも表れていますよね」


 父のことと自分の名前との両方を誉められたタナトレアは、年相応にはしゃぐのを輝く笑顔でとどめる。その傍らでただ黒く光るアリの目を見つめるエクスは「まるで生き写し」と細くかすれた声でつぶやいた。


「そのお言葉を聞いたら父も喜びます。それにしてもエクスさんは博識ですよね。

噂には聞いておりましたが、私の生まれたころの政情までご存じだなんて」


 小さな一言をかき消した声はまっすぐにタナトレアから放たれる。その声を振り払うようにも見えた左右の首振りを返すエクスは静かな声で続ける。向日葵は首を右に傾ける。



「そんなことありませんよ。永遠の時が約束される冥府(ここ)での、唯一の暇つぶしが情報であると私個人が見出しただけです。黒薔薇冥府の仕事も仕事ですしね」


 仕事も仕事。黒薔薇冥府は九大薔薇冥府の中でも特に必要性を問われることが多い組織だった。娯楽や治安維持、公共施設の管理や黄薔薇冥府の担う魂の運搬とそれぞれの分野で深く関与している九大薔薇冥府は突然いなくなられても困るのだが、黒薔薇だけはそうとも言い切れない。ここだけはただ情報管理組織と謳っているのみで、黒薔薇の領土内で生活している市民はほかの九大薔薇冥府と比べると恩恵を感じることが一切ないのだ。いや、比べなくとも存在意義を確認したくなる。それでも黒薔薇冥府が消えないことにもしっかりと意味はあるのだが、それはまたいつかの機会に紹介することにしよう。ただ一つ言えることは、黒薔薇組織に眠る情報をすべて知るのは神と同じ知能を手に入れることと等しいということだ。そして、その理論で言うならばエクスは今最も神に近い存在といっても過言ではない。


「いえ、とても素晴らしいものです!

 先程も言いましたけど、私が生まれたころの黄薔薇の情勢をご存知な時点で頭も上がらないですから。私の部下なんて誕生日も知らない人が多いので。もしかしてエクスさんは私よりも先にこの世界にお生まれになったのですか?」


「いえ、私は冥府で生まれたわけではなく、現世で肉体から離れた側……つまり亡者なんですよ。だから冥府在住歴はタナトレアさんよりも全然短いです」


 なんていうガールズトークを聞き捨てる兄はただただ欠伸で零れ落ちる涙をぬぐっていた。ぬぐっては手を拭き、ぬぐっては拭きを繰り返していたためジャケットの裾は色濃く変わっている。タナトレアたってのおすすめの観光スポットというので来てみれば、エクスしか喜ばないような生きた獣がいない動物園。もしくは美術館。どちらにしろキラからすると何もない白い空間に放り込まれ5か月が経ったほどの退屈を感じるには十分だった。


 そして博物館から出てこれたのは19時15分。どうやら太陽も退場したらしく、代わりにその場を埋めるのはまんまるのお月さま。本来ならばそろそろお開きかとも思ったのだが、突然聞こえた気の抜けた音でその考えは吹っ飛んだ。


「腹……減ったな」


 気まずそうに笑うキラに、今度はエクスがため息を吐く番だった。しかし、そんな時でも街灯に照らされた向日葵はにっこり笑って2人に手招きする。


「最後に美味しいご飯のお店を紹介しますよ」


 夜でも港町は賑わいを続けている。一定間隔で置かれた街灯の光も、路頭に並ぶ店の明かりでかき消されている。服屋や土産屋、雑貨店と様々な種類があれど、全て客がぎゅうぎゅうに詰まっている。それはこれから向かう食事処も例外ではない。大人しく受付前の椅子に座って待っている間も、キラの腹は限界だと言わんばかりに泣き喚いていた。

 だが待った甲斐もあり、2階席で夜景を見渡しながら食事をすることができた。夜の漁へ出発する船の電灯、灯台から海へ伸びていく光、先程は見上げていた街灯の明かり、その全てを見下ろす3人。現世にはない具材で作られた、タナトレアおすすめの真っ黒なパスタを食べ終える。双子は既に瞼を閉じないよう努めることしかできなかった。調査も明日やることになっている。どうせ後はもう宿に泊まるだけだ、少しぐらい微睡(まどろ)んでいてもいいだろう。そう、宿に泊まるだけなのだから。そこでエクスの瞼は先程必死に寝まいとしていた時の労力の10倍ほどの力で持ち上げられた。使わずとも持ち上げられた。


「……あっ!!私、宿をとっていなかったわ!!」


 全員ではなくとも、隣接する席に着く客の視線は集まった。だが今はそれを気にしている場合ではない。最初はその声量に少し開けたキラの(まなこ)も、言葉の意味を理解すると次第にエクスを睨むように見開かれる。


「はぁ!?そういえばそうじゃねぇか、どうするんだよお前!!」


 ここは修羅でも数少ない観光地、それゆえに観光客は大量にいるであろう。もしかしたら、この店にいる客の8割くらいは観光で来たといってもいいかもしれない。そんな状況のこの町で果たして今更急に寝床を確保出来るだろうか。

