歌姫《中編》
あけましておめでとうございます。
大変遅くなりすみませんでした。
「この手毬の持ち主は小林辰子、享年57歳。クソジジイは8歳からの一年間をこの女性と過ごしている。場所は香川県。幼い頃から手を焼く少年だったってよ」
鏑木が事務所にやって来て依頼をしていったのが昨日の事だ。
結局昨日はあの後は仕事にならず・・・気を利かせてその後の予定は入れてなかったのだ・・有美は怒り狂う兄のご機嫌を取り続ける羽目になってしまった。
夕方から二人で飲み始め、飲み明かし家に帰ったのは日を跨いでからだった。
よって流石に体がキツイ、どれだけ飲んだか知れないが飲酒量最高記録を更新したのは間違いないだろう。
しかしグロッキーで青い顔をしている有美とは裏腹に穂紬はケロッとしたもので、酒の匂いすら漂って来ない。清廉な好青年そのもので、この差はなんなんだと有美は内心複雑極まりなかった。
自分は午後を過ぎても応接用のソファーから起き上がることすら出来ないのに今普通に仕事をしている穂紬は一体何なのか、怪獣かザルかブラックホールの所持者なのか。
「ちょっと有美、聞いてんのか?」
「き、聞いてるから・・あんま、でかい声、出すなって・・」
事務の奥園まどかに用意してもらった氷嚢を額に押し当て、ドリンクボトルに入れてもらった氷水を口にしてただひたすら酒を薄める努力をしているのにちょっとキツい口調でそんな事を言われ、軽く責められているようで有美は泣きそうだった。
「て言うかさぁ、有美ってお酒弱くなった?」
「・・っ」
ケロッと聞かれ有美は唇を噛む。目に涙が滲んできてそれを隠すためにソファーの背もたれ側に顔を向けた。
「ちょっともう、あっち行ってろよ」
グスッと鼻を鳴らし、シッシッと穂紬を手で追いやる。
「えー?何なのさ、もう」
穂紬はブツブツ言いながらもその場から立ち去っていった。事務所内の自室に入ったのだろう、パタンと音がしてその場は静かになった。
「副所長、お加減は如何ですか?」
計ったように奥園まどかが有美の側にやってきた。膝を落とし顔を近づけてくる。
「あー奥園・・悪いけど、水お代わり、ちょーだい」
「お持ちしてます」
サッと新しいドリンクボトルを差し出され、それを受け取った有美はボトルとまどかの顔を交互に見やる。
「なに・・何か優しくね?」
「いいえ、副所長に働いて頂かなければうちは収入がほぼありませんからこれは当然の事です。さっさと復帰して下さらないと困るんですよね」
ニッコリと微笑むとまどかは応接用のテーブルの上に白い封筒を置いた。
「香川県までの往復の切符代が入ってます。明日までには体調を直して午前中の便で出て下さい」
そう言うとまどかはさっさと自分の席に戻って行ってしまった。残された有美は呆然とテーブルに残された封筒を見やる。
「え?俺?」
俺は馬車馬じゃないよ?
