奈落の底
ご無沙汰しておりました。
前話の続きに近い話となってます。読まれてない方は先にそちらをどうぞ。
数年前から僕が生きて来た場所は一片の光も届かない暗闇だった。
場所云々の話ではない。
僕は目が見えないのだ。
盲目である、と言っても良いかもしれない。
交通事故の後遺症で視力を失った為だ。
そんな僕が恋をした。顔も見たことのない人をどうしてと思うかもしれないが、やはり目が見えなくとも人間性は見える。
彼女は素っ気ない人だった。
感情がないのかもしれないと言ってもいいと思う。
彼女は目の見えない僕の世話をしてくれる人で、週に二日ほど僕の家にやってきては色々なことをしてくれた。
それは彼女にとって仕事なのだから何の意味も持たない行為であるのは分かっていた。
それでも、そんな彼女が時折僕に話しかけてくれる。
天気の事、時事ニュースの事、休みの日に公園で見かけた犬が可愛かった事。
全てが取るに足らない、些細な話でしかない。きっと彼女にとってもそうであっただろう。
でも僕にとっては全てがもう見ることはない懐かしい世界だった。
皆が気を使ってそう言った話を避ける中、彼女だけが普通に接してくれた。
彼女には感情も無いが同情も無い、視力を無くした僕を一人の人として扱ってくれた初めての人だった。
だから、単純な僕が恋を覚えるのにさして時間はかからなかった。
「あなたを好きになってしまいました」
僕に物を手渡そうとしてくれた彼女の手を握り締めながら言った。
「そう、ですか」
鈴を転がしたような可愛らしい声が僅かな困惑を纏いながらそう返した。
「困りますか?」
「そうですね。考えた事がなかったので」
「そうですよね。・・・悠里さん」
「はい」
「返事は急ぎませんし、あなたから何か言ってくるまで僕からは何も言いません。だから、ゆっくり考えてみてくれませんか?」
手を緩めるとスルリと小さな手は抜け出て行った。
「分かりました」
恐ろしく事務的な口調の返事に、僕は彼女の表情を想像してみた。
けれど笑顔も困り顔も何も想像出来なかった。
それが悔しかった。初めて目が見えない事を、悔しいと思ってしまった。
「それでは失礼します」
感情のない声音がいつも通り僕に別れを告げた。
「はい、また来週お待ちしてます」
僕は笑ってみせた。
もう何年も見てない僕の顔は一体どんな顔をしているのだろう。
一つ分かるのは、多分泣き出しそうな顔をしているだろうって事だけだった。
それからしばらくの間、僕たちの間には何もなく時間だけが経っていった。
彼女には何も言わないと言った手前、僕から何かを言い出す事は出来なかったし、何かを言ってこの穏やかな空気が壊れてしまうのが怖かったから。
二週間が経った。
「一緒に行って欲しい所があります」
突然悠里が言い出した。
「・・・僕と、ですか?」
「はい」
食事をしていた僕はポカンとして、そしてハッとした。その拍子に持っていたスプーンがテーブルに落ち甲高い音を立てる。
悠里は気にした素振りも見せず、ただジッと僕を見ている。のだと思う。
「この間の返事をさせて下さい」
喜びも憤りも嫌悪も困惑も、何の感情もない彼女の声に僕は、この時ほど彼女の顔が、表情が見たいと思った日はなかった。
「はい。聞かせて下さい」
不安は少なからず覚えたし、怖かった。
応えた声は震えていたくらいだ。
でもその恐怖は彼女の態度の所為ではなく、好意に対しての返事が明確でない事に対してだけだった。
僕は見えない目を開くと彼女のいる方を見やる。
「連れて行って下さい、その場所へ」
手を差し出すと直ぐに指先が握り締められた。
少しひやりとする彼女の手が心地良かった。
彼女に連れて行かれた場所は、見たい夢を見せてくれるという少し胡散臭い店だった。
そこで僕たちは今、夢を見ている。
ーーーーーーーーーー
「不思議ですね。どうして目が見えるんだろう・・・それにあなたと同じ夢を見ている、んですよね?どういう理屈なのかな・・」
「夢は視神経で見ているわけではないからだそうです。そして同じ夢を見られるのは、ここがそういう店だからだそうです」
「・・・・なるほど」
見回すとそこは広い場所だった。そこに僕と彼女は立っていた。
空は青く高く、まるで海が頭上へ行ってしまったかのように幻想的で美しい。
そして僕たちの周りにはたくさんの人がいた。そこは公園のようだった。人の気配に気持ちが少し落ち着く。
これが夢なのか。
僕は信じられず些か懐疑的な顔をしていた。彼女がそっと僕の肘の辺りに触れてくる。
「すみません」
「え?」
「こんな所まで来てもらって」
「あ、いえ。構いません」
僕は彼女に向き直り、そこで初めて悠里の顔ちゃんとを見た。