 いよいよキラが野宿に必要なものを頭の中でリスト化し始めた時に、2度、3度と聞いた救済の天使の声がまたもや聞こえた。


「でしたら、本部にいらっしゃってください

 仮眠室などがありますのでお泊りできますよ。お二人が構わないというのであればですが……」


「お願いしますっ!!!」


 返答の素早さは垂らされた蜘蛛の糸にすがりつく亡者の如し。そして、いつも喧嘩ばかりの兄妹とは思えないほどのシンクロ率。タナトレアは思わずくすり、と笑いながら頷く。

 申し訳なさと、歳上としてのプライドから勘定を払ったキラが店から出てくる。心地よい海風が程よく体を冷ましてくれる。その風に乗ってきた睡魔はタナトレアにも欠伸を促す。

 もう一度黄泉の河を渡る必要があるため、今度は3時間ゆっくり乗組員に任せハンブートへと向かった。戻ってきた本部では、昼ほどのあかりはついておらず、ほんのりと柔らかな橙の電球がポツポツと室内を照らしているだけだった。どうやらここでは残業をする人は少ないらしく、夜になると自然と仕事を切り上げるムードになるという。実際にすれ違う職員はこれから帰宅するか、仮眠室へ向かっているかのどちらかだ。

 案内された部屋は一般の民家にありそうな一室で、他の部屋は既に満員だったようだ。申し訳なさそうにするタナトレアだったが、すぐさま2人がベッドにダイブするのを見ると安心したように胸をなでおろした。


「それでは、一応明日の8時には起こしに参りますね

こちらの部屋は、お二人がお帰りになるまでご自由に利用していただいて構いませんので」


 部屋の入口で2人を微笑ましく見つめるタナトレアが一言告げる。そこで、そういえば……、とエクスが顔をあげる。


「タナトレアさんはこれからお休みになるのですか……?」


 しかしタナトレアは首を横に振る。


「あとほんの少しで終わるお仕事があるので、そちらを片付けようかと思いまして

 大丈夫です、書類仕事なので私の部屋にいらっしゃってくだされば何かお助けはできます」


 こんな幼気(いたいけ)な少女が残業か……とエクスは少し心が(しぼ)むような感覚を覚える。


「そうですか……うるさいかもしれませんが、あまり無理をするとお体にも障りますよ

 年齢的にも成長期でしょうし、早めにお休みになってくださいね?」


 年長者としての心配の言葉に対して相変わらずの笑顔で一礼すると、タナトレアは静かに部屋のドアを閉めた。それを確認すると、キラは静かに目を開ける。


「ここに泊まること狙ってたろ」


「狙っていたとしても、明日ちゃんと化けの皮が剥がれているか確認しにいかないと 」


 お得意の勝ち誇った笑みを浮かべながら、エクスはベッドに潜り込む。その様を気味悪げに見つめながらキラも背を向けて隣に入る。


「明日は影を探すのか」


 まだその笑顔は消えない。


「推測だけれど、ほぼ確実にあれの正体はつかめたわ

あなたに追われて、今頃怯えきっていたりしてね」


 引っ張られたかのように吊り上がる口角は、もはや自身の勝ちを確信しているようでもあった。彼女の脳内を覗き込むことができる人物は存在しない。例えそれが兄だとしてもだ。

 エクスは、明日行われるサスペンスドラマの主役の探偵になった気分で、どう犯人を追い詰めようか頭の中で台本を書き始めている。兄は話が終わったところで、背後に狂気を感じながら再び目を閉じた。



 翌日、タナトレアは部屋に残された1枚のメモを見つけた。


 ――少し確かめたいことがあるので行ってきます。

 あと、もしかしたらそのまま昨日の人物を確保できるかもしれないので楽しみにしていてください――


 その唐突さに混乱するが、追いかけることなどできるわけが無い。昨日は黒薔薇冥府の当主にああ言われたものの、結局深夜0時をまわってまで仕事をしてしまった。寝ていないわけではないが寝不足気味だ。彼女たちならばおそらく大丈夫であろう。黄泉の河管理チームのリーダーは再び自分のデスクへと向かった。



「上々ね、しっかりと逃げたところは監視カメラに入っている

他にも気になった映像はもらってきたわ」


 タナトレアの不安とは裏腹に、黒薔薇冥府の双子は順調に犯人の足取りを追っていた。

 昨日のあの人影は角を曲がった直後、確かにその存在を消していた。気配を消している訳では無い、それは煙のように空気に溶け込んで消えたのだ。そしてその後にキラが出てきた。

 あのような動きをするのはおそらく幻覚を引き起こす、冥府特有の作用である幻影術式であろう。犯人が自らに幻影術式をかけて、その姿を消しているのだろうか。というより、怪しい人影がしっかりと監視カメラに映り、異様な行動を起こしているというのにそれに気づかない職員がいることが、エクスにとって1番信じられないことだった。


「もう白薔薇の末端なんてアテに出来ないわね

現世の警察だとかの方がよっぽど優秀よ」


 ボヤきながら進む足取りはしっかりとしている。人影は消えて以来、二度とカメラに映ることはなかった。しかし彼女はその犯人を追いかけているらしい。キラもそのことについて「なぜわかる」と聞きたかったが、その言葉は喉から先には出さないことにした。どうせ「秘密」だとか「後でわかる」だとかの返事をもらうに決まっている。蛇足だ。