「・・・なあ、マジで?どう考えたって俺じゃないだろぉ」
返答はなかった。
有美は封筒から目を離し天井を見上げた。
その目は僅かに潤んでいた。二日酔いのせいかそうでないかは分からないが、見た者は居なかった。
「お母さん、ちょっと買い物に行ってくるね」
森脇七瀬は財布の入った小さなバッグを持ち、母のいる居間を覗いた。
母は疲れた顔で居間に隣接するダイニングのイスに座りボウっとしていた。
「何か買ってくるものある?」
「・・・・・・ないわ」
「分かった」
分かりきった返答だったが出かける前に声をかけないと後が面倒くさいので、七瀬は出かける前に家に母がいると必ず声をかけるようにしていた。
靴を履き外に出ると天気は良く、日差しが暖かく気持ち良かった。
大きく伸びをしてから歩き出す。
スーパーに行く前に以前通って見つけたあの家の前にを通ってみようと、鼻歌を歌いながら七瀬は歩いた。
歌うのはあの家から聞こえてきたあの歌だった。何度か聞くうちにメロディーを完璧に覚えてしまった。
「この歌、なんて歌なんだろう」
なぜか懐かしいこの曲、自分も知っていたから
ありふれた歌だとは思うけれど人に歌って聞かせるのは恥ずかしくて歌ったことはない。
調べたいけれどメロディーだけでは調べられず、あの家の人に聞いてしまいたいくらいに七瀬の気持ちは高まっていた。
すでに通り慣れた住宅街の中の目的の家の前にまでやって来ると七瀬は門から少し離れた所で立ち止まる。
今日はあの歌は聞こえて来ない。
「・・・残念」
小さく溜息を吐くが、あの歌が聞きたくてこの場を立ち去ることが出来ない。
七瀬は少しの間反対側の家の壁に背を預けその家を見ていた。
「鏑木、さんかぁ。かっこいい名前」
一体どんな人なのだろう、男か女かも分からないけれどもし出来るのなら会ってみたい。会って目の前であの歌を聴きたい。
切ない視線を送り続けていると左から大きな黒い車がやってきた。七瀬は慌てて壁にピッタリと体を預けその車が通り過ぎるのを待とうとした。すると目の前の邸宅の門が開き車が中に入って行こうとする。
この家の人だ!
そう思い七瀬は心を躍らせた。もしかしたらもうすぐ歌ってくれるかもしれない。
キラキラとした眼差しを車に向けていると門の中に入った車が止まり、そして人が出てきた。
年配の男の人だった。
「うちに何か用かね?」
男は七瀬の前までやってきてそう尋ねた。
「えっ!・・・あ、あの、私」
「何度もうちの前に来ているだろう?」
知られていた。七瀬は顔を真っ赤にして俯いた。
「君は知り合いではないと記憶しているが」
「あの、私・・・すいません」
「謝らなくていい。わしに何か用事かね?」
男の言葉は優しかった。七瀬は顔を上げ男の顔を見つめた。
声が違うから歌っている人はこの人ではない、それは分かる。
見るからに怖そうで頑固そうなおじいさんだ。でも不思議と怖くはない、と感じた。
だったら、聞いてもいいだろうか。
七瀬は意を決し姿勢を正す。
「あの、その、この家から歌が聞こえることがあって・・・それを聞いてました。すみません」
「歌?」
男は訝しげに眉を寄せた。まるで心当たりがないように。
もしかしてこの家ではないのだろうか。七瀬は急に不安に襲われ男から一歩遠ざかる。
「ふむ、歌か」
「あ、あの・・・この辺りから聞こえて来ただけなのでもしかしたら違うかもしれなくて。私が勘違いしただけかもしれなくて」
泣きそうになりながら七瀬は萎縮し体を縮こまらせた。
「いや、それはうちで間違いないだろう。なるほど、歌が流れていたのか」
男は独り言のように言った。顔を上げ七瀬は男を見た。
表情はどこか柔らかく、嬉しそうにも見える。
「あの」
「来なさい」
男は七瀬を促すと男は門の中へ入って行ってしまった。
「来なさいって・・・」
七瀬はポカンと立ち尽くすばかりだった。
結局、男の家の使用人らしき人が呼びにくるまで七瀬はそこから動けないままでいた。
使用人に促され建物の中に入るとそこは七瀬が今まで生きて来た場所とは別次元の空間が広がっており、七瀬は目をチカチカさせながら言われるがままに大理石の廊下を歩いた。コツコツとヒール音が高い天井まで届いて行くようだった。
