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世紀の勝負

常常と異なり、やけに上機嫌で出御した帝に、これで振り回されないで済むとばかり、東宮が心中ほっと胸を撫で下ろす。

 帝を粛々と奉送した途端、平身していた葵がぐらっと傾き、そのまま床に突っ伏した。

薫が、ふわりと葵を抱き留める。あどけない顔に柔らかな寝息を立てすいと寝入った葵を見て、東宮がいつもの光景とばかりやれやれと嘆息する。

薫が恰も幼子を慈しむ眼差しで穏やかに微笑むと、葵を抱き上げた。

「三日間碌に寝ていなかったから、緊張が途絶えて眠くなったのだろう」

「碌に寝ていないとは……薫、お前は平気なのか?」

薫が次の間に敷いた布団の上に葵をそっと寝かせると、肩越しに答えた。

「傍迷惑な誰かの所為で眠れなかったのは確かだがね……。まあ大丈夫だ。私はそんなに軟じゃない。それよりも……」

次の間の襖をはたりと閉め中央の居間に戻って来ると、薫が真っ向から東宮を見据えた。

「確認したい事がある」

言うが早いか、薫の手刀が目にも留まらぬ速さで空を切る。虚を衝かれた東宮が咄嗟に防御しようにも、不意打ちの薫の手刀の方が遥かに速い。

……駄目だ、避けられないと思った刹那、薫の手刀が東宮の胸元でビタリと止まった。

「……何のつもりだ、薫!」

東宮が薫を詰と睨み付けた。

「……やはりな」

頷いた薫が、慧眼を欹てる。

「他はごまかせても、私は騙されないぞ、大津! ……お前、肩と胸を強打して、かなり酷い打撲傷があるのではないか? 見せてみろ」

「……」

東宮が一瞬呆気にとられると、口辺を緩めた。お手上げだ、とばかりに苦笑を漏らす。

「流石だな。いつ、気付いた?」

薫が、ふっと口角を上げると答えた。

「初めに異変を感じたのは、鏑矢だ。いつものお前の剛腕だったら、より高音の力強い音が出るだろうに。若干引絞りが足りなかった。……だがその時は、他の弓矢を使ったせいかも知れないし、お前も疲れているのだろうと思った。……あの断崖から落ちて、如何なお前でも、無傷で済む筈が無い。見た目の擦過傷や創傷が無ければ、打撲傷を疑うのは当然だろう。そして……確信したのは、帝の攻撃を甘んじて受けた時だ。お前、数発を避け切れず、まともに食らっていただろう。いつものお前ならば、有り得ない事だ。帝も薄々事情を察して、すんなり戻られたのだと思うが……な。いいから先ず、見せてみろ」

東宮が座したまま狩衣を脱いで単衣になると、袖から一気に両腕を引き抜き、ばさりと上半身を露にした。引き締まった筋肉質の体躯はしなやかで殊の外見事であったが、薫の推察通り、肩から胸にかけて外傷こそないものの、強靭な体は見るも無残に痛ましく、赤紫や青黒色に変色していた。


薫がひと足先に二条院へ帰参したのは、手負いの可能性がある東宮の帰還に際して、二条院で万全の準備を整える為であった。

武者小路の矢は一射のみで、後を追跡しようにも、森森とした叢樹の中で得られる情報には限りがあり、土台、単騎独行では不可能であった。

況してや相手に地の利がある場合には、却って此方が相手の策略に陥る事になる。深追いは危険だと判断した薫は、射られた矢が武者小路の物であると確認すると、いとも淡白に追及を断念し、早々に二条院に戻ると氷室を開け、大量の氷を用意していたのである。


 それにしても、まさかここまで酷いとは思わなかった。呆れ果てた薫が、東宮に尋ねる。

「酷い打撲痕だ……。お前、よく平然としていたな……大丈夫なのか?」

東宮が視線を上げ、氷桶を取りに立ち上がった薫を見遣ると、泰然として答えた。

「ああ。目覚めた直後は少し頭痛を感じたが、今は何とも無い。肩は、腕を挙げれば流石に辛いが……。胸は少々痛むくらいだ。平気さ」

……これだけの惨い打撲傷を負いながら平然と弓を引き馬を駆り、激した帝との拳の応酬に当然の様に応じている……。

薫は、余りに化け物じみた剛健無比なる東宮に、眩暈さえ覚えると甚だ驚嘆した。

薫が東宮に静臥する様促すと、砕いた氷を氷桶に満載し、白布を大量に入れた箱を持ち、東宮の傍らにふわりと座る。

氷水を浸した白布で丁寧に患部を冷やす。熱は、無い様だった。

当初、余りの冷たさに思わず顔を顰め難癖を付けた東宮であったが、慣れると快適だった。

東宮が、ふ―っと大きく溜息を吐く。……漸く家に帰って来た。

ほっとすると同時に気が抜けた。……葵が眠りこけたのも良く分かる。

胸と肩の冷たさが、何とも心地好い。何だか疲れたな……と、熟熟感じた。

……丸二日気を失って寝ていた筈が、また眠くなるとは何とも不思議だ……。

「少し、眠るといい。……無理しないで、体をゆっくり休ませろ」

薫の声が、聞こえた気がした。

「ああ……」

逆らえない眠気に負けて、東宮は瞳を閉じ、引き込まれる様にすっと眠った。


 ふっと目が覚めた。どの位眠ったのか……。朝の清清しい光が、部屋に差し込んでいる。徐に起き上がり、ゆったりとした動作で妻戸を開け放ち、半蔀を跳ね上げる。

心地好い清風が、さあっと吹き抜けた。東風が運ぶ、雨上がりの土と青草の萌え立つ匂いに、どうやら昨夜は一晩中雨だったらしいと思い、部屋に戻った。

肩と胸の鈍痛が随分と楽になった……。

患部を触り、その冷たさにはっと気付いて、薫を捜す。

 と、御帳台の柱に軽く体を預けながら片足を伸ばし、もう一方の膝を曲げて片肘をつき、その上に頭を乗せたままの格好で薫が寝ていた。寝ている……というよりは、呼吸しているかも怪しい程、彫像の様にぴくりとも動かなかった。

成程、どうやら俺の手当てをしていてそのまま疲れ果て、記憶が飛んだらしい……。

慣れない人間が目にすれば、間違い無く座ったまま死んでいる……とでも思うだろう。

存在している気配がまるで無い、置物の様である。其れ程全く動かなかった。

 相変わらずの寝相だな……と、東宮が思わずくっくと笑い、薫を見遣る。

普段、あれ程周到で用心深く、完全無欠で隙など無い薫が、一旦寝入ってしまうと前後不覚どころか全機能停止に近い状態に陥る。何をしても起きないし、感じない。周りで見ている方が、生きているのか不安になる程だ。

どうやら薫の天質は、日中五感を駆使して才器を酷使すると、就寝時には全ての感覚が完全遮断されるという厄介なものらしい。全く、斯くも昼夜で様子が違うとは、まず誰も思いもしないだろう。

夜、寝込みを襲撃されたら間違い無くあっさりと、寝首を掻かれる典型だ。

東宮は薫を抱き上げ褥に寝かせると、微動だにせず呼吸音も感じられない程昏睡している薫を見ながら、出会った時からこうだったなと、思わず懐かしい昔を思い出した。



 袴着の後間も無く、読書始めと称して帝王学を筆頭に、雁字搦めの学問が始まった。

勿論東宮はさっぱり遣る気が湧かず、東宮傅の目を盗んでは脱走し、侍従の尾行をまんまと撒いては山野に分け入り、不羈奔放の毎日を送っていた。

貴族の子弟も、ほぼ同じ年頃に学問が始まる。貴族の子弟は大学寮という貴族専用の公立学校で勉学を学び、同時に宮中作法を覚える為に、殿上童として出仕が許される。

 葵は元服まで女児として育てられた事もあったが、基本的には家業が医師である為、医師見習いとして一部科目で大学寮に通う事はあっても、殆どの時間を自分の実家で過ごしていた。

