ありふれた話
ご無沙汰しております。よろしければどうぞ。
君の笑顔を見なくなってどれくらいたっただろうか。
僕は僕のことでいっぱいいっぱいで君を労うことが出来ていなかった、後悔は覚えるばかりで今もしょうがなく生きている。
君は今、幸せだろうか。
もし出来るのならば、もう一度だけ、君の笑顔が見たい。
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「さゆり、何なんだこの部屋は」
長男の竜也の泣き声が部屋中に響き渡っているリビングで妻のさゆりは泣き出しそうな顔で竜也の世話をしていた。
子育てが大変なのは分かるが専業主婦で一日中家に居るのだ。子供の世話をしながらでも部屋の掃除くらいは出来るはずだろうに、ダイニングのテーブルの上には食器が残されたままで、ゴミがそこら中に散らばっている。
二人の周りなんて惨状も良い所だった。
帰って来てこれはないだろう。
貴仁は溜息を吐き、ソファにカバンを投げ出す。
「夕飯は?」
「・・・・・ないわ」
「は?」
「作れなかったの、悪いけど適当にある物で済ませてよ」
「何だよそれ、こっちは仕事で疲れて帰って来たってのに・・・はぁ、もういいわ」
貴仁は苛立ちを隠さず背広を投げ捨て自室へ入った。
こんなはずではなかった。
子供が生まれて家族三人で楽しく幸せな家庭を築くはずだったのに、どこで何を間違えたのか。
幸せどころか笑顔すらない日々に、いい加減貴仁も疲れきっていた。
ベッドに座り膝の上に組んだ手の上に額を乗せ、もうそのまま動けなかった。
どうしたらいいんだ、と何度も自問自答したが出る答えはいつだって、自分の求めることが出来ないさゆりを責めることだけだった。
まだ竜也が泣いている。
泣き止ませることも出来ないのか。
それでもお前は母親なのか。
次第に募る苛立ちに貴仁は貧乏ゆすりを始める。赤ん坊の泣き声の響き渡る部屋の中にトントンと小さな音が絡みつくように、鳴り止まない。
「・・くそっ!」
泣き止むどころか更に大きくなる泣き声に苛立ちの限界を超えた貴仁は立ち上がると飛び出すように自室の扉を開け放った。
「さゆり!何をやってるんだ!さっさと泣き止ませて・・・」
ドカドカとリビングまで入り、その光景を目にして、貴仁は怒鳴ろうとした。
が、ふとある言葉を思い出し押し黙った。
奥様が何をされていたのか、どういった状況だったのか、ご自身の目でよく見られて下さい
そうだ、思い出した。これは夢なんだ。
貴仁は立ち止まった。そして改めてまじまじと乱れきったリビングを冷静に見回した。
確かにそこら中に物が散らかり溢れかえっている。目を覆わんばかりの乱れようだ。
だが、そうではないのだ。
二人の周りに散乱しているのは、子供をあやすおもちゃやミルクの入った哺乳瓶、子供用のお菓子、パソコンの画面は泣き止まない子供の対処方法のページが開きっぱなしになっている。
携帯でも調べていたのか、煌々と画面が白んでいるままだ。
竜也の下半身にはおんぶ紐がつけたままになっているのは、寝かせたりおんぶや抱っこを繰り返していたからだ。
ベランダに出入りするドアの前には洗濯物が山積みされている。カゴも置きっ放しで中はまだ干せていないのか。
そしてさゆりの髪はボサボサで、顔色は悪い。それどころか表情がない。
いつもあんなに輝くように笑っていた人だったのに。
何故?