想像していた顔とは違っていた。
色白で目は一重、鼻筋は通っていて、唇は薄い。丸顔で髪の毛は肩にかかっている。
薄茶の真っ直ぐな髪が陽の光に当たりキラキラと輝いている。
その顔に表情はほぼない。能面みたいだった。
「ガッカリしました?」
「・・・それは、あなたの容姿に対して、ってことですか?」
「はい」
言われてもう一度頭から足の先までを見る。
「確かに想像していた悠里さんとは違いました。でも」
「・・・・・・・」
「違和感はありません」
僕は話しながら悠里の顔にそっと手を伸ばし、恐る恐る髪に触れる。
「あなたはとても素敵です。正直もっと好きになりました」
悠里が驚いたように目を見開く。
僕は両手を伸ばし悠里の頬を包み込んだ。
不思議だった。
彼女の顔は今までの僕の好みとはかけ離れている。表情もなく人形のようだし、会話をしていても淡々としていて感情の起伏はない。
普通なら相手をしていてもつまらないと感じるはずだ。以前の僕ならきっとそう感じていたと思う。
なのに何故だろう。
「正直に言うとあなたは僕のタイプではありません。だけどやっぱり僕はあなたが好きだと感じています」
「・・」
「目が見えなくなって、僕は僕自身が奈落の底に落ちたと思っていました。まだ二十歳で先は長いし、はっきり言ってお先真っ暗です。今でもどうしたらいいのか分かりません。だけど不思議と絶望はしてないんです」
僕は悠里の頬に触れさせていた手を離した。
「僕は目が見えないからあなたの顔や表情が見えなくてもあまり関係がない。それに今こうやって悠里さんの顔を一度でも見られた、それでもう満足です。あなたが側にいてくれたら、きっと大丈夫なんだ」
一筋の光が射したように僕の居る場所は明るくなった。
「僕の側に居てくれませんか?」
僕は笑った。でもきっと、本当は今泣きそうな顔をしているんだろう。
悠里は僕をジッと見つめていた。
「あなたのいる場所が奈落の底であるというのなら、私の立つ場所もきっとそうなんだと思います」
「え?」
「私は母親に虐待されて育ちました。ネグレクトと言うそうです。だから人の気持ちがわからない。私自身の気持ちもわからない、人の心がわからないんです。でも・・・あなたに好きだと言われて、ほんの少し心の中に何か、今までと違うものが出来たんです」
悠里が笑った。それはぎこちなく引きつっているけれど、可愛かった。
「私は人の気持ちが分からない。あなたもいつかそう思って私が嫌になって立ち去るかもしれない。そう思っています。それでも、いいですか?」
「悠里さん」
「あなたと居て、いいですか?」
僕は目を閉じた。涙がこぼれ落ちていった。
「ありがとう。でも、最初から終わるかもしれないなんて思わないで。あなたの方が僕を嫌になるかもしれないんだ、だから」
「・・・だから?」
少しだけ悠里が不安そうな顔をした。
愛おしくてたまらなかった。
そしてふと、夢から覚めたらもう二度と彼女の顔が見られなくなるかと思うと、切なかった。
「今を生きましょう、一緒に」
たまらなくなって僕は悠里の体を抱きしめた。
細い体は頼りなく小さいけれど、温かい。
「はい」
小さな返事と、そして僕の背に腕が回されて、僕たちは互いを抱きしめ合った。
ーーーーーーーーーー
「幸せになって欲しいね」
「・・・ああ」
たった今ここを出て行った若い二人の背を見送り、青柳穂紬は呟いた。
有美も力無く応える。
「彼女、前来た時と少し違った気がするよ」
「・・・・・・・」
「・・有美、僕たちが選んだ答えは正解じゃなかったかもしれない。でも間違ってはいないはずだ」
それきり静まり返る事務所内で立ち尽くす二人は視線すら合わせない。
「・・・・有美」
「わかってるよ」
自分がこんな風に鬱いでたってどうもなりはしないのだ。
本人たちが前を見て進んで行くしかない。
これ以上はもう何もしてやれない。これきりの他人でしかないから。
「分かってる」
大丈夫だ、彼女はもう一人じゃない。
最初に会った時とさっき夢から覚めた時の顔が違っていた。
有美は窓際まで歩くと自分の椅子に座った。引き出しからタバコを取り出すと一本を咥え火を灯す。
願うことしか出来ない。
それは初めから分かっていたことだった。
ただ今回は、彼女の望みを完全な形で叶えた訳ではないことが悔やまれる。
「・・・知らない方が幸せになれる」
あれを見てしまえばまともな人生は送れないだろう。
「これで良かったんだ」
それは彼女に言ったのか、自分に言い聞かせたのか有美自身にも分からないままだった。
そして分からないままにただ願う。
二人が互いの灯火であり続けられるようにと。
読んで下さってありがとうございました。