 そうしてこの港町へ来た時のように、キラはただエクスの後ろ姿を追いかけ続けていく。やはり辿りついた場所は昨日来た裏路地だった。正確にはその入口。見える訳でもない奥の港を見つめるエクスの後ろで、キラはナイフをいつでも取り出せるように構える。言われた訳では無いがわかるのだ。いつだってそうだった。彼女は他者による奇襲を許さない、自らが決戦の場へ行く時以外は戦いなど一切起こらない。しかし裏を返せば、エクスが戦場(いくさば)へ赴くということは戦いは避けられないことを表す。

 今もこうして剣が交じり合い、火花が飛び散る場所を悟り、腹を括っているのだ。だが言ってしまえば戦うのはエクスではない。だから今は背中で語りかけているのだ。今はお前に主役を譲る、と。


「任せとけよ」


 同じく覚悟を決めたことを一言で伝える。少女は静かに暗闇へと歩を進め始めた。

 当然ではあるが、路地は昨日と何ら変わりがない。しかし雰囲気は全く違う。昨日は舞台に印をつけるために来たのだ。舞台の特徴をどう扱って、どう勝利を勝ち取るかを確認したまで。今日は違う。その印通りに、台本通りに動く本番だ。

 いよいよ港が見えてきたところでエクスはその手前の廃墟の扉を開ける。彼女は戦闘はキラに任せるのみだ。序盤は兄に頼り、気が乗れば乱入することもあるが。


「気が向いたら観戦しておくわ」


 そしてそのまま階段をゆっくり上がる音が聞こえる。腐った木をギシギシと踏みしめながら登る音。どこかその音は、あなたなら余裕でしょ、と言っているようでもある。それに当然だ、と答えるようにキラは一人でずかずかと進んでいく。

 小さな港は昨日と同じ静けさが広がっている。しかし、全てが同じではなかった。1つ、昨日はなかったものがある。確かにカメラに映っていた人物だ。全身をマントで覆った男。その影のようなシルエットに対してキラは煽るように口笛を吹く。


「まさに悪役って感じだな、おっさん」


 唯一露わになっている瞳は決して動かず、ただ獲物を見つめるのみ。何かしらのリアクションを期待したキラは、つまらなさそうに舌打ちをする。そしてそれが始まりのゴングとなった。

 余韻すら引き裂くように男はキラの目の前まで接近する。袖から隠し持っていたナイフを取り出す。振り払う軌道は常に獲物の首を狙っている。だがそれすらもキラは踊るように避けていく。口の端をツンと吊り上げながら、ステップを踏んでいるように。右、左、左、軽く屈んでまた右に。ただただ攻撃をかわすだけで、一切こちらからは仕掛けない。そしてそろそろ反撃かと考え始めた時、痺れを切らした観客が拍車をかける。


「早くなさい、時間がないわ」


 もちろん声の主はエクスだ。それも、隠れているはずが窓から身を乗り出している。


「おいお前隠れてろっての!!」


 キラも慌てて叫ぶ。しかし彼女の手にはいつ入手したのか、銀の銃を男に向けている。彼女はキラ以上に凄まじい笑みを浮かべている。これ以上笑ったら口の端が紙のように裂けるかもしれない。わざわざ挑発をする妹を前に、兄は気が気ではない。男が少しでも近づけば、さすがに攻撃を始めざるを得ないだろう。しかし男はその銃を目にした瞬間に1歩、2歩と後ろに後ずさる。瞳から殺意は消え、代わりに恐怖と混乱の色が激しくぶつかり合っている。


 しかし次の瞬間、男は銃を向ける敵の元へ跳躍し、切っ先を首元へと向けていた。

 鋭く光る刃は少女の喉へ迫る。絶え間なく体中を巡る血を一気に吹き出させようと。だがそれも理解した上で、少女は引き金に指をかけず、微塵も動こうとしない。ただ銃口は男の方を向き、気味の悪い笑みは未だに顔に貼り付いている。刃が血液を浴びるまであと5センチ、

 4、3、2、1……。


「こうなるから隠れてろって言ったんだろうがっ!!」


 そして0センチ。肉を抉るように、薄く鋭い鋼がゆっくりと体内にめり込む。その激痛に叫びをあげる。次にそれは霧となって、空気に溶けるように消えていった。そして地面に男を貫いたナイフだけが落ちる。


「お見事、よくやったじゃない」


 心臓が激しく暴れるキラに、エクスは冷めた拍手を送る。彼女はこうなることを全て()()()()()のだろうか。きっとそうだ。でなければ、今も窓から飛び降りたりはしない。受け止められることもきっと彼女は知っているのだ。そのことにゾッとしながら、味方であることに安堵する。

 しかしこれでまた小さな謎が生まれた。


「あいつ、人間じゃなかったな」


 咄嗟に、だが正確に放たれたキラのナイフ。確実に仕留められたそれは地面に叩きつけられるでもなく、その場で黒い霧となって消えた。あの特性を持ち、1番考えられるものとしては――


