車椅子と天使
駅構内の切符の販売機の前に立ち財布を開くと、千円札が一枚と数百円分の小銭しか入っていなかった。これから汽車とバスを乗り継いでの移動だというのに、あまりに心もとない所持金である。
もとより一枚しかなかった千円札も、ちっぽけな磁気シートのような切符にすり替えてしまった。このままでは、帰りの汽車賃が足りない。
小銭ばかりの財布は金額以上に重く感じられ、それが物悲しさを助長した。
汽車が出るまであと二十分ある。確かどこかにATMがあったはずだ。そう思い立って、私は気の向くままに歩き出した。
それなりに大きな町の駅とはいえ、一回り十分もかからない大きさだ。お目当てのATMも、難なく見つけることが出来た。
機械自体は二台あるのだが、預金先によって機械が変わってくるらしい。私がいつも利用している会社のものの前には、先客がいた。若い女性がわきに車椅子を止めて機械に向かっていたのである。車椅子の上にはいくつかの荷物が積まれており、そこに座るべき人の姿が見えなかった。
それとなく周囲を見回すが、身内と思われる足の悪そうな老人の姿は見当たらなかった。ということは、荷物置きにでも使っているのだろうか。
不当な目的を勘ぐりながら、ATMを操作する女性の後ろ姿の隅々まで視線を巡らせる。その間だけは、傍を通り抜ける人たちの足音が遠ざかったように感じた。
スカートからすらりと伸びる足はカラータイツで彩られ、流行りのベージュのコートとそれよりもやや濃いくらいのセミロングの茶髪が今どきの女性を思わせる。しかし、飄々と暗黙のルールを破るような人間独特の雰囲気のようなものは見受けられなかった。
どうやら、不覚にもその女性の後ろ姿に見蕩れていたらしい。
らしい、といったのは、気が付いた時には彼女が車椅子を押して歩きだしていたからである。遠ざかっていく彼女の姿に、どこか違和感を覚えた。
――歩き方がぎこちないのだ。
気が付いた時には、彼女は随分と離れたところまで進んでいた。
きっと、あの車椅子は彼女が座るためのものなのだろう。細かい事情は分からないが、それでも心にしみる何かがあった。
彼女は下手くそなスキップにも見える足取りでゆっくりと改札へ向かって行く。午前中の柔らかな陽光に包まれて、神々しく見えた。
ああ、彼女は天使なのだ。
なぜかそう思った。私の後ろに列が出来ていないのをいいことに、後ろ姿が見えなくなるまで浮かれたような歩き方の天使に熱い視線を送り続けた。
放送が私の乗るべき列車の改札を告げる。
その声に現実へ引き戻され、ようやくATMの前へ立った。あっという間に十分もの時間が流れ去っていたことに、そこでようやく気が付いた。