 薫は貴族の子弟が一斉に殿上童として上がる頃には未だ、唐の都で留学中の身の上だった。薫が帰国したのは十歳の頃で、他の貴族の子弟よりは三年程遅れて殿上に上がり、同時に大学寮で学び始めた事になる。

 元服前の東宮は、内裏の中にある昭陽舎に居住していたが、脱走する事など日常茶飯事であった。朝議や年中行事がある日でも、堅苦しい礼儀作法や仕来りは御免だとばかり、ちょくちょく内裏を抜け出しては朱雀門を擦り抜けて大内裏を遁走し、羅城門を通り抜けては都を脱出していた。

 そんな或る日、東宮がいつもの様に内裏を抜け出し朱雀門を忍び歩くと、眼前の大学寮から貴族の子弟がぞろぞろと出て来るのが目に付いた。見付けられては後々面倒な事になるぞとばかり、とっさに朱雀門の屋根瓦に飛び乗り身を潜めて様子を窺うと、大勢の中に、その外見が他の子弟とは全く異なる子供がいた。

すらりとした長身に薄茶色の髪、蒼氷の瞳。

 ふーん、あいつじゃないか……と、興味深そうに東宮が眺めた。

確か、綾小路 薫と言った。三ヶ月程前、訳有って唐の都から共に帰国した。これまた訳有って、それっきりになっている。

薫は大勢に囲まれていたが、様子からして周囲を囲んでいるのは、好意的な連中ではなさそうだった。……面白そうじゃないか。東宮は暫く様子を観察する事にした。

 薫の方は冷淡な様子で周囲には一切構わず、寧ろ幾分うんざりしている様だった。特に感情を面に表す事無く、黙々と足早に大学寮の門を出てこれから大内裏へ向かうらしく、こちらの方へ歩いて来る。薫が朱雀門に差し掛かった時、非好意的な取り巻きも続いて朱雀門に向かって来た。彼等の会話が、これみよがしに東宮の耳に入る。

明らかに、薫に聞こえる様にわざと言っているのだ。

「唐の都にそのまま居た方が良かったんじゃないのか? 漢詩にしても、日本で改めて勉強するのは、さぞ馬鹿らしく思ってるんだろう?」

ひとりが言うと、大勢がどっと嘲笑した。

「彼の場合は寧ろ、日本語(大和言葉)を勉強し直した方がいいんじゃないか? 漢詩は理解できても、和歌を詠む繊細な心意気は、毛唐人には全く分からないんじゃないか? 瞳の色が物語っているよ! 氷の様な、薄情この上ない薄色だ!」

「ハハハハッ! 無理に決まってる! 大体、主上の類い稀なるお情けで、代々大学博士を細々と食い繋いでいた様な中流止まりの貴族が、太政大臣になったという事さえ畏れ多いというのに……。毛唐の血の入った得体の知れない息子が、我が物顔の大きな顔して殿上童とは一体どういう事だろうね! 全く、主上も物好きな御方でいらっしゃる」

「温厚篤実で有名な友禅殿は政治的野心も無いから、人畜無害でやりたい放題だと父上も仰っていたさ! どうせ友禅殿の一代で、帝の御寵愛も絶えるだろうよ」

「友禅殿も学問に一途な御方と思っていたが、毛唐人の奥方を迎えたとあって一気に興醒めしたよ! 血統を重んずる、我々日本人の矜持を忘れたと見えるね」

 全くその通りだ! とばかりに、上流貴族出身を自負する彼等が哄笑した。

 黙許したまま、薫が淡々と前を歩き続ける。

 ……凡そ、とんでもない会話だ……。垣間見ていた東宮が仰天した。

彼等にとって薫は、留学後に遅れて殿上童になった事も癇に障れば、その容姿が異質であるだけに、日頃の鬱憤を晴らす格好の餌食であるらしかった。

それにしても……。余りに凄まじい侮辱の言葉に、東宮が耳を疑った。

あいつ……反論しないのか? 此処まで言われて頭に来ない人間なんて、居る訳がないだろうに! 何故、平然としている……何でだ?

 非好意的な集団のひとりが、大内裏に向かう薫に向かい、背後から土塗れの石を投げた。前方を歩く薫が、振り返らずにふわりと避ける。石は、当たらなかった。

今度は二人が同時にからかうつもりで石を投じる。

又も振り返らずに、薫がすんなりと器用に避けた。恰も背後に目がある様だった。

ひとりが木の一枝を拾い上げ、三度薫の背後から襲い掛かる。又もや、舞う様に躱された。前方に、朝堂院入口に当たる応天門が見えた。不意に、薫が足を止めて振り返る。

薫は、全く無表情だった。

数人が棒を手に、挵る様に薫に向かって同時に振り下ろす。だが、又も鮮やかにひらりと躱された。いたずらに棒を振り下ろすこと数回……結局、ただの一撃も薫に当てる事が出来無い。

 全く抵抗せず、反論しない。唯ひたすら、躱すだけ。

非好意的一団は、自分達の身分と権勢に薫が恐れをなしているからだ……とでも思った様だった。互いに見合い、陰湿な忍び笑いを浮かべると、悦に入った様子で嘲笑して棒を放り投げ、薫を無視して先に朝堂院に入った。

 一部始終を見ていた東宮は、口角を上げ面白そうに笑うと、当初の目的通り、都の外を目指して朱雀門を抜け出した。


 時刻は、昼を回った所だった。余りの晴天に遠駆けを満喫していた東宮は、京の西方に位置する嵯峨野の周辺まで戻って来た。この辺りは歴代天皇の離宮や貴族の別邸が在るぐらいで閑静な里山の風景が広がり、山紫水明な場所だった。

ふと山の麓の清流で喉の渇きを癒そうと思い川に下りると、清流の中程にある大岩の上に水干が整然と畳まれている。だが奇妙な事に、付近に人の気配は全く無かった。

何となく気になって大岩の上に立ち周囲を見渡すと、果たして近くの岩影に、首から下を川に浸かったまま仰臥している単衣姿の人影が見えた。

 ……死んでいるのか? 吃驚した東宮が人影に向い、迷う事無くざぶざぶと清流に入る。大岩の反対側はかなり深そうに思えたが、此方の水深は意外と浅く、少年である東宮の膝下以下だった。

 仰向けに倒れているのは、自分と同じ少年だった。近付いた東宮が思わず目を瞠る。

……この髪の色と顔は……。髪は濡れていて瞳こそ閉じているが、間違い無く薫である。  

午前中朝堂院に居た筈が……何故こんな場所に居るのかと、東宮が酷く驚いた。

続いて慌てて呼吸を確認する。とんでもない事だが……微かに寝息が聞こえた。

全く信じられなかったが、ありえないとは言え、こんな場所で彼は寝ている様だった。外傷も何も無いがぴくりとも動かない。……これでは死体と思われても仕方が無いだろう。 

……どうしてこいつは、こんな状況で寝続けられるのだろう……。放置しておけば間違い無く溺れるか、低体温で死ぬだろうに。

 東宮はやっとの事で自分とほぼ同じ体格の少年を水辺から引っ張り上げると、乾いた河原に静かに寝かせ、火を起こして温めた。


 数刻程して薫がすっと目を開ける。寝たままの姿勢で暫し茫然と周囲を見渡した。

「よう、目覚めたみたいだな」

突如として響いた声に、ぎくりとした薫が上半身を跳ね上げた。

ゆらりと燃える焚き火の反対側に少年が座って、自分をじっと凝視していた。

少年の風貌を見た薫が、はっとした顔になるなり襟を正して手を付き平伏する。

「……これは、東宮様。……何故、此処に?」

 くっくと笑うと、東宮が答えた。

「馬鹿! それは俺の台詞だ。こんな所で何してたんだ、お前? 俺が拾い上げなければ、あのまま死んでたぞ!」

 薫が再びはっとした顔になる。……そうか、自分はあのまま寝てしまったのか……。

どうやら其処を東宮に助けられたらしい……。髪は濡れていたものの、衣服は乾いていた。自分の単衣が干してある所を見ると、畏れ多くも東宮の服を借りた様である。

薫は眠る前の経緯と自分の心境を思い起こして、酷く顔を曇らせた。

寡黙になった薫を見遣り、東宮が再び問い掛けた。

「何だ? ……言いたくない事情か?」

逃れられそうに無い追及に、薫が平伏したままひとこと答えた。

「水浴していました。大層天気が良かったので……。どうやら水に浸かったまま心地好くなり、不覚にも寝入ってしまった様です。お助け頂いたとの事、恐縮至極でございます」

東宮が見る間に不愉快な顔付きになる。そして叱咤した。

「おい、薫! 敬語は止せと、前に言った筈だ! そんな爺共の様な物言いは、胸糞悪いから今すぐ止めろ! 平伏もするな! ……それに、俺に嘘は通じない。顔を上げ、俺の目を見て本音を言え!」

