愛燦燦
今回はショートストーリーです。
「頼む。これから先、幾千幾万もの苦難が待ち受け襲ってこようとも、頼む、お前だけは諦めないでくれ。この言葉がどれだけお前を苦しめるか私は分かっている。だがそれでもお前は諦めたら駄目なんだ。お前だけは絶対に諦めないでくれ。後生だ」
そう言って彼は咽び泣いた。
私はそれを聞きながら、彼とは反対に微笑みを浮かべていた。微笑みただそこに在った。
「苦しみに身を投じろと言う私を恨んでくれていい。私を恨み呪ってくれていい、だからそれでも。頼むから・・お前だけは諦めないでくれ」
それが主人の最後の言葉だった。
ならばききましょう
あなたのさいごののぞみを
かなえられるのはわたしだけ
あいするあなたのことばなら
たがえはしない
このいのちにかけて
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それを青柳有美が見つけたのは偶然だった。
その日の外出時、たまたま雨が降り、突然の事に当然傘など無く、生憎ポケットにも数枚の小銭しかなかった。
今現在コンビニの中には居るが傘を買う金は持ち合わせていない。カードもない。
傘をささずにはおよそ出歩けない雨量であるのは町並みを灰色に染める雨粒とザアザアとなる雨音からも容易に想像がつく。
ガラス越しの空は重暗く、しかし時折雲の隙間に稲光が瞬き妙な明るさを纏い、それが胸を騒つかせた。
十分待ったが雨は変わらず降り続けた。止む気配はない、と有美は諦めコンビニの外に出た。
一歩を踏み出した瞬間に全身がずぶ濡れになるが、承知で外に出たのだから仕方がない。
苦笑い、人気の失せた歩道を悠然と歩き始めた。
こんなにも歩道に人の姿がないのは初めてだ。まるで自分だけの道になったように思えたが、その子供じみた考えに気づくと一人笑った。
大通りから一本裏道に入った。たまたまではなく、その道が事務所への近道だったからだ。
後から後から伝い落ちる雨粒は頬を伝い顎から滴り落ちて行った、幾筋も。
何度目かで拭うのもやめた。
ただ、前髪から雫が落ちるのだけは煩わしく、髪をかきあげた。
そしてふと目線を左に流した。
何故そうしたのかはわからない。動きの流れでそうしたのか、何か気になるモノがあったような気がしたからか。
有美は路肩の電柱の隅にうずくまる「それ」に気がついた。
「それ」は猫だった。
蹲り死んでいるのか微動だにしなかった。
有美はゆっくりと近づくとその猫を持ち上げた。
猫は死んでいた。
古ぼけてはいるが首輪が付いているので飼い猫なのだろう。本来ならば家で安穏と生きていけたはずだろうに、孤独の中に死んで行った猫が不憫でならなかった。
有美は猫を胸に抱いた。
汚れ、ビショビショの猫を胸に抱こうと思ったのは、すでに自分も同じような有様だったからだろう。
冷たく硬い体を両腕で包み込むように抱くと、有美は再び歩き出した。
事務所に戻った有美の濡れ鼠なその有様を見て、事務の奥園まどかは僅かに眉を顰めた。しかしその腕の中に猫があるのを見ると、次いで訝しげな眼差しを向けてくる。
それらの全てを無視すると有美は真っ直ぐにバスルームへと向かった。
シャワーから温かいお湯を出すと腕に抱いたまま体を温め清めてやる。
灰色かと思っていたが、その猫は白毛の美しい猫だった。
綺麗にしてやるとバスルームを出て、柔らかなタオルで体を拭いてやった。そしてドライヤーで毛を乾かしてやる。
まだ死んで間もなかったのだろう、フワフワと毛並みは蘇り、まるで生きているかのようだった。
そして新しいタオルに包み直すと手早く自身の身支度も整える。
事務所内に戻るとソファの上にそっと猫を置き、首輪を外した。
小さな首輪は手の平に収まるほどに小さかった。
有美は穂紬の部屋にノックもなく入り、驚いた顔をしている穂紬へと向かって歩いた。目前で立ち止まると手に持っている小さな首輪を差し出す。
穂紬はやれやれといった風体でそれを受け取った。そしていつものように直ぐに有美にそれを返す。2人の指先が一度、触れ合った。
「サンキュ」
そのまま視線も交わさず有美は部屋を出た。
ソファの前には奥園まどかが跪いていた。
猫に触れ、そして驚きに目を見開いていた。近づいてきた有美に気がついたのかハッと顔を向けてくる。表情は困惑の一色だった。
「副所長・・」
「何だよ」
「・・・いえ」
まどかは何も言わず立ち上がると有美と猫から少し離れた位置に移動し、そして立ち止まる。行く末を見届けようとしているのか。
有美は優しい手つきで首輪をつけ直すと猫を抱き上げ腕に抱き直す。そしてソファに腰を下ろした。
猫を見下ろす眼差しは温かく、毛並みを梳く指は優しかった。
有美は徐ろに閉ざされた猫の目を手の平で覆った。
一時間後、雨は止んだ。
雲間から降り注ぐ日差しは窓際に立つ有美と腕の中の猫を照らした。よくよく見るとその猫は老猫であった。
硬直しているはずのその猫の顔がまるで微笑んでいるかのように和らいで見える。
煙草を燻らせながら有美は猫の背を何度も撫でた。
「悪かった。お前は・・一人じゃなかったんだな」
記憶の中の猫とその飼い主である男のやり取りは、哀しくとも愛に満ちているものだった。
病に倒れた天涯孤独の男は死の淵で猫に言った。
まだ子猫であった白猫に幾度も手で触れながら、自分の死で猫が孤独に身を投じなければならなくなる事を。しかしそれでも生きて行ってほしいと、そう言い最期の力で猫を撫で泣いた。
猫の目は理知的であった。
言葉を理解したのだろう。
それ程までに猫は男を愛していたのだ。
「お前は諦めなかったんだな、生きることを、最期まで」
木漏れ日は柔らかに猫に降り注いだ。
それはまるで愛のように。
読んで下さってありがとうございました。




