おばあちゃんと御守り
お久しぶりで申し訳ありません。
後編でなく短編が入ります。
家を出てから実に七時間が経っていた。
都市の街並みからすっかり緑ばかりの景色になったのは四時間も前のことだ。
電車を何本も乗り換え、最後の駅から目的の場所までは徒歩しか交通手段はない。
その最後の駅を出たのは一時間前のこと。
飯島茉莉は疲労困憊していた。普段も割と歩いている方だがこれはレベルが違う。
道は平坦ではなく山道もあるのだ。と言うか山道も山道、獣道だ、これは。
「あーしんどいよー」
緑が美しいなんて感動はとうに消え、今はもう早く目的地にたどり着いてほしい、それしか考えていなかった。
茉莉はチラリと腕時計を見た。午後三時を過ぎている。
「ヤバイ」
山の日没は早い。もうじき日が暮れはじめてしまう、その前に目的地に辿り着かなければ危険だった。
バックパックの外ポケットに入れてあるペットボトルを取り出し口をつける。
ここから一気にラストスパートをかけねば。
それで着くのがギリギリといったところなのだから。
茉莉は自分の両足をバシバシと何度か叩き気合いを入れる。
「よーし!行くぞ!」
そしてさっきよりは格段に速くなった足取りで山道を歩き出す。
結局目的地に着いたのはちょうど日が落ちたと同時だった。
「着いたー!おばーちゃーん!」
ガラリと木製の引き戸を勢いよく開けると中は懐かしさ漂う古民家そのものの屋内が待っていた。
板張りの床、部屋の中心には囲炉裏、自在鉤には重そうな鍋が吊るされており、蓋の隙間から湯気が立ち上っている。
良い匂いがたちこめていた。
「遅かったじゃないか」
祖母は土間の竃の前で作業をしていた。
「おばあちゃん」
「熊にでも食われちまったかと思ってたよ」
「ははっ、ばーちゃんのそれ聞くとなんか安心するわ」
重いバックパックを下ろしながら靴を投げ出し板間に上がり、鍋の蓋をパカっと開くとグツグツと美味しそうな。
思わず舌舐めずりをしてしまう。
「何鍋?」
「あんたは行儀が悪い子だね!靴くらいそろえな!」
「はーい」
慌てて靴を揃えに行く。
「今日は牡丹だよ。ちょうど罠に瓜坊がかかってね」
「やった!」
舌舐めずりをしながら手を叩いた。
「さあさあ、さっさと準備しな」
「はーい」
茉莉はウキウキしながら祖母の手伝いをする為再度土間におりた。
釜で炊き上がったご飯をお櫃に移し、鍋の取り皿を棚から出す。
お茶は祖母のである初江が囲炉裏の前で用意していた。
茉莉は囲炉裏の前に腰を下ろすといそいそとご飯をよそい、鍋の蓋を開けた。
「ではでは、いっただっきまーす!」
「いただきます」
手を合わせ目の前の鍋をいざ攻略せんと取りかかったのだった。
「あー美味しかったー」
満腹になったお腹を抱え茉莉は床にゴロリと寝っ転がる。初江はキロリとそれを見咎めたが何も言わず片付けを始めた。
「ばーちゃんさあ、なんでこんな山奥に住んでるの?」
「なんだい突然」
「だってさ、不便じゃない?」
カチャカチャと食器の立てる音が食後の心地良い倦怠感を包み込んでいた。
茉莉はうつ伏せで肘を立てながら後片付けをする祖母の背を見つめた。
「家出てからここに着くまで8時間かかったもん」
「それはあんたの段取りが悪いからだ」
「いやいや、私じゃなかったらもっとかかってるって」
苦笑いをし、茉莉は立ち上がると土間におり祖母の持っていた洗い物スポンジを取り上げた。
「私がやるからばーちゃんは休んでて」
「・・ふん、来るのが遅いんだよ」
「ふふ」
悪態をつきながらも初江はゆっくりとした足取りで板間に上がり、小さく息を吐く。
「ここは爺さんと生きた場所だ。私はここで生きてここで死ぬんだよ」
言われて祖父を思い出した。もう10年になるだろうか、祖父の弥三吉が死んで、祖母はそれから1人ながらもここで力強く生きている。
「じーちゃんのこと、好きだった?」
「・・・今日はなんだい、気持ち悪い子だね。でもまあ、好きじゃなけりゃこんな所までついては来ないね」
「ふーん」
自分にもそんな一生を捧げる人は現れるのだろうか、ふと、羨ましく感じた。
「終わったかい?そしたら風呂の用意が出来てるからさっさと入っちまいな」
「はーい」
茉莉は洗い物で濡れた手を布巾で拭うとバックパックの中から着替えを取り出した。
風呂場は家の外れに五右衛門風呂があり、そこで入るのだ。
久しぶりのこの家のお風呂はとても気持ちが良かった。
風呂から上がるとすでに布団が敷いてあった。
「至れり尽くせりだね、ありがとばーちゃん」
「馬鹿孫め。そんな訳あるかい。さあさ、次は私が風呂に入るよ。追い焚きしな!」
手には自分の着替えを持ちすっかり準備万端の初江に、茉莉は「任せて!」と腕まくりをした。
まあ、半袖のTシャツなので袖はなかったのだが。
外に出て竃に巻きをくべながら竹の筒に空気を吹き込んで空気を送る。
「お湯加減はどうですかー?」
「まあまあかね」