東宮の激声に、薫が従順に上体を起こすと視線を上げた。

東宮がその鷹の様な双眸で、真っ向から薫の瞳の深淵を見つめる。

眼光炯炯として薫の胸奥を全て看破するかの様な、鋭敏極める観察眼だった。

東宮が見た薫の瞳は、実に空虚だった。蒼氷の瞳には眼前の東宮が映っている様でいて、そうではなかった。何の心理も投影しないがらんどうの瞳のまま、薫は視線だけ東宮と合わせ、焦点の合わないまま……抑揚の無い声で答えた。

「……本音です」

 東宮がチッと舌打ちする。苛苛した口調になると、睨み付けた。

「頑固な奴だな! 命を助けられた奴は、もっと嬉しそうな顔をして礼を言うものだ! だが、お前にはそれが無い! それに第一水に浸かったまま寝るなんて、普通ありえないだろう? ……お前、あのまま死んでも良かったと思っているんだろ、違うか?」

 薫が一瞬どきんとした顔になる。瞳に少し、生気が戻った様だった。

熾烈な炎を思わせる東宮に……奇妙にも、素直に答える気になった。

「……はい。心地好くなり眠気が出たのは本当ですが、眠る前に……このまま目が覚めなくても良いかと……思いました」

揺揺とした橙色の炎を挟んで、東宮が薫を熟視した。

「そうか……漸く本音が出たみたいだな。それでいい。だが、丁寧語も止めろ。俺の事は、呼び捨てにしろ。大津でいい」

 東宮がにやりと笑うと、満足した顔になる。そして徐ら話し始めた。

「実は俺、午前中に朱雀門で偶然、お前の様子を見ていたんだ」

 驚愕した薫が東宮を凝視した。衝撃の余り、蒼い瞳に完全に生気が戻る。

「お前、とんでもない侮辱されて、何で反論も反撃もしないんだ? 打ちのめせばいい! 簡単だろ?」

何とも明快な論理で直入した東宮の言葉に、薫が思わず苦笑する。

「……そうはいかないよ」

「何故だ?」

東宮が好奇に満ちた双眸で、薫を見遣る。

「そんな事をしても……全く意味が無いからだ。反論すれば一時自分の気持ちはすっきりするかもしれないが、父上に迷惑が掛かる。反撃すれば……」

「反撃すれば……?」

東宮が、面白そうに答えを促す。

「……殺してしまうかもしれない。だから反撃しない。躱し切れるのだから、負傷する心配も無い。だから……あれでいいんだ。暴言には耳を閉じ、聞かなければいい」

思わず東宮が、信じられないといった顔で呆気にとられた。

「殺してしまう? 一体、どういう事だ。耳を閉じる? お前、人間だろ? そんなの我慢出来る訳ないだろうが! どういう忍耐だよ、それ? 無理に決まってるではないか!」

笑止千万とばかり放笑する東宮に対し、薫が清真な眼差しで誠実に答えた。

「私には武道の心得が有るが、彼等はかじった程度の素人だ。拳や刀を振るう訳にはいかないよ。我慢ならない事が生じるのは、私の修行が未だ未熟な証拠だ。きっと……精神の修行が足りないからだ。辛抱や忍耐が足りないんだ。耐えるべきは……耐えなければ。力を持つというのは、そういう事だ」

東宮が真摯な表情の薫をじっと見つめると、興味津々の顔をした。

「驚いた奴だな! そんな事、本気で思っているのか? では、口で反論すればいいではないか! それなら問題無いだろう? 黙ったままなんて、人間として不自然だぞ?」

薫がむっとするなり、答えた。

「言っただろう? ……父上に迷惑が掛かるから、そうしないんだ。あいつらに対して、辛辣で抉る様な毒舌や、精神崩壊を誘発する様な罵詈雑言を吐くなんて事は、朝飯前だ。倫理擦れ擦れのえげつない手段で、二度と悪口を言えない様に精神的に追い詰める事も、……そんな事をするのは簡単なんだよ! ……でもそうした所で、何の得がある? 何が改善するというんだ? 彼等の親は、宮中でも勢力のある有力貴族なんだ。どんなド汚い手も合法に出来得る絶大な権力を持っているんだよ。……対して、父上は新興貴族で政権には後ろ盾が無い。帝の御寵愛あって政権が持続している様なものさ。……私は、父上が実現しようとされている理想の政治に共感している。でも正しい事を実行するには、それを実践させる、それなりの大きな権力が無いと出来無いんだよ! ……だから父上には、こんな身分制や差別で窒息寸前の閉塞した社会を打破してより良い世界を構築する為にも、それに専念してもらいたいんだ。……私が足手まといになる訳にはいかないんだ! ……私事の瑣末な事柄は、私が自分で消化すれば、それでいいんだよ!」

 薫が、むきになって自分の心情を此処まで他人に吐露したのは、生まれて初めての事だった。今まで他の誰に対しても、肉親である父親にさえ、此の様な剥き曝しの本音を叩き付けた事はなかった。

薫は初めて感じた自分自身の激しい一面に、思わず自ら狼狽した。

 一方の東宮は俄然、嬉々としていた。真面目腐って理性が服を着て歩いている様な、機械的な様相さえ感じる薫に、はじめて生々しい人間性を見出した気がした。同時に、肉親である筈の父親にも何ひとつ苦悩を話せず、周囲に過剰な気を使う余り、張り裂けそうな苦艱を溜め込み過ぎて、崩壊寸前に陥っている薫の危うさも痛感した。

稍あって、東宮が極めて真剣な態度で薫の瞳を深く見つめたまま、口を開いた。

「……俺には、お前の今ある状態が、瑣末な事柄には到底思えない。……消化出来ていないからこそ、お前は此処で死んでも良いと思ったのではないのか?」

 穎敏な東宮が、薫の胸奥を容赦無く射抜いた。

自分の胸懐を実に鋭く明察した東宮に、薫はどう答えて良いのか分からず、東宮から発せられた自分の胸を貫く様なひと言に、唯唯絶句した。

「なあ、薫。お前も人間だ。人間だぞ! 喜んで楽しいと思う感覚もあれば、辛くて苦しくて、切なく泣きたい感覚もある。怒りを素直に認めて感情を曝け出す事だって、大切なのではないのか? ……喜怒哀楽そのままが、抑抑人間だろう」

 東宮が真っ赤に燃える灼熱の炎越しに薫の瞳を見つめると、言葉を継いだ。

「死にたい、死んでもいいって気持ちは、通常なら持たないだろう。露と消えたい……。そんな気持ちになるって事は、お前……相当、自分の気持ちを押し殺して、我慢の限界を超えているんじゃないのか?」