「幻影術式ね

 それも人体に重ねがけをしたものではなく、完全な幻影だけ」


 幻影術式も残留消痕と同じく、現世には存在しない代物だ。名前の通り、幻覚を誰にでも見せることができる現象だ。現象といっても扱い方さえ学べば誰でも起こすことができ、近年幻影術式を組み込んだ道具も開発されるらしい。その幻影の絶対的な法則として、幻影術式は必ず幻影を生み出す人間がいるのだ。

 使い方としては主に2種類あり、1つは既にその場に存在する物に対して、追加で幻影を重ねるもの。現代のプロジェクションマッピングのようなものだ。そしてもう1つは、何も無い場所から完全に幻影を生み出すものだ。今回のあの男も全て幻影から構成されたものだろう。すると次に追わねばならない謎が生まれる。

 誰が幻影を生み出したか、という謎が。


「あの男を作った術者は幻影であることを悟られたくなかったようね。弾丸を撃ち込まれればさっきみたいに霧と化してしまうから、一瞬恐れたのよ。あと痛みも感じるらしいし

全く……元を辿れば用心棒を手に入れるためなのに、どうして私は探偵ごっこをしているのかしら」


 ため息をついたあとに、猫が着地するような軽さでキラから降りる。大きく膨らむ黒いスカートを軽く払って、再び光が見える方向へと戻っていく。


「次はあの影を生み出した術者探しになりそうね

まぁ、とりあえず本部に戻りましょう。タナトレアさんが心配してるかもしれないし」


 エクスが人のことを気にかけるなんて珍しい……と思いつつ、キラも続いて再び港を目指す。


「そういや、お前が向けた銃ってあれなんだったんだよ?つか、いつ持ってきた」


 軽くエクスのポシェットを小突きながらキラが聞く。


「こんなのどこにでもあるような銃よ。まぁ実弾入りだから本当は持ち歩きはこの私でさえも禁止されているのだけれど。

きっとあれは自分が幻影であることを知られてはまずかったのよ。幻影に実物を触れさせると、その部分が霧となるから」


 なるほど…と半分納得する。しかし、あくまで半分。キラはこれから船に乗ることを考え、この2日間で何回乗船しただろうかと指折り数えていた。実を言うとキラは船酔いになりやすい体質らしく、症状は酷くないが目眩は起こる。エクスには隠しておいたが、先程の決闘も体調が万全というわけではなかった。黙って着いてはいくが、あの木舟を見る度に心という名の容器にドロドロとしたオイルを流し込まれているような気分になる。そんな気持ちを汲み取ったか知っていたか、エクスは乗船時に「これが最後よ」と言ってきた。

 その言葉を信じたわけではないが、自分にも最後だと言い聞かせて船に乗り込む。これまでに乗ってきた舟は、新たな冥府の仲間となる亡者が乗るものでは無い。2人が乗るのは観光客を乗せるための舟だ。しかし現代にもあるような舟を冥府で造ることは造作もないはずなのに、わざわざ木舟を選択したことをキラは逐一恨むことになるだろう。エクスは真逆で、流れる河に触れて穏やかな顔をしている。隣で兄が真っ青になっているというのに。


 こうしておそらく最後の船旅も無事に終わり、エクスと共に黄泉の河管理チーム本部へ戻ることになった。再び受付へ向かって、昨日と同じ職員に面会のことを話すと快く案内してくれた。さらには次回からは直接伺ってもいいらしい。ノックを4回。扉から少し顔を覗かせる。


「お二人共!お帰りになられたんですね!」


 言葉こそ丁寧なものの、さぞ心配していたのか父親の帰りを喜ぶ小さな少女のようだ。タナトレアは席を立って、飛ぶように2人の元へ走っていく。身長はさほど変わりないが、その言動や年齢を考えると年下なのだということを改めて実感する。


「ご心配をおかけしてしまったようで申し訳ありません

それと、犯人は捕まえられませんでした……ですが、次こそは大丈夫だと思います」


 幼子に言いきかけるように、柔らかくエクスが微笑む。しかしその幼子はどうもご不満のようだ。眉毛はすっかり八の字を作り、今にも泣き出しそうなほど涙で瞳を覆っている。雨の日の向日葵。


 「あの……協力してくださるのは大変助かりますし、貴方達の目的のためなのはわかりますが……

 それでお二方が危険にさらされるのならば、別の条件に変更致しますよ……?」


 彼女は今までこうして他の組織と仲良く付き合ってきたのだろうか、とエクスは心で呟く。

 だがしかし、いかがなものだろうか。確かに本来の目的は彼女を用心棒として雇うことだった。探偵業をやりにきたわけではない。しかし、簡単だったとはいえ黄薔薇冥府から許可証を頂いたのだ。ここで引き下がった場合の損をリストアップしてみる。

 一つ、黒薔薇冥府の信頼が下がる。少なくとも黄薔薇冥府からの信頼は。

 一つ、最悪用心棒を諦めることになるかもしれない。

 一つ、プライドが許さない。プライドは重要だ。


「いえ、大丈夫です、最後までやり通しますよ」


 その思惑を隙間残さずコーティングするように、満面の笑みで応える。追加して本音のさらに本音を言ってしまえば、正直エクスは今回の事件の解決に飽きがきている。まだ約1日しか経っていないが退屈なのだ。恐らくこれはエクスに限ったことではない。超名門大学に通う学生が、小学生のやる足し算や引き算をやっていて楽しいと思うだろうか。もちろん、一般論でだ。頭にネジを打つ道具を、頭にしまい込んだ阿呆の目線で考えてはいけない。つまりはそれと同じ。エクスも、答えの分かっている問題など、これ以上やっても面白いとは思えないのだ。