辺りはすっかり暗くなり、虫の声が大合唱をしている。
祖母との何気ないやりとりは心地良く、驚くほど心が凪いでいた。
ここが一番落ち着くな。
郷愁にかられ、茉莉はきつく目を瞑った。
やはり、ここが自分の帰る所なのだと、つくづく思ったのだ。
初江は風呂から出るとそのまま布団に入った。田舎の夜は早い。きっとまだ9時過ぎなのだろうが、そうするのが自然で、茉莉も布団に横になろうとした。
そこでハッとする。
ここに来た一番の目的を忘れる所だった。
茉莉はガバッと起き上がって祖母の方へ向き直る。
「ばーちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんだい」
「あの御守り頂戴」
「御守り?なんの話だい?」
「昔の着物で作ったやつ、あの青いの」
すると初江は少し考えてからおもむろに立ち上がった。そして古びた箪笥の前に行くと左上の小さな棚を開け、その中から小さな御守りを取り出す。
「これかい?」
「そうそれ!」
「何だってこんなもんが・・・」
「いいから!いいでしょ?」
「ああ、良いよ」
初江は布団に戻ると茉莉にその古ぼけた御守りを手渡した。
茉莉は嬉しそうにその御守りを手の平に包み込む。
「大事にするね」
「・・そうしとくれ」
そして初江は笑った。
「さあさ、寝るよ」
「はーい」
茉莉は布団をひっかぶり、御守りを胸に眠りにつこうとした。
「・・・・」
布団の中に入ったまま、ゴソゴソと初江の布団に移動する。
「なんだい、あんたは」
「一緒に寝よ」
「・・・はいはい、もっとこっちに来な」
「えへへ、ばーちゃん大好き」
祖母に寄り添い温もりを感じると、急激に眠気が襲って来た。
さすがに今日は疲れた。
バックパックの中に練習も兼ねて重りを20キロも入れていたので、予想以上に疲労があったのだ。
それでも祖母に会えた。
それだけで何か、報われた気がする。
茉莉は目を閉じ、そして深い眠りについた。
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目を覚ますとそこは見慣れない天井よある部屋のだった。上半身を起こし、あたりをキョロキョロと伺う。
「おはようございます、飯島様。ご気分はいかがですか?」
男の声がしてそちらへ向くと見覚えのある、
「あ、おはようございます。青柳さん」
「おばあさまとお話しは出来ましたか?」
そうだ、ここは伽藍堂だった。
茉莉は全てを思い出した。
そして手の平を胸の前に持って来て、開く。
そこには古びた青い御守りがあった。
「ちゃんとばーちゃんにお願いして、貰えました」
「そうですか、それは良かった」
青柳は笑って手を差し伸べてくる。その手を掴み、茉莉はベッドから降り立った。
祖母の初江は五年前に亡くなった。遺品整理をしている時にこの御守りを見つけ、それ以来片時も手放したことは無い。
茉莉にとってとても大切なものだった。
ただ、祖母に話を通して貰ったもので無いことが少し引っかかっていたのだ。
ちゃんと譲り受けたかった。
だからここへ来た。
「これでやっと私の物になりました」
「そうですか」
茉莉は青柳に向き、そして頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私は何もしていませんよ」
「それでも」
茉莉は僅かに目を滲ませる。
「勇気が持てます、応援して貰えているみたい」
「そうですね。・・次は危険な山に登られるんですよね?」
「はい」
「ご武運をお祈り申し上げます」
「ありがとうございます」
茉莉は傍に置いてあった自身のバックパックを手に取った。ズシリとそれは重く、しかし慣れた重みでもあった。
「帰って来たらまたお邪魔しても良いですか?ばーちゃんに報告したいので」
青柳は目を細め、微笑んだ。
「いつでもお待ちしております」
青柳の言葉を聞き、茉莉は嬉しそうに笑った。そしてもう一度だけ頭を下げて、部屋を出て行った。
青柳有美はその女性を見送ると、側の椅子に腰掛けた。
彼女、飯島茉莉は有名な女性登山家だ。世界中のあらゆる山を踏破して来ている。それも単独で。
次に登る山がとても危険な山であるらしく、不安を覚えていた。
そこでここの噂を聞きやって来たそうだ。
「しっかし、あのバックパック、めっちゃ重かったぞ」
茉莉が寝ている間に試しに持ってみようとしたが、両手で辛うじて持てるくらいだった。
あれを軽々と扱う彼女の腕力は一体どれほどのものなのか。
有美は苦笑いをした。
「でもまあ、成功して下さいよ」
そしてまた、祖母と会って貰いたい。
店主と客という間柄でしか無いが、それでも彼女の成功をひっそりと祈るのも良いだろう。
そして有美は咥えたタバコに火を点け、ため息を吐くように、煙を吐いた。
読んでくださってありがとうございました。
次は後編をお届けいたします。
よろしくお願いします。