ごんぎつねに思う。
今や教科書に載っている率の非常に高い『ごんぎつね』。新見南吉先生の代表作です。
誰もが知っているお話と思いますので、知っている前提で書きます。
わからないかたは、何らかの手段でお読みいただいてから、ここから先は読んでいただいた方が良いかと思います。
正直に言えば、私は、このお話は好きではありません。
読後の、無常観。半端ないですから。
ゴンは、罪を犯し、それをあがなおうとしていたにもかかわらず、火縄銃で撃たれます。
そして、その段階で初めて気持ちが、兵十に伝わるわけです。
これを書くにあたり、教科書の指導要綱のようなものも読みました。
この作品は、人と人がつながることの難しさを考え、心理描写の読解、情景描写の美しさなどを知るために教えられているそうであります。
ゴンのした一連のイタズラは、取り返しのつかない事実です。
ゴンを撃った兵十の恨みつらみは、理解できます。
だからこそ、せつない。
ですが、罪を一度犯したら、死ぬまで許されることはないのでしょうか。
この作品は、安易なハッピーエンドにしないことで、社会の苦悩に満ちた構図を読者につきつけてきます。
だからこそ、名作であり、教科書にも取り上げられているのでしょう。
ただ、読み手としては、現実が残酷だからこそ、せめて物語の中くらいは、幸せになってほしい。
ゴンは、兵十に許されて、友達として笑いあってほしいのです。
ネット小説で、もし『ゴンぎつね』を掲載したら、たぶんラストは大炎上するでしょうね。
疲れているときにあんな重いお話、私は読みたくない(個人の感想です)
ちなみに。
最近、ネットの記事などを見ていて思うのは。
ゴンの償いを偽善とみて、気持ち悪いと非難するひとがいる。
ゴンが死んだラストを、「報いとして当然」と言い捨てるひとがいる。
兵十が銃で撃つのを、「浅慮だ」と叩く人がいる。
ゴンが死んだラストを踏まえて、償いは無駄と考えるひとがいる。
ということでしょうか。
多様性、と言えば多様性。それが悪いとは言いませんけども。
ただ、他人に優しくできない社会は、きっと、自分にも優しくはないのです。
現実も、もう少し優しい世界だといいなあと思う今日この頃。
やっぱり、自分が書くお話は、時代を越えて読まれる名作じゃなくてもいいなあと思ったり。
ご都合主義でいいから、読後、幸せに感じてもらえる作品を書きたいな、などと世紀の名作を読みながら生意気にも思った私でありました。