「黒薔薇冥府の当主ですもの、これくらい出来なくては名が廃れます」


「……エクスさんがよろしいのなら私は何も申しませんが……ですが、くれぐれも危険なことはせめて私共に仰せつかってください!」


 思わず眠ってしまいそうなほど、心地の良い暖かさの部屋。午後1時という時間帯は、実に悪戯に、光をサラサラと部屋に注ぐ。幼い少女の音色は芯がありながら柔らかく温かく。そして影は音もなく少女の背後に。


「タナトレアさんっ!!!!!」


 遅い、あまりにも遅すぎる。エクスの伸ばす手も、キラの飛ばす刃も。少女の足元で僅かに広がった影は男と、一瞬で枯れたような向日葵を静かに飲み込んでいった。

 声を聞いて1人の職員が部屋に飛び込んできた時には、黄泉の河周辺管理チームリーダー、黒薔薇冥府当主の双子の姿はなかった。窓から射し込む午後の光と、こちらを見つめてくるような黄色い薔薇たちは、必死に空気を警戒色に染め上げる。しかし残念ながらこの職員はその信号を受け取ることは出来なかったようだ。首を傾げ、その部屋を去っていった。



「どういうことだ、あいつはなぜタナトレアを狙った。どうせ狙うなら俺かお前だろ」


 消えた双子はどうやら本部を抜け出していたようだ。港近くのベンチに座り、膝に肘を置いて組んだ手を口元に当てている。前傾姿勢の視界には、巨大なクッキーの欠片を運ぼうとするアリが映っていた。


「けれど、タナトレアさんは私たちに今回の依頼を持ちかけた、いわばきっかけとなった人物よ

それを奴が知っていたならばあの方子が狙われる理由は十分にある」


「知ってたって…あの時あの部屋にいたのは俺らだけだ

防犯カメラなんざあそこにはねぇし、外で聞き耳立てるやつがいれば他の職員に怪しまれるだろ。それともなんだ、窓の外から望遠鏡で読唇術でもしたってか?」


 反論にエクスは黙りこくる。そこで一旦キラも言葉を止める。今はやめておこう。おそらく彼女は頭の中の引き出しを一斉に引っ張り出し、なにか有益な情報を探し出している。もしその情報が紙として保存されているのなら、今頃足元は一面真っ白になっているだろう。


「……あの幻影、1つ大きな特徴があるわよね?」


 突然飛び出た言葉に「あぁ……」と思い出したように気の抜けた返事をする。特徴というと、本来の幻影にはありえない、実体化の作用のことだろう。


「あの特殊な術式を編める人物は私の情報にはないわ。

けれど、それを扱える兵器なら知っているわ、というか、つい最近知ったわ、あなたと一緒に」


 兵器?しかもあのエクスが最近になって知ったもの。最新のものだろうか。最新の兵器で、しかもキラと見たもの……といえば1つ。


「龍剣冥府の密輸兵器か!?」


 小馬鹿にするような小さな拍手の音がエクスの小さな手から弾け飛ぶ。


「実は黄薔薇冥府と龍剣冥府って仲良しじゃないけど、深い関わりがあるのよ

そこでもし黄薔薇、それかタナトレアさんが兵器のことを知ったらどうなるのかしらね」


 苛立ちを抑えきれなくなったのか、エクスが思わず民家が建ち並ぶ方へ中指を立てる。


「あいつらに居場所を吐かせることも……黒薔薇冥府では不可能ではないわ

けれど今日は下手に動くのはやめておきましょう、1度また仮眠室を借りて作戦を立てるだけにするの

盗聴やら盗撮も嫌だし、あれも買っておくわ」


 そこまで言い切ると、何事も無かったように立ち上がる。自らの成すべきことが決定した。2人は途中で一軒の店により、とあるアイテムと朝食兼昼食を買ってから本部へと帰った。

 戻った部屋ではまず腹ごしらえをした。1人サンドイッチ3つずつと、本日のおやつのマカロンは2人で12個。……と流暢なことを言っている場合ではない。作戦だ、作戦会議を行わければ。そこで朝食兼昼食と同じ紙袋から取り出されたのは一欠片の結晶だった。宝石のように黄色く光るそれを二人の間に置き、無言で空腹を治め始める。サンドイッチは消え、いよいよ会議かと思えば今度はマカロンに手を出し始める。2人で12個を分けるのに、キラの手が7個目に忍び寄ったところで「ちょっと」とエクスの声が制止する。言葉はそれっきりだ。だが、それで問題はない。