薫が自分では意識しないまま、双瞳から溢れるばかりの涙を流していた。

最早、理性で止めようと思ってもどうにもならなかった。東宮の一連の言葉に激しく反応して込み上げて来る、迸る様な熱い感情に、理性が吹き飛んでしまいそうだった。

初めてそういう状態に陥ったそんな自分が……薫は、どうにも怖くて堪らなかった。

理性が負けて感情に支配される、そういう経験が薫には無かった。未知の世界に引き摺り込まれる恐怖を感じて、薫は涙のまま、難渋に満ちた絞り出す様な声で夢中に叫んだ。

「……頼む。……放って置いてくれ、どうかこのまま……放っておいてくれ……」

 薫はどうしていいか、分からなかった。……涙がどうにも止まらなかった。自分の気持ちが全く分からなかった。唯、泣きたい感覚だった。

……何から考えたらいいのかも、どうしたら落ち着くのかも、何ひとつ分からなかった。

 不意に東宮が黙然として薫に歩み寄るなり、ずいとその手を差し出した。

自信満々とした顔に大胆不敵な笑みを浮かべると、威風堂々と薫に向かって宣った。

「お前……命を捨てる覚悟があるぐらいなら、その命、俺が貰おう。俺のものになれ!」 刹那、薫が絶句した。予想だにしない東宮の唐突な言葉に、涙も一気に干上がった。

「……何?」

 先程まで如何ともなく遼遠なる彼方に消失しかけていた理性が、寸陰と言わず完全に戻り来た。乱れて停止していた思考回路が急速に回復し、着実に晴れ上がる。

思わず沈着な本来に戻り、薫が冷静に聞き返した。

「……お前のものになれば、私は……この苦しみから脱出できるのか?」

にやりと笑い、東宮が大きく頷いた。

そして少年ながらに帝王の風格を漂わせると、毅然として断言した。

「そうだ! それこそ現状が瑣末な事に思えてくるぞ! 俺に振り回されて、俺の後始末ばかりで頭が一杯になるだろう! 間違いない」

 薫が、壮絶に呆気にとられた。……馬鹿じゃないか? この東宮様とやらは……。真顔で……何て戯けた事を平然と……。とんでもない阿呆だ……と、心中本気で呟いた。

後に分かった事だが、この時の東宮の言葉に嘘偽りは無かった。

これ以降、薫は縦横無礙なる東宮の想像を絶する後始末に、掛かりっ切りの生活になる。それは多忙を極め、東宮の失態に対する弁明釈明は悪戦苦闘の末、薫に新たな無限の才覚を与える事になる。薫の天性の弁才に磨きが掛かり、これより先、薫はその超一流の事務処理能力と政治能力を、遺憾無く発揮していく事になるのである。

ともあれ、この時点で薫はその本能的な直感で、東宮の申し出をはきと断った。

「……止めておく。……私は、私のままでいい。お前の所有物にはならないさ」

 東宮が薫を見遣ると、豪爽に大笑した。

「面白い奴だな、お前! だが、それでいい。気に入った! ほら、持てよ!」

 東宮が、薫に木刀を投げてよこした。意を酌みかねた薫が、東宮を凝視する。

 東宮がにやりと笑うと、快然として言葉を継いだ。

「俺は、いつも本気でやれる相手を探していた! お前なら、遠慮はいらんと思ってな!ほら、掛かって来いよ! 手加減したら、許さんぞ!」

薫がふっと笑い、清清として好戦的な顔を見せる。薫の中で、何かが吹っ切れた様だった。

「ほう? ……では、腕の一、二本は覚悟という事か? 後で恨むなよ!」

 年齢相応の少年らしい、好奇に満ちた顔付きになると、薫が先手を切って一刀を繰り出した。刀を交えること数合、勝負が付かない様に見えた。薫の繰り出す太刀は華麗にして優美、正統派の王道を行くものだった。対して東宮は天分の才に彩られた全くの我流。

対照的な互いの太刀筋の為、両者共に相手の次手が読めず長期戦となった。

だがやはり長期戦ともなれば、無駄な動きを省き、計算され尽くした正統派を学ぶ薫の方に利が生じ、軍配が上がる。薫の木刀が、東宮の喉許をビタリと指して止まった。

 息を弾ませながら、薫が告げた。

「勝負あったな! 私の勝ちだ!」

 刹那、ぐいと片手を掴まれたかと思うと、柔術の投げ技宜しく、ばんっと遠方に投げ飛ばされた。ようやくの思いで受身を取り、薫がきっと東宮を睨まえる。

東宮が得意気にふんと口角を上げ、清清しい顔で立っていた。

「卑怯だぞ!」

 薫が抗議の一声を上げると、東宮がにやりと笑い、傲然と撥ね付ける。

「阿呆! 戦場だったらどうする気だ? 最後まで気を抜くなよ!」

 漱石枕流な東宮の言葉に、ちらと視線を交わした二人が向き合うと、少年らしく溌剌とした屈託無い顔で思い切り笑い出した。ひと頻り哄笑すると、そのままざぶんと川に潜り、火照った体を冷やして上がる。服を乾かしながら、東宮が口を開いた。

「……俺も、武道の授業はきちんと受けた方が良さそうだな。お前に上手に出られるのは、どうも我慢ならん。俺の沽券に関わる」

 薫がくっくと笑うと、爽快に答えた。

「そうだな、いつでも相手になるさ。……楽しかった。日本に戻って初めてだ。こんなに全力で暴れたのは……」

涼やかに笑う薫を見遣り、東宮が悠揚に口を開いた。

「そうか。……お前、難しい顔して取り付く島もないかの様な寡黙な態度より、今みたいに笑って喋っている方が、余っ程いいぞ」

薫が驚いた顔で東宮を見つめる。東宮が言葉を継いだ。

「お前の瞳……な、明るい所だと蒼氷色、暗い所だと深青の海を思わせる瑠璃色に……光の加減によって変化して見える。俺は綺麗だと思うぞ、そういう瞳。だから自信持てよ! 髪だってその色なら、爺になって白髪になった時に、得する頭じゃないか」

 爺になった時に得しても……と思わず苦笑しながら、薫が東宮の温語に心から破顔一笑する。そして落ち着いた口調で、ゆっくりと話し出した。

「どうにも遣る瀬無く……辛くなって、唯ひとりになりたかったんだ。朝堂院を抜け出してこの清流に浸り、自然と一体になって、そのまま溶け込んでしまいたかった……。目が覚めて正直……生きている事に失望した。……都に戻りたくなかった。だがお前と話して、太刀を交えて、内深くに在ったどろどろしたものを皆吐き出したら……。何だかとても、すっきりしたよ」

 薫は一旦言葉を切ると東宮に正正と向き直り、その双眸を誠心から深く見つめた。

その穏やかな蒼氷の瞳には、瑞々しい精気が戻って来た様だった。

「……救ってくれて、ありがとう。……今なら、心からお前にそう言える」

爽やかな口調で真摯に礼を述べた薫が、完全に本来の自分を取り戻した事を見て取ると、東宮が了然と満足する。そして、答えた。

「それでいい! では、都に帰るぞ!」

こうして二人は都に戻った。


 翌日……。大学寮には並々ならぬ響めきが起きた。武道の時間に、不羈奔放で有名な暴れん坊の東宮が、初めて顔を出したのである。

抑抑大学寮は官吏を養成する最高教育機関であり、主な科目は文系と算術のみであったが、武道好きの帝の趣味が昂じて武道科目が必修となっていた。東宮は、予告も無く突如として現れると教官を名指しし、豪語した台詞は極めて偉そうであった。