彼女は、わからないのだ。
なぜ竜也が泣いているのか。
必死に色々模索をしてもわからないのだ。
それでも必死になんとかしようとしているのだ、彼女は母親だから。
この有様には、理由がきちんとあったのだ。
やっと貴仁は理解した。
汚したくて汚していたわけではなかった。
掃除をしたくないわけではなかった。
そうだ、彼女は綺麗好きで子供が生まれるまでこの家の中は綺麗だったじゃないか。
自分の食事の用意も出来ないなら他人の食事の用意など出来るはずがない。
母親ならば子供を一番に考えるのは当たり前だ、その子供がずっと泣いているのなら尚更。
さゆりも必死に戦っていたのだ、ずっと。
「馬鹿だ、俺は」
毎日見ていたのにどうして気づけなかったんだろう、あんなにさゆりは助けを求めてきていたのに。
貴仁の目に涙が滲んだ。
しかし自分まで泣いている暇などない。掌で目元を拭うと貴仁はさゆりのもとに駆け寄った。
「さゆり、ごめんな」
呆然と竜也を抱くさゆりの細い肩を抱き寄せ謝った。
耳をつんざく竜也の泣き声に紛れ、かすかにさゆりのすすり泣く声が聞こえてくる。
こんなに苦しんでいたさゆりを自分はさらに追い詰め続けたのか。
後悔してもしたりなかった。
二人で育てなければならなかったのに。
「ごめんな、本当にごめん」
謝りながら貴仁は胸にさゆりを抱いた。さゆりはなんの反応も見せなかった。
追い詰められた目に、もはや貴仁の存在が消え失せているのは明白だった。
それでもいいと貴仁はさゆりの髪を撫で、歯を食いしばった。固く閉じた目から涙が溢れてしまったがそんなものはもうどうでも良かった。
大切な、一番大切なものだったはずなのに。
自分の甘さがただ悔やまれる。
失ってもう取り戻すことはできない存在を、まだこんなにも愛おしく思っているのに。
「ごめんな」
貴仁は謝った。
二人にただ、心から謝り続けた。
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「よろしいのですか?」
青柳有美は隣に立つ女性にそう声をかけた。女性が椅子から立ち上がり帰るそぶりを見せたからだ。
「ええ」
女性は簡易ベッドに横になる男、西條貴仁に向かって満足げな笑みを浮かべてみせた。
女性は華奢な肢体でありながら、眠る幼い子供をしっかりと腕に抱いている。
「上田様、西條様はこの後もお話の場を持たれたいようなニュアンスでいらっしゃいましたが」
「そうね、でもそれは西條の意見。私はね、もうこれきり顔も見たくないの。私の気持ちが知りたかったと言うからじゃあ教えてあげようかしらと思っただけ」
先ほどまでの笑みはどこへ言ったのか。酷薄な冷めきった眼差しを西條に向け、上田さゆりは腕の中の子供を抱え直す。
「後悔したいのなら勝手にすればいいし、今までの自分を悔い改めたいのならそうすればいい。私はもう、この人のことを、信じられないのよ。どれだけ懺悔し、改心して、私たちに尽くそうとしたところで私の心には何も響かない。・・・それってもう、夫婦に戻るどうのこうの言う以前の問題ですよね?」
私にとって彼は人としての価値も温かみもないのだと、彼女は言った。
有美にはそれ以上何も言う資格はなかった。
言おうとも、思わなかった。
ただ哀しげに微笑んだだけだった。
彼女が店を出て行った30分後、西條が目を覚ました。起き上がり辺りを見回し、彼女がいないことが分かるとがっくりと項垂れた。
そして自嘲気味に笑う。
「そりゃあ、勝手な男だと思いますよね。謝って反省してみせれば元に戻れるかもしれないなんて・・・」
彼に対しても、有美は何も言わなかった。
言う必要がなかったのだ。
何故ならこれはよくある話だからだ。
互いにいっぱいいっぱいになり思いやれなくなった結果、離別に至るなど今のご時世あまりにありふれ過ぎていて話のネタにもならない。
「自分勝手なのは分かっていたんです。でももう一度だけ、さゆりの笑った顔が見たかったんです」
西條は寂しそうに笑い一人呟くと、項垂れたまま部屋を出て行った。
「ご利用、ありがとうございました」
丸くなった背を見送ると、有美は慣れた仕草でポケットからタバコを取り出し咥えると火を灯す。吐き出された煙が宙に広がり消えていった。
よくある話であっても当人の痛みと苦しみは測りきれないのだろう。
しかし壊れた過去はもう元には戻らない。
これから先、きっと彼の望みを叶えることは何よりも難しいはずだ。
おそらくもう二度と、西條は彼女の心からの笑みは、見られないだろうからだ。
「幸せになれるはずだった、てか?」
簡単なことだ。
相手を許し、労い、いたわればいい。
お互いにそうすれば良いだけだ。
それだけで人はある程度幸せになれるのに、なのにたったそれだけがどうしてできないのか。
「まあ、それすらありふれてて、面白味も何もないんだけどな」
原因も改善策も全て今に始まった事ではない。大昔から何も変わっていないじゃないか。
つまり人間は変われないのだ。
「虚しいねぇ」
読んでくださってありがとうございました。時話は早めに頑張ります。