 というのも、この結晶は脳内接続結晶なるもので、最も距離が近い2人で声を発さずとも会話ができる、いわばテレパシーが可能になるものなのだ。ジェスチャーにさえ気をつければ、盗聴や盗撮などによる内容の漏洩を防ぐことが出来る。ジョークアイテムとして売られているため、どこの店でも大抵安く買える。それを使って、2人は脳内で会議を繰り広げているのだ。そして今、エクスが最後のマカロンを口に放り込む。その後、目を合わせて1つ頷き合う。そして最後にベッドに潜り込んだ。


 次に目を覚ましたのは夜中の23時。どうやら予定通りらしい。兄を揺すり起こしたエクスは、よれてしまったスカートを奮い起こすようにシワを伸ばす。さすがに騒がしかった外も、猫の縄張り争いの声だけが響くのみとなっていた。提げたポシェットに監視カメラの映像をコピーしたカセットテープ、脳内接続結晶、護身用の銃を押し込む。キラもベストの内側に仕込んだナイフ以外は何も持たない軽装だ。


「行きましょ、今更逃げられっこないわ

幻影の男がなぜ実体をもって彼女を連れ去ったかは不明だけれど、術者を仕留めれば消滅するわ」


 冷たくひえたドアノブを引いて通路に出る。昨日と同じく大きな明かりは全て消され、小さな星のようにポツポツと小さな光が並んでいるだけだ。正面の入口からも出て外に出ると、あれほどいた人影は一切なくなり、冷たい潮風が行き交う通りとなっていた。本部がある船着場側であるこちら側はあまり探索していないにも関わらず、エクスは確かな足取りで進んでいく。そしてその歩みを止めたのは小さなお菓子屋……の隣にある細い路地の前だった。


「ここ……船乗り場(向こう側)と同じ作りになっている場所か」


 呟いた声は、街からの無音により響くことを遮断された。エクスは応えずにその前に立ち尽くしている。その背中は、昨日見たものと同じだ。


「任せとけよ」


 その言葉だけを聞くと、再びエクスの足は交互に路地の奥へ奥へと彼女を連れていった。路地自体は船乗り場側と変わらず、朽ち果てた建物や、痩せ細った野良猫が逃げていく光景。見慣れたつもりだが、キラは1つ1つをじっくりと見つめる。するとエクスが突然腕を引いて、腐った臭いの壁に張り付く。


「おい、なん……」


 その声は立てられた人差し指で止められる。そして黄色い結晶を通して声を伝える。


「あの屋敷の窓、あそこにこれを投げ入れてちょうだい

他の観客にみられるのは不都合だわ」


 右手で窓を指差し、左手では黒薔薇が巻き付けられたナイフを渡す。腕を引いた時にベストから1本拝借したらしい。本来ならばそこで文句を連ねるところだが、今は一刻も早く目的を達成させたい。意味がわからずとも言われた通りに窓に投げ入れる。ふと隣を見ると満足気な妹の顔。


「ありがと、行きましょ

あとは成すべきことを成せば、ショートケーキの件については不問にしてあげる」


 負け知らずの自信に満ち溢れた笑みを向け、再び少女は歩き出す。そして辿り着いたのは、同じ地形とはいえ港など一切ない行き止まりだった。さらにそこには―――――――黄薔薇を添えた無数の死体。


「やっぱり勘は鋭いんだなぁ〜

いやぁ、感心感心!」


 そして奥から転がってくる人の頭部。

 現れたのは月光を浴び、返り血で咲き誇る向日葵。否、黄薔薇。


「私こそ感心だわ、やはりあなたは私の用心棒に相応(ふさわ)しい」


 同じく月光を受ける黒薔薇は、応えるように笑みを返す。その背後から、もう一輪の黒薔薇が刃物(トゲ)を光らせて現れる。


「さて、ここは見せ場をくれてやるのが相場ってもんか。いいぜ、探偵さん、種明かしの時間を設けてやる」


 下品で卑劣な笑みからは、あの愛らしい姿を思い出すことも出来ない。背丈ほどもある鎌の頭を地面につけ、柄の部分にのしかかるタナトレアはショーを待つ観客になりきっている。ならば客の期待に応えるのが役者。エクスはすでに最高のシナリオを用意している。


「では僭越ながら……あなたは至高の馬鹿ね。こんなの私じゃなくたってわかるくらいのトリックよ。残念ながら今回は私が先に解いてしまったけれど」


 タナトレアは依然として聴衆の姿を保っている。


「まず、お互いに大きな勘違いをしていたようね。

私たちは、あなたがとても愛らしい黄薔薇冥府のお飾りだけだと思っていたわ。

そしてどうやらあなたは、黒薔薇冥府の当主が無能であると高をくくっていたこと」


 そこでまさかまさか、と手をひらひらと躍らせる。それをエクスは無言で制止する。


「ここはド定番、前提すら覆すところからかしら。

まぁキラもおいおい気づいたけれど、これは幇助(ほうじょ)じゃないわ。罪人はあなた1人のみ。いや、性格には2人かしらね」


「ほら、そっちのも出せよ

2対1になんかさせてやくれないんだろ?」


 キラがそう呼びかけると、幼い少女の足元からぬるりと影が這い出てくる。あの幻影の男だ。前回とは違い、両手に30センチほどの剣を携えている。そこでキラもナイフを取り出す。男もおそらくキラと対戦するつもりではあるだろう。問題はエクス側だ。彼女は銃を取り出すが、タナトレアが構えた巨大な鎌を前にすると気休め程度にしかならない。