案内されたのは木彫りの彫刻が施された如何にも高そうな扉の部屋で、また促され室内に足を踏み入れるとそこは高そうな調度品で溢れかえっていた。
しかしやはり品の良い部屋だった。
部屋の奥、窓際であるそこに先程の男がこちらに背を向けて立っている。
使用人が退室し部屋には七瀬とその男のみ。否応無く緊張がこみ上げてくる。
「さて、まずは君の名を聞いても?」
男が振り返りそう言った。
「・・・森脇七瀬です」
「森脇七瀬君だね。わしは鏑木と言う」
「はい・・・あのぅ」
「あの歌が気に入ったかね?」
鏑木と名乗った男は七瀬の言葉を待たず、聞いて来た。七瀬は目を瞬かせる。
「はい。あの歌を歌っている方は、いらっしゃるんですか?」
おずおずと七瀬は聞いた。
「・・・ここで待っていなさい」
鏑木はそう言うと隣室へと続く扉の向こうに姿を消した。
そしてしばらくすると隣室からピアノの音と歌声が聞こえてくる。
聞き慣れたメロディー、歌声。
あの声の人だ。あの歌を今隣で歌っているのだ。
七瀬はこみ上げてくるものを抑えきれず口元を手で覆った。涙が後から後から零れ落ち、頬と手を濡らした。
間近で聞く歌声は美しく、凛としているのに聞いているだけで心が穏やかになる、そんな不思議な歌声だった。
いつまでも聞いていたい、涙を流しながら七瀬は願った。
けれどいつも聞いていた歌はやはり終わりを迎え、いつしか室内から音色は消えていた。
気がつくと七瀬の居る部屋に鏑木が戻って来ていた。
「いい歌声だろう?」
鏑木は自慢げに胸を張った。
「わしの自慢の娘だ」
「隣に、いらっしゃるん、ですか?」
娘、と鏑木は言った。
あの歌を歌う人は、女性なのか。一つ知り得た事実に七瀬の心は踊った。
七瀬の問いに鏑木は答えず、何も言わないままに再び隣室へと姿を消した。
ついて行ってもいいのか七瀬は一瞬迷ったが、心が抑えきれず鏑木の後を追うように隣室に足を踏み入れた。
そこには鏑木以外の人が確かにいた。
そこはベッドルームだった。
薄紫のシーツに白い糸で綺麗な刺繍が施されたベッドの上には確かに一人の女性が横たわっていた。
開け放たれた窓にかかったレースのカーテンが風に揺れ、木漏れ日が合間から差し込んでいる。そして部屋の中央には磨き上げられたグランドピアノが存在感を放っていた。
そんな部屋の一角には不釣り合いに大きなテレビが壁に掛けられている。
その画面の中にも女性がいた。
「・・・・え?」
静止した画面の中の女性はきっと鏑木の娘なのだろう、どこか面影がある。
七瀬は視線をベッドに戻し、確認した。
それはベッドで横たわっている人と同じ顔をしていた。
けれど違うのだ。
画面の中の女性は、もっと若かった。
彼女の昔の映像だろうかと、七瀬は画面とベッドの女性を交互に見た。
「わしの娘だ。雪惠という」
「あ、はい」
「歌っていたのはこれだ」
鏑木はベッドの傍まで行くと雪惠と呼んだ女性の髪を撫でた。
女性はされるがままで微動だにしない。この時やっと七瀬は気づいた。
女性の目が虚ろであることに。
「ただしさっきの歌は映像の中のものだがな」
「そう、なんですか?」
少しずつではあるが七瀬は状況を理解し始めていた。
「これはもう歌えんのだ。あちこちが・・・壊れてしまっていてな」
知らされた事実に七瀬は言葉を失った。
女性の状態を見て嫌な予感はしていた。しかし実際に事実を聞かされると、想像していた以上の虚脱感に襲われた。
「そんな・・・」
「七瀬くん、唐突だが君に頼みたいことがある」
「え?」
「ついさっき知り合ったばかりで図々しいとは承知している。だがどうしても頼みたいのだ。聞いてはもらえんだろうか」
苦しげに歪められた眉、口を一文字に結び鏑木は一度目を伏せた。
そしてその目が上げられた時、その目の色を見て、七瀬は言い表せないものが自身の中に湧き上がってくるのを感じた。
この感情は何なのか、わからないままに、七瀬は突き動かされるように頷いていた。
後編はなるべく早めに上げたいと思います。
よろしくお願いします。




