童話
今回は童話について。
童話と縁がなさそうに見えるかもしれませんが、実は宮沢賢治先生が大好きな私です。
いいよね。本当に、あの言葉を鳴らしているというか。
少し寂しくて、透明な世界が大好き。
今でこそ、ファンタジー=ラノベの印象が強いですけれど、少し前までは、ファンタジーと言えば、童話のイメージでした。
優れたファンタジーが童話や児童文学から生まれた経緯があるので、そのこともあって、今だにファンタジーは子供のものだという考え方が根強いわけで。
先日も『大人も楽しめるファンタジー』なんて売り文句を見つけて、『大人も』ってなんじゃい、と思った私です。うん。こんなことばっか、言ってますね。
ファンタジーは、神話のころから人類が親しんでいたジャンルでありますから、年齢で卒業なんて、もってのほかだと私は思っております。でも、それはまた、別のお話ですね。
童話は昭和以降、児童文学と呼ばれるようになったとウイキさんが言っておりますので、対象が子供向け、と考えて良いのでしょうね。
子供に与えるものだから、夢のあるものを、と、なんとなくなイメージが先行するわけですが。
グリム童話の原書にいたっては、子捨てはするし、人を火あぶりにしたりするし、まあ、ひどいものです。もっとも、原書に忠実にしないのが常で、オブラートにくるんだ意訳版のほうが出回っていたりするわけですが。これは、民話の類は、伝承の際、教育的な側面が強く、悪党がとにかく懲らしめられる傾向が強いからこその残虐性なのかな、とは思います。
とはいえ。
新見南吉先生の『ごんぎつね』は創作なのに、無常観とか虚無感漂っていて、夢も希望も救いもない印象。
結論から言えば、児童文学は、言葉が平易なことという条件を満たし、あまり性描写、残虐的な描写がない(古いものは結構あるけど)ということが条件なのかな、なんて感じます。
夢や希望は、そういったものが多い方が好まれる傾向があるというだけ。
言葉が平易だから、内容がスカスカでもいいか、と言えば、そうではありません。
優しい文章で、『誰が読んでもわかる』美しい構成、かつ『面白い』お話にしないと、子供は大人よりシビアですから、読んでもらえません。
子供だまし、という言葉がありますが、正直、子供はそんなに阿呆ではありません。
子供が面白いと思うものには、理由があります。もちろん、大人になると子供の時ほど夢中になれないものというのは存在します。けれど、子供が真に夢中になるものは、大人も夢中にする要素がいっぱい。
というか。
もちろん、『タイムリーな年代』っていうのは存在するとは思うのです。
主人公に一番、共感できる年代というのがあって、児童文学の場合は、多くの主人公は等身大のこどもです。(例外は当然あります)
ただ、普遍的なものは、変わらない。
大人も子供も、同じ人間。住む世界、もっているしがらみに多少違いはあっても、喜怒哀楽が劇的に違うということはあり得ないわけですよ。
美味しいものを食べれば嬉しいし、ケガをすれば痛い。
そこに、年齢の違いはないわけなんです。
世の中、ふつうの大人が離れていた童話に回帰するのは、たいていは自分の子供に読み聞かせをしたり、子供が好んで、いっしょに読み始めるというのが多いのではないかな、と思います。
帰ってみると、それは実は年齢関係のない文学で、「おかえりなさい」って気安く迎えてくれるものがほとんど。
とはいえ。書くとなると、非常にハードルの高いジャンル。
平易な表現で、読みやすいというのは、本当に難しいなあと思います。