「……もしかして2対1はこっちか?」


 その声に鎌はゆっくりと首をもたげて、エクスに殺意の影を落とす。しかしエクスはその刃に向かって鉛を1つ飛ばした。


「それ邪魔よ。月が見えないじゃない」


 タナトレアの背後で2度金属音が響く。半分になった一欠片が彼女のブーツに当たる。それを追っていく金色の瞳。その瞳の20センチ下、心の臓に向かって再びエクスの弾丸が撃ち込まれる。その軌道に男の剣が割り込む。その腕に向かって飛び込むキラのナイフ。ナイフを巨体で弾くタナトレアの鎌。鎌を横から蹴りだすエクスの足。1秒にも満たない間に行われる寸劇はその場にいる役者の殺意を駆り立てるには十分だった。


「すまん、あたしもう聞くの飽きた。体動かしながらやろうや!」


 反動で大きく後退する4人。完全に黄薔薇のトゲは黒薔薇の少女を狙っている。もう戦闘を避けられない。咄嗟(とっさ)に兄とアイコンタクトをとる。結論はやはり同じだ。この窮屈な空間でどれだけ最大をだせるか。早速タナトレアは地面に食い込ませた大鎌を軸に、宙返りでエクスへと距離を縮める。跳んだ軌道が描く放物線が降下し始めた瞬間に、その軸を抜き出して空間を切り裂く。腰を落として上体をのけぞらせたエクスは、鎌の大振りで生じた隙に腕の間、少女の頭部に弾丸を正確に滑り込ませる。しかしそれは輪くぐりのように頭を下げて躱される。


「お話しの続きをしましょう。まずはあなたの撹乱作業を言っていったほうがいいかしら。

まずは船の乗客数の増減。あれ、下船時に増やす必要あったかしら?あれが1番お粗末だったわね

乗船時の亡者の数こそ正しかったのよ。あなたは幻影で偽りの亡者を生み出した。そして増やした数が正確なものと思い込ませるためにリストを捏造した」


 そこで初めてタナトレアは困窮を顔に浮かべる。もちろん暴走を止めずに。


「いや、それあたしじゃなくても出来んべ」


「そうね、まだあなたとは断定できないわね。

けれどあの奇妙な幻影、扱える人間はあなたしかいないの」


 そこで自らも猛攻を交わしながら兄を見遣る。兄も男の攻撃を軽やかによけ続けているだけだ。彼は好きで仕掛けず、楽しみながら反撃の機を窺っている。たまに男の剣さばきよりも素早くねじ込まれる拳は、不安定に形成された影の胸を貫く。しかし、ぽっかり空いた穴も次に瞬きした時には再び黒い霧で埋められていた。そこでタナトレアが続ける。


「どうしてあたしのものと断定できる?

……あぁ~!もしかしてあ1ヶ月前の手紙はお前だったのか!はいはい、納得納得!」


「1部を実体化させることのできる幻影術式マニュアル、お役に立ててよかったわ

あいにく、あの男のどこを実体化させたのかわからなくなってしまったのは私の落ち度だけれど

あぁ、あとこれね」


 くすくすと笑った後にポシェットからコピーのテープを取り出す。


「昨日、残業をしていたはずのあなたもいつも通り映ってるわ。自分の幻影を作ったのでしょう?

トリックのタネがすべて幻影任せだなんて、自分の力に甘えすぎよ」


 一時休戦でお互いに距離をとって観戦する。まるでキラは子犬をあやしているようだ。口笛と手拍子で男を誘導している。その挑発に乗っているのか、何もなくともそうしていたのか次々と2対の剣は少年の喉に風穴を開けようとする。そこで思い出したようにタナトレアが言葉を返す。


「あぁ、幻影のことだったな。龍剣サンの兵器か何かって言ってなかったか?

あと、地図のことはご名答だ」


 エクスは再び照準を幼い頭部に合わせる。火薬の気配に気づいた標的もゆっくり目線をこちらに向ける。


「そこが勘違いだと言っているのよ。あの男が私たちを尾行していたことも知っているに決まっているでしょう。あんなの全て嘘よ

龍剣の兵器だなんて私たちが間接的に破壊したわ。2度と使えないわよ」


 「2」と発すると同時にその数だけ鉛玉を撃ち込む。もちろん鎌は回ってそれをはじき返す。1つは右回しに、1つは左回しに。最後に1つ円を描くように主とともに空中で3回転する。エクスを逃した円の軌道の下部に接触した地面は轟音と共に火花を吹き出し、巨大な亀裂を刻まれる。そこからあふれ出る煙はタナトレアの姿を包んだ。すべてを回避したエクスは、はっとしたようにそこを見つめる。キラと男も動きを止める。静けさに不穏な空気が漂う。


「テメェだって勘違いしてんだよ、クズが。

アタシはテメェを生かしてやってるんだよ……お前の首と胴体は絹糸1本で繋がってるんだよ。あとはちょん切るだけなんだよぉッ!!」


 まだ消え去らぬ煙の中、黄金と深紅の光が揺れる。それはあの美しい瞳と、眼帯の下、醜く赤く熟れた火傷痕が張り付く眼球だった。痛みがあるのか、時折目元が痙攣している。最大限に開かれる小さな口からは絶え間なく唾液がしたたり落ちる。鋭いトゲを持つ黄薔薇に変わった向日葵は、もはや茎をへし折る小さな獣へと変貌していた。