「おい! 俺様に正統派の剣術を教えろ! 貴重な時間を割いて来たからには、無駄な教え方は一切するなよ!」

 悲劇に見舞われた教官が、ひいっと悲痛な悲鳴を上げる。何人もの教官が胃薬を飲みに走り、丁重に辞退した。

 ……波乱に満ちた授業が終わり、道場の掃除が始まる。

東宮が当然の様に、豪然と道場を去ろうとした時、厳しい口調で咎められた。

「東宮様! 修練後は修練生全員で、床拭き掃除を行うのが礼儀です。貴方様も、その例外ではありません」

 教官さえ恐怖の余り言いたくても言えない台詞を、言って退けた一学生がいる。

一同その後の展開を予測して甚だ驚駭し、大いに戦慄すると一斉に動作を停止し、道場はしんと静まり返った。東宮が怒りを露に咆哮する。

「煩いな、今日は忙しい! お前がやっておけ!」

 するといつもなら、この様な態度に出れば誰しもが引き下がる筈の算段であったが、今回に限っては勝手が違った。

「なりません! 今すぐ誠心誠意、床拭きをして頂きます」

 言うなり、純白の雑巾が飛んで来た。東宮が、投げた本人を視認する。やはり、薫であった。東宮はチッと舌打ちすると薫を睨み付け、雑巾をむんずと掴むなり、怒声を発した。

「チッ。仕方無いな! 何処をやればいい!」

 一同は呆気に取られて、この信じ難い光景を見ていた。

……いつも超然として冷ややかな雰囲気を漂わせていた薫が、選りに選って宮中総てが持て余す古今無双の暴れん坊である東宮に対し、その顔色を窺う事無く堂々とした態度で公然と、正論を諭している。そしてどうしようもない暴れん坊が、悪態を吐きながらも最終的にはそれに従い、床拭きに精を出しているではないか……。

今や薫に対して非好意的な一団も、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。

東宮が周囲をぎろりと見回すと、その征鳥の様な双眸で容赦無く睨み据える。

「何だお前等! まだ何か文句があるのか? 言いたい事があるなら、はっきり言え!」

 東宮の激声に、道場の空気が轟々と震撼した。恰も心臓麻痺を誘発するかの様な、苛烈な緊張感が辺りに漂う。

東宮が暫し黙然として、ひと通り拭き掃除を済ませると、豪快に立ち上がる。

「これで文句は無いだろ、薫!」

薫を見遣り、雑巾を放り投げるが早いか踵を返すと、さっさと道場を退出した。

 疾風の如く去る東宮を遠目に見ながら、薫がふっと瞳を綻ばせ、笑みを漏らした。

 そんな薫にひとりの学生が歩み寄ると、酷く驚いた様子で声を掛けた。

「綾小路君! 君……笑った所を初めて見たよ」

 薫が心外な言葉に驚き、暫し無言で思い澄ますと、一学生が言葉を継いだ。

「首席の君は才気煥発であるのに、超然として人を寄せ付けない様な、何とも言えない孤高の気配があったから、今まで声を掛け辛かったけど……。あの東宮様に意見するとは、勇気あるね! 凄いじゃないか! 本当に驚いたよ。今度、良かったら家に遊びに来ないか? 実は、僕の父上でも読み熟せない難解な漢詩があるんだけど、もしかしたら君なら読めるかもしれないと思ってさ」

はっとした薫が、思わず学生を凝視した。

「……近寄りがたい? ……私が? ……そういうつもりは無かったが……」

 薫の問いに、学生が、はにかみながらも率直に答えた。

「正直言うと、つい昨日まではそう思ってた。僕の方が、避けられていると思っていたよ!でも今日の君は、とても柔和な顔をしているから……。初めて見る様子に驚いたけど、……何か、いい事でもあったのかい?」

 聡明な薫は、この言葉に全てを理解した。

……容姿や身分を気にして皆の輪に溶け込めなかったのは周りのせいでなく、寧ろ自分自身だったのではないか……と。つまらない蟠りを持ち、自ら壁を作って隠棲し、周囲と隔絶して理由を付けては鬱々と閉じ籠っていた自分自身を、初めて薫は強烈に認識した。

昨日東宮と過ごして、本当に気が楽だった……。真の自分を曝け出し、受け止めて貰えたからこそ、心から安らぎを得る事が出来たのだ……。

意識して相手を尊重し、また自己の喜怒哀楽を上手に表現すれば、人間関係はどうとでも改善するのだ……。そんな事にも気付かなかったとは……。何と狷介で愚かだった事だろう。そして東宮が、殻に閉じ籠ったままの無残な本当の私自身を鋭く見抜いて、こうして引き摺り出してくれたのだ。……何と得難き存在か……。

今更ながらそれに気付かされるとは……。薫は、水を得た魚の気分になった。

 思わず、ふふっと笑いが込み上げて来る。

声を掛けて来た学生が、深遠なる様子の薫を不思議そうに見つめていた。

「僕、何か……おかしな事でも言ったかい?」

 薫が穏やかな笑顔で、やんわりと否定する。

「いや、違うんだ。……ありがとう。今度、是非拝見したいね」

薫の中で、何かが確実に変わっていた。……薫が衷心から解放され、精神的な自由を得た瞬間だった。同時に東宮と薫が、生涯無二の親友を、互いに自覚した時でもあった。



 ……幼い頃の、懐かしく長い夢を見ていた気がする。

降り注ぐ光を眩しく感じて、薫がすっきりとした面持ちで目覚めた。

大きく伸びをして、周囲を見渡す。布団に寝かされていた事に気付き、どうやらすっかり寝入ってしまったらしいな、と自覚する。

几帳を上げると、隣の布団に葵が無邪気な顔でぐっすり寝ていた。

中央の居室に、東宮は不在の様だった。……動いているという事は、大分傷の具合が良いのだろうと推測して、少し安堵する。

 つかつかと部屋に戻って来る足音が聞こえた。東宮だ。足音で、それと気付いた薫が顔を向けた。

「お、薫! 起きたのか。昨夜は、済まなかったな」

 溌剌とした声で、東宮が言った。苦笑すると、薫が答える。

「……済まなかったのは、私の方だ。また寝入ってしまったらしいな。迷惑を掛けた。傷の具合はその後どうだ?」

にやりと笑うと、東宮が答えた。

「傷の方は、お陰で大分いい。まあ一日程度で完治はしないが、そのうち治る。それよりお前、相変わらずの寝相だな! 全くいつ見ても、死んでいるのかと思って冷やっとする。昼餉を食べたら少し付き合え。朝堂院での用が済んだら、鷹狩りにでも行こう!」

薫があっさりと頷いた。

「葵はどうする? 起こして連れて行くか?」

「三日寝てないんだろう? ……こいつの事だから、あと丸半日は寝続けるさ! このまま放って出掛けるぞ!」

 それもそうだと薫が笑って葵を見遣り、東宮に同意した。


 昼過ぎになり、かなり気温が上がって来た様だった。朝方、昨夜の翠雨を仄めかせた潤いを帯びた涼風も、爽やかで乾いた薫風となっていた。

二人は軽く昼食を取りながら、昨夜中断していた話の続きをしていた。

「昨夜は親父の乱入で、話もそのままになっていたが……武者小路家に楓という女人がいない……とは、どういう事だ?」

東宮が尋ねると、薫が淡々と答えた。

「私も武者小路家の内情に精通している訳ではないが……。武者小路家の現当主は、武者小路頼(より)(ゆき)で、私の父上と同世代だ。頼行にはひとり息子がいて、名前は(ゆたか)。我々とほぼ同年代だと思うが……面識がある程度で、お互い話した事は無い。……というのも、武者小路家は近年連続で検非違使(けびいし)を拝任していてな……。父上と私は太政官(だいじょうかん)に所属し、行政を司る八省を纏める立場に居るが……検非違使は独立した機関だから、直接的な仕事上の接点はほとんど無い。家同士の対立関係もあって、武者小路家とは行事等の際に儀礼的に顔を合わせる程度だ。……だが娘がいるとは、聞いた事が無い」

薫の指摘に、東宮が不可解な顔を向けた。

「では、楓が俺に嘘を吐いたという事か? そんな風には思えなかったが……。しかし今聞いた話では、お前の知らない人間が武者小路家に存在する可能性も、全く無いという訳ではないな?」

薫が微笑んで頷き、少々神妙な顔になる。

「その可能性は、勿論ある。だが不可解なのは、私が矢を放っていないのにその楓という女性は、我が家から放たれた矢だと認識した。……私も然りだ。放たれた矢は確かに武者小路のものだったが、彼女はお前と居て、私に放てなかった筈だろう?」

