昔話と現代小説
昔話と現代小説を比べた場合、圧倒的な違いは、共感力の強さと臨場感、でしょうか。
昔話の主人公は、自分と重ねるには、少し遠いのです。
なぜか。
第一に、登場人物に、欲望(動機)が少ないからではないでしょうか。
『目的』はあっても、それを目指すにいたる、動機が非常に弱い場合が多いのです。
欲というのはよくない、という教訓的な意味合いも大きいのだとは思います。
欲望丸出しのじいさん、ばあさんは、ひどい目に合うのが多いことから見て、戒めとして語られている側面が高いのでしょう。
私たちの触れる機会の多い昔話というのは、子供向けの絵本が多いというせいもあるかもしれません。本来の口伝から、残虐性などをおさえ、教訓面を強化されていることも考えられますので。
もともと昔話は、「何かをわかりやすく語り継ぐ」ことが主体です。
大切なのは、主人公がどう思ったかということより、「こんなことがあったよ」ということのほうが主体。
川が危ないからこそ、河童は淵に住むし、山が危険だからこそ、山姥が山にいる。いたずらに生き物を殺めてはならないという思いを伝えるために、恩返しがある。
そんな物語背景がはっきりわかる昔話といえば、東北の馬と婚姻した「おしらさま」のお話でしょうか。
獣婚ものです。
馬と恋に落ち、さらに結ばれてしまった娘をみて、怒った父親は馬を殺してしまう。娘は父親がはねた馬の首にとびのると、天に昇って、神となる……そういう筋の悲恋。
おそらく、もともとは、身分違いの恋物語なのではないでしょうか。
これは、父と娘の心情がすごく伝わる。馬の気持ちは全く伝わりませんけど。
もっとも心情が伝わるからと言って、共感するか……は、難しい。相手、馬だし。さすがに、異種族恋愛にしたって、せめて二足歩行してほしいかな。
いや、会話できるなら、四足歩行でも許せるかもしれない。意思疎通、大事。(何を書いているのだ、私)
昔話は、「こんなことあったんだよ」と、遠くでみつめるものだけど、同じ題材でも、小説として読むのであれば、「こんなことあるんだよ」と、世界に引き込まねばなりません。ゆえに、臨場感が必要です。臨場感を出すには、まず、登場人物が『生きている』と感じること。
前述のおしらさまであるなら、馬は娘の理解者であり、守り手であるということを前面に打ち出し、時には、暴君の魔の手から娘を救うようなこともあった、というような、娘の感情に寄り添えるエピソードが必要。読者が、馬に恋できれば、それは「昔話」ではなく、手に触れる物語になる。
逆に言えば、そこを強化すれば、昔話は、強力な様式美を持っていることが多いですから、美しい小説となります。
この作業をすると、ユーモラスの仮面をかぶっていた猿蟹合戦のような復讐劇ものは、リアルな人物像にすると、かなり殺伐とした世界だということがわかってきます。
もっとも。海がしょっぱい理由みたいな昔話は、なかなか現代小説に改造するのは難しいですけどね。