「兄様に倣って私もあやすだけにしなきゃいけないかしら……」


 言い切る前に獣は飛び出す。華奢な体からは想像できない怪力で、自分の背丈ほどの獲物を高速で暴れさせる。彼女が鎌を持つのではなく、鎌が彼女を操っているようでもある。さすがのエクスにも焦燥が心の中に芽生える。しかし、次に彼女が飛び込んだのはキラのほうだった。彼も予想外の展開に、吹き飛ばさた体を壁に強打する。


「兄様!!」


 巻きあがる土煙に向かって声を上げると戻ってきたのは影男だった。

 知っていても体が追い付かない。

 妹も兄同様に地面に叩きつけられる。足と銃身で迫る刃を受け止めることが精一杯だ。引いた煙から浮かび上がる2人も同じ状態。だめだ、この影さえ潰せれば。だがこれは実体のない、一方的な暴力の権化。こちらはかすり傷1つを作ることに集中しているうちに、気を抜けば首を持っていかれる。持って。その腕に抱え込んで。あの時の枯れた向日葵も、腕で。実体の腕で。

 闇が詰まった男の胴体に足を突き刺す。耐えきれなくなった彼女の両腕が、双剣にこれ以上の接近を許す。しかしその剣が断ち切ったのは逃げ遅れた銀髪。持ち上げた足を胸に近づけて、地面で1度後転をする。キラはまだ最悪の状態から抜け出せていない。体をすり抜けられた痛みで、男が絶叫をあげ、主に助けを求めようとタナトレアの元へ這って行く。その2人の間に黄色く輝く結晶を投げ込む。


「ああああああッッッ!!!」


 途端に獣も頭を押さえて叫びだす。狂気の雄たけびが重なり合って歪な音楽が生まれる。化け物たちの二重奏は、静寂も切り裂いて恐怖を街中に響き渡らせる。それにかき消されないように張り上げた声で解放されたキラに呼びかける。


「その場でタナトレアを眠らせて!!」


「脳内接続結晶でおっさんの声をタナトレアの頭に響かせて……任せとけ!!」


 キラがタナトレアの鳩尾(みぞおち)に殴りを入れる。ゲリラ豪雨の後のように辺りは静まる。術者の意識の消滅で幻影の男も消滅する。ただ2人の肺を酸素と二酸化炭素の音だけが、その場に生命の存在を伝えている。キラの腕の中では、1人の向日葵が眠っている。


「あんな姿になっちまったけど、それでも用心棒にするつもりか?」


 タナトレアをおぶりながらキラが静かに聞く。声からも疲労がにじみ出ている。さすがに今回は暴れられたが、疲れはそれを上回ったようだ。同じく背中を伝う汗に顔をしかめながら、疲労困憊丸出しのエクスが応える。


「化け物並みの能力がなければスカウトしないわ」


 その言葉に少し遅れてキラの血の気が引く。


「おい、全部わかってたのか……?」


 兄のおびえる顔が見れて満足なのか眉間のしわが引いていく。代わりにお得意のにやけ顔が現れる。月の光による逆光に浮かび上がる表情はついさっきの獣を思い出させる。冷たく乾いた足音を鳴らし続けたまま、もったいぶるように口を開く。


「この子、どうして犯罪に手を染めたかわかる?」


 返事はない。首を振ることすらできないほど弱っている。タナトレアを連れて帰る役目も任せていることに免じて、文句は心の中で叫んでおく。


「黄薔薇冥府と龍剣冥府って結構仲がよかったのよ。黄薔薇は結構お堅いところで、犯罪なんてもってのほか。もしそんなところに、あなたと仲良くしているところは密輸兵器を所持してるのよっていったらどうなるかしら。それも、自分の父親なのにもかかわらず当主の座を奪おうとした反抗期の娘さんだけに言ったら。

告げ口のことだって、宿を忘れたことだって、匿名の手紙で特殊な幻影術式を覚えたのだって……この子は私の言うとおりに動いてくれたわ」


「責任を父親と龍剣冥府になすりつければ、父のメンツは丸つぶれ。黄薔薇冥府が消えれば港の管理はだれがやるって話で、席自体の消滅を恐れることなく安全に当主に。正体はわからないが色々教えてくださった相手には感謝だな

巧妙なようで案外おこちゃまなやり方だったのも、そいつが仕向けたから。漁夫の利ですべてをかっさらい用心棒も無事にゲット。いつから()()()()()()()()()()()()()()()()()なんだ?」


 そこで黒薔薇はその顔を月光に向ける。その姿は確実に日光を浴びるよりも凛々しく、妖艶に、狂喜的にかがやいている。闇に譲り受けた黒い瞳が細められる。

 誰が聞くでもない独り言を呟いてみる。誰もが夢の中に沈む町だと尚更だ。自分の声が反響とまではいかないが、じわじわと波のように行き渡る。


「月って素敵よね」

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