東宮が大きく頷いて、記憶を辿る。

「そうだ……。確かに楓に向かって放たれた矢は、お前の家の家紋が入っていたが……。まあ……矢については、誰かが作為的に作る事も出来る。お前も楓も射っていないのであれば、誰かが故意に、お前と楓を相互誤解させる為に仕組んだという事になるが……一体誰が何の為に……? という疑問が残るな」

薫がその長く美しい手を顎に当て、暫し考える。

「その通りだ。……被疑者がいるとすれば、我ら両家がそれを火種に相剋し、自滅した場合に得する者という事になるが……。個々には沢山居るだろう……。しかし、今の段階で特定出来る様な者が、すぐには思い当たらないな。それに……。今回の件には不可解な点が、もうひとつある」

東宮が眉を上げると薫を見遣り、話の続きを促した。

「お前の捜索をしていて思った事だが……。あの茜が、お前の行方を追跡出来なかった。あの断崖を落ちて……しかも、お前は気絶していたというのに……だぞ? 誰かが故意に、お前の痕跡を消したとしか思えない。茜は事件後、間を置かず現場に駆け付けている。それなのにお前の探索が不能になったという事は……」

薫の意を察した東宮が、怪訝な顔で口を挟んだ。

「……お前、まさか楓が、その痕跡を消した……とでも言うのか?」

怜悧な薫が、慎重に頷いた。

「推測に過ぎない……。だが十中八九、そうだろう。追尾されない為にお前の消息を消し、彼女の家に戻るまでの足跡が残らない様に、恐らく水中を馬と移動して上流に向かったとしか思えない。そうでなければ、茜の追跡から逃れる事は不可能だろう」

東宮が塊然と黙り込む。そしてふと何かを思い出した様に、口を開いた。

「何故そんな真似をしないとならないか、さっぱり分からんが……。今のお前のひと言で、少し思い当たる事がある。……違和感だ。初対面で楓に対して、何とはなしに……違和感を覚えた。それが何なのかは、未だにはきとは分からんが……。実は、矢が放たれた時、再びその奇妙な違和感を覚えた」

薫が興味深い瞳を向けると、話の続きを促すかの様に東宮を見つめた。

「俺は楓に対し、伏せろと叫んだ。普通なら……突然の事に戦いたとは言え、先ず間違い無くそれに従うだろう? 華奢な女性なら尚更だ。だが楓はどうしたと思う? 瞬間、頭を後ろに仰け反らせて避けたんだ。あれは薫、お前の様に武道の心得の有る者が、矢の飛来を自ら感知して、咄嗟に本能で避けたとしか思えない」

無言のまま何事か考え込んでいる薫を見遣り、東宮が言葉を継いだ。

「武者小路の娘なら武道はひと通り体得していると言う事か……? 何とも、分からん! だが両家に同時に矢が放たれた事で、どうやら黒幕がいる可能性も見えて来たな……」

黙考していた薫が、東宮の話を受け深刻な面持ちで口を開いた。

「確かに……。姉と母の死以降も、武者小路からありとあらゆる嫌がらせの類は日常だったが、私は……当たり前の様に、我が家ばかりが一方的な被害者と思い込んでいた。だから今まで父上も私も何をされても無視して、これ以上の暴挙を防ぐ意味でも、全く相手にして来なかった……。しかし今のお前の話で、その楓という女性が、我が家の仕打ちと思い込み過去から現在まで悲憤し……怨恨を抱きながら、故無き災難を被り続けているかもしれないという事態は、よもや思いもしなかった。私と父上が手を出していない事が確かなのだから、一体誰が、何の目的で彼女に暴虐を働いているのだろうか……。もしかすると我が家への攻撃も、武者小路の名を語った別人の仕業なのだろうか……。その可能性も否定出来無くなってくるな」

薫が深く長嘆すると、遣る瀬無い当惑顔になる。複雑な薫の胸懐を酌むと、東宮が促した。

「まあ、俺が楓に違和感を感じたのは確かだ。未だ何か、別の秘密があるのかもしれん。それにお前の指摘通り、武者小路家に楓という女が本当にいないのであれば、楓が何処の馬の骨かという根本的な話にもなる。今の段階では何とも言えないな。かと言って、此処でねまっていても仕方無い。とりあえず、朝堂院に向かうとしよう」

 そうだな、と薫が同調する。

燦燦とした春光に薄ら汗ばむ程の陽気の中、午餉を済ませた二人は大内裏へと向かった。


東宮と薫が、揃って朝堂院に入ろうとした時だった。

朝堂院と隣接する豊楽院との間の通路に、珍しく黒山の人集りが出来ていて騒々しい。

此処は、普段からそれなりに人通りの激しい場所ではあったが、立ち止まっている観客から時折盛大な歓声が上がる所を見ると、どうやら何か見世物が行われている様であった。

 東宮が好奇心旺盛な様子で、歓然として隣の薫に確認する。

「楽しそうだな! おい、薫! 今日は、競馬か相撲の勝負でもあるのか?」

 薫が日程を思い起こすと、軽く首を振った。

「いや、今日は特に何も行事予定は無い筈だ。……何だろうな、随分賑やかだ」

「ちょっと覗いて見るか!」

 東宮が快活に薫を誘うと、人集りの後方から顔を出す。

 ……遥か遠方に、的が幾つか並んでいた。縹色の褐衣姿に、黒絹の如き艶やかな髪を結い上げた若い男性が、弓に矢を番え思い切り引き絞る。刹那、ビュンと矢が放たれた。

 ターン……という甲高い音と共に、遥遠に設置された的のど真ん中に矢が突き刺さる。

「おお! 凄い!」

しんと静寂していた観衆から、拍手喝采と共に盛大な称賛が湧き起こる。

「見たか? これで十発十中だ!」

「ああ! 確かに聞きしに勝る、凄い腕だな! 負け無しだぜ!」

「一体これで何勝目だよ? 兵衛(ひょうえ)舎人(とねり)が、ひとりとして敵わないとは!」

「五衛府の陣屋にも、これだけの命中率を誇る武官はいないのではないか?」

「そうだろうな、正に無敵だ! 実に、大したものだ!」

興奮の坩堝と化した群衆の方々から、感声が木霊する。

丁度、ひと勝負が終わった所の様だった。東宮が垣間見ている場所からは、後ろ姿で表情こそ見えなかったが、先程立射した褐衣姿の青年はどうやら弓の名人であるらしく、状況を見るに、新たな競争相手を求めている様である。立見の観客がざわめくと、辺りが一段と活気付いた。喜悦した東宮が振り返り、後方の薫に呼び掛ける。

「薫、見てみろよ! あいつ、結構強いぞ!」

「競射か? 面白そうだな」

 関心をそそられた薫が、好奇に満ちた顔を出す。

「だろう? 俺もやろうかな! 丁度相手を探している様だ」

 周囲の賛辞を一身に受けていた弓の達人らしき青年が、凛とした涼やかな声で、勝負方法を説明していた。中々挑戦者が現れない様子で、順に辺りを見渡しながら競争相手を募っていた。此方を向いた青年を一瞥した薫がはっとして、声を潜めると東宮を制した。

「――止めておいた方がいいな。相手が悪過ぎる。あれは武者小路の長男、裕だ。武者小路家の者は大抵、武道に掛けてはどれも師範級以上の実力を持っているが、確か彼は殊に弓に於いて秀逸で、競射で何度も優勝している名うての名手だ。幾らお前でも、勝つのは至難の業だぞ」

「……」

不意に東宮が押し黙る。

「……大津? どうした?」

いつもなら『阿呆、俺が負ける訳あるか!』とばかりに即刻逆上して、直ちに暴力に訴えて来る筈の東宮が、恰も薫の台詞が聞こえていないかの様に黙然と、瞠目したまま前方を凝視しているのを見て、薫が怪訝な顔で問い掛けた。

「……大津?」

 東宮が愕然とすると、裕の顔を食い入る様に注視したまま呟いた。

「……あれは、楓……では?」

 薫がぽかんとするなり呆然と、摩訶不思議の顔を向け東宮を見つめる。

「楓って……。お前を助けてくれたのは、女人なのだろう? あれは男だぞ。まあ確かに武者小路家に楓という女性はいないが……。まさか今更、頭を強打した後遺症が出たのではないだろうな? 大丈夫か、お前?」

呆れ果てるというよりは、寧ろ本気で東宮を案じるなり、薫が憫笑する。

「違う! あれは、絶対に楓だ!」

東宮が怒気を孕んだ声で、自信有り気に断定した。そして閉口するなり暫し考え込む。……確かに、楓と同じ顔だ……。双子という事もあるかもしれないが、その可能性は低い。 何故なら眼前の裕を見た今、東宮は瞭然と、楓に出会った際に感じた違和感の正体を掴んだからである。

違和感……。それは袿単衣姿の楓を初見した時に感じた。

何と言うか……楓には、女性としての嫋やかな雰囲気が、何ひとつ無かったのである。東宮が持つ天性の動物的な直感は、袿単衣には全くそぐわない、楓自身が発する『気』の気配を強く感じていた。その『気』が何なのか……。今し方、裕を見た事でピンと来た。

楓の『気』は、裕の発する『気』と、全く同一のものだった。

そして何よりその『気』は、武芸者特有のものとも云うべき、鋭気だったのである。

恐らく裕と楓は同一人物なのだろう……。唯、腑に落ちないのは、どちらが楓の本来の姿と名前なのだろうか……という点だ。薫の情報に依れば、裕である姿が本当なのだろう。観衆の様子を見ても、其れを疑う余地は無い筈だった。しかし東宮には、楓としての彼女が偽りの姿だったとも思えなかった。

寸陰黙然として熟慮を重ねた東宮が、敢然とその意志を決めるなり顔を上げる。

裕に向かい、その背後から堂々と、声高らかに名乗りを上げた。

「おい、その勝負乗った! 俺がやろう!」

裕と同様、挑戦者を熱望していた周囲の観客が、はきと響き渡った声に一斉に傾注する。程無く、群衆の中に悠々と立ち、昂然と挑戦を宣言した東宮を確認すると、総じて顔色を蒼白に変え、俄かに絶望するなり断固として沈黙した。

天下無双の暴れん坊である東宮が、此の上無く好戦的な笑みを浮かべて名乗りを上げているではないか……。これで万一、東宮が負ける様な事態になれば、恐怖で名高い東宮の事……間違い無く逆上して見境無く暴れ出し……辺りは一瞬にして血の海となるのではないのだろうか……。……とばっちりで、自分達が死に目に遭いそうな気さえする……。 

勝負を止めさせる方法はないのだろうか……。いや、かと言って東宮の意向は無視出来無いから、こうなった以上……裕殿は勝負を受けざるを得ないだろう……。

絶体絶命の窮地に追い込まれた観衆の脳裏を、最凶最悪の顛末が絶え間無く流れては、非常事態とばかり点滅し、緊急退避を警告していた。……だが、今更逃げようが無い。

逃げたら逃げたで、それこそ気分を害した東宮に瞬殺されてしまうだろう。

競射に夢中になる余り、自分達は何と不幸極まりない瞬間にまで、こうして立ち会う事になってしまったのか……。実に藪蛇だった我が身の不運を嘆き悲しみたくなって来る。

しかし意気揚々と進み出た東宮の背後に、腕組みをしたまま苦虫を噛み潰した顔で佇んでいる薫を目ざとく発見すると、周囲の大群衆は自らの安全を確信し、ほっと胸を撫で下ろすなり、この勝負の行く末を、その好奇心の赴くまま見守る事にした。

当の薫は、妙に黙思していた東宮が、又もや忠告を無視してひとりよがりの暴走を始めた事に機嫌を損ねていたが、もう後には引けない状況と察して、事こうなっては傍観に徹するより無いと腹を括った。

東宮の声に反応して振り返った裕は、東宮の姿を見るなり瞬間大きく瞠目するなり吃驚した顔を見せ、答えるべき言葉を失った。だが直ちに冷静を装い、視線を其れとなく外して東宮に向き直った。周囲の群衆は、彼が東宮の挑戦と知って当然躊躇したのだろうと推察したが、東宮はその一瞬の表情を見逃さなかった。東宮の後方に控えた薫が、冷静な表情を変える事無く静粛を守り、成り行きを注視する。

「……では、勝負方法は、どうされますか?」

裕が、涼やかな声で東宮に尋ねた。絹糸の様な黒髪は、輝輝とした青陽に眩いばかりに煌いて、伏目がちに向けられた裕の黒き瞳には、深く冴え冴えとした星辰が密やかに瞬いていた。哀愁を帯びた英姿は何とも端整で、弓持つ姿は月宮の狩人を思わせた。

東宮が口角を上げにやりと笑うと、裕に向かい提案した。

「三本勝負! 的は、お前が好きな物を選ぶといい。お前が勝ったら、金一片をやる。俺が勝ったら、腹を割ったお前と話がしたい」

薫の存在を地獄に仏と喜んだ大群衆は、半ば怖いもの見たさで世紀の大勝負の幕開けを期待していたが、東宮の発言に心胆を再び寒からしめると、一様に戦慄した。

不幸にも……周囲の観衆は、平素の東宮の行動準則と長年に渡るその被害経験から、知らず知らずの内に、負の螺旋を奈落へと加速的に転がり落ちるかの様な、悲観的思考に取り憑かれていたのである。この為、東宮の言葉を素直に解する者は皆無であった。

恐怖に搦め捕られた彼等は、東宮の真意を読み解くと称して無意識に被害妄想に彩られ、穿った解釈を試みていたのである。

即ち『裕が負けたら東宮と本音で話をする』というのは公然の名目で、実際は負けたが最後、勝者の東宮に二条院に引き摺り込まれ、私物化され散散玩具扱いされた挙句、果ては『俺様に挑んだ阿呆』とでも額に紙を張られ言葉通り腹を断ち割られた上に、屍に鞭打つ残酷な報いを受けるのだろうという、凡そ身の毛も弥立つ曲解をしたのである。

東宮の事だから、万万が一でも自分が負けるとは考えてもいないだろう……。

いやはや、何とも恐ろしい。周囲の観客は、東宮に虎視眈々と標的にされた裕を思い遣ると固唾を呑んで、裕の返答を待ち侘びた。

裕は暫く足元を見つめ、黙黙と思考を巡らせていた。東宮の最後の台詞がどうにも引っ掛かった。東宮の鋭い洞察通り、裕は紛れもなく楓、その人だったのである。

……一体、何を考えている? 少納言。私に勝てば、二人で話をしたいなど……。

……まさか私が、楓と気付いたのではあるまいな……。

裕は自分に挑戦して来た人物が、よもや東宮であるとは思っても見なかった。

宮中行事に殆ど顔を出さない東宮を、裕は未だ遠目にさえ、一度も拝見した事が無かったのである。周囲の観衆が東宮の登場で一斉に静まり返った事もあり、裕は挑戦者の東宮が、少納言の楠であると信じ込んでいた。

……ええい、迷うな。……勝てば良い。……それだけのことだ。

暫時逡巡した裕であったが、腹を決めると、東宮の提案を受け入れる事にした。

「……いいだろう。望む所だ。では、まず私から射よう。鳥籠と杯をこれへ!」

「はっ」

舎人が数人、裕の指示に従い、鳥籠と杯を取りに走る。

……杯だと? ……酔っ払って射る気か? 東宮が不思議そうな顔を見せる。

 周囲の群衆が各々、挑戦を受けた裕の意図を推測しては、興味深げに喧喧とざわめいた。

東宮の背後に佇む薫が黙然として、勝負を静観する。

 間も無く、言付けた舎人が戻って来た。

「杯と鳥籠を、お持ちしました」

 裕が弓を持ったまま、前方の的を静かに指差し、凛と命じた。

「的を外して、台の上に水を満たした杯を載せよ」

 数人の舎人が手際良く指示をこなす。やがて準備が完了すると、裕が東宮に向き直り、的を指差しながら説明した。

「あの杯までは二十丈(約六十m)。的の高さは三尺三寸(約1m)だ。今から、雀を放つ。蒼天に羽搏いている雀を一羽、水を飲みに舞い降りた雀を一羽、残る一射は、貴方が指名したものを射よう」

裕が東宮の合意を求めるかの様に、その漆黒の夜空を思わせる瞳を向けた。

「何だ、酒を呑むのではないのか。……良い、お前の好きな様に射ってみろ」

 東宮が豪放に笑うと、快然と了承する。杯、即ち酒と解する酒豪ならではの発想に、薫が呆れ返ると、やれやれといった顔で嘆息する。

その場がしんと静まり返った。一同が静寂を守ったまま、勝負の行方に傾注する。

 裕が静逸に呼吸を整えると、粛静の内に凛とした美しい姿勢で立射の構えを取る。

清粋に昇華した顔を左に向け、弓矢を持つ手を体の中央に揃えると、矢を番えた弦をゆっくりと引きながら肩の高さに真っ直ぐ伸ばし、弓を引き絞る。

間を置いて、鳥籠を持った舎人に声を掛けた。

「良いぞ、放て」

 舎人が鳥籠を開けると、数羽の雀が飛び出すなり勢い良く蒼空に舞い上がる。

立見の観客が固唾を呑むと蒼穹を見上げ、或いは地を見遣り、的を見つめる。

裕は微動だにせず、杯に向け弓を引き絞ったまま凝立していた。

稍あって、一羽の雀が水を飲みに杯に降りようとした刹那、裕が音も無く矢を放つ。

瞬息の間に雀が羽を射抜かれて地面に落ちる。途端に、割れんばかりの歓声が怒涛の如く鳴り響いた。轟轟とした喧騒に驚いた数羽の雀が、再び一斉に天空高く羽搏いた。

刹那、裕が素晴らしい速さで矢を番えて引き絞り、蒼昊に向かい二射目を放つ。

又もや雀が一羽、羽を射られて落下した。舎人が急ぎ走り寄ると、舞い落ちる雀を両手で抱き留める。欣喜した観衆から、惜しみ無い拍手と賛美が湧然と起った。

裕が晴晴と東宮を振り返ると、自信に満ちた顔に余裕の微笑を浮かべ、尋ねた。

「三射目だ。何を、射ようか?」

総様が恐る恐る東宮の御気色を窺うと、その返答に注目する。

東宮が大いに感じ入った様子でにやりと笑うなり、溌剌として答えた。

「やるではないか、お前! そうでなくては面白くない! 最後の的は、俺が決めるのだったな。いいだろう、的はこれだ!」

言うなり的につかつか歩み寄ると、杯を取り上げ水を払った。

「俺がこれを思い切り中天に放り投げる。それを狙って、射ってみろ」

裕が、よしと頷いた。清新なる矢を番えると鋭角に空を見上げ、渾身の力で弓を引き絞る。準備万端整った所で、東宮に視線で合図を送る。

東宮が頷き、ビュンッと風を切る轟音と共に、存分に杯を放り投げた。

寸陰待たず、裕が機敏に矢を放つ。

杯と矢はあっという間に朝堂院の屋根を超え、碧空に消えた。

舎人が勝負の決着を判定するべく、杯と矢が消失した方向に向かい、急ぎ走り出す。

大観衆が東宮と裕の勝敗を、息を凝らして見守った。

さざめく群衆の後方で唯ひとり、薫が杯と矢の消えた方向をちらと見遣ると、瞳を伏せ腕を組んだまま憮然として、深い溜息を吐いた。

暫くして東宮が報告に時間が掛かると踏んだのか、戻らない舎人に構わず裕に向き直ると、何やら楽し気な面持ちで声を掛けた。

「では次は、俺の番だな」

東宮は、舎人に命じて自分の愛用である五人張りの強弓を持って来させると、いとも軽々と受け取るなり、裕に向かって説明した。

「これが俺の愛用の弓だ。勝負に弓矢の規定は無かったから、俺はこれを使う事にする。お前と同様に雀を二羽落とし、三本目の的は、お前が好きなものを指定するがいい」

裕が静かに頷いた。

しかしながら東宮の弓は、見た目にとんでもない強弓だった。通常より恐ろしく大きくて太い弓に、これまた明らかに長くて頑丈な矢が矢筒に備え付けられている。

憮然としたまま佇んでいた薫が、声を潜めると東宮を窘めた。

「お前、……それを使う気か? ……やめておけ。先の的にしろ……凡そとんでもない所に飛んで行った。これ以上の馬鹿な真似はするな、後は知らんぞ」

気分を害した東宮が、不遜な顔を向ける。

「相変わらず、厭味な奴だな。脆弱な弓では大破するだろ! 当然これでないと、調子が出ないというものさ。全く、杞憂ばかり口にするとは。大丈夫だ、黙って見ていろ」

又もや薫の諫言を撥ね除けると、豪快な声で舎人に命じた。

「おい、いいぞ。放て!」

群衆一同が、思わず息をするのも忘れて静まり返る。

静息した裕が東宮を正視すると、その一挙手一投足に傾注する。

舎人が慌てて鳥籠を開けた。先刻同様、雀がざあっと一斉に、青天に向かい羽搏いた。

長身の東宮が大弓に長矢を番え、易易と引き絞ると、刹那、昊天に向かい豪然と放った。

矢はブンッという怪音を立てて蒼空に向かい、次の瞬間、大勢の観衆は、信じられない光景を目の当りにした。

この上無く明瞭に、恰も群れ立つ雀の表情が遅遅として垣間見えた様だった。

不幸にも放たれた矢の暴音を聞いた雀の一群は、言うなれば恐怖に戦慄いた目を見開き振り返るや否や、一様に硬直し総並に気絶すると、矢に触れてもいないというのに、その群れ飛ぶ全てが墜落した。

強暴なる矢は雀がいた空間を一路邁進して突き進み、再び朝堂院の屋根を凌駕すると、先程同様天涯に消えた。

薫が怒りを露に、極めて不快な顔になる。流石の東宮も、少々ばつの悪い顔を見せた。

裕と観客一同が、奇絶なる光景と珍奇な展開に、壮絶に呆気に取られると言葉を失った。

一矢で……全羽。

いや正確に言うと……一矢も的中してはいないが、的は全部落ちた事になる。

地上に落下した雀は足を上げ引っ繰り返ったまま、麻痺した様にぴくりとも動かない。

薫が怒気に満ちた低い声で、再び窘めた。

「だからやめろと言ったのに……。どうするつもりだ? 二射とも、あの勢いと軌道からして間違い無く内裏……下手すれば、清涼殿にまで届いたかもしれないぞ」

東宮が、あからさまに不機嫌になるなり薫に噛み付いた。

「仕方無いだろう! 慣れた弓でも力の加減は難しい! 少しばかり手元が狂っただけの事だ!」

言うなりチッと舌打ちして、姑息な手段を考える。徐ら、群衆のひとりに声を掛けた。

「おい、そこのお前!」

「は?」

呆然と佇む観客の男性に、自らの強弓を放って投げる。

「お前に、やる!」

「?」

茫然自失とした男性が、唯々諾々と大弓を受け取り惘惘とする。

東宮が、度肝を抜かれ朦朧とした群衆を放置したまま委細構わず裕に歩み寄ると、彼の腕をがしっと引き掴むなり口を顰めた。

「おい、裕。少々……いや、かなりまずい事になった。今の内に、この場を逃げるぞ」

強引に腕を引き、縛して連れて行こうとする東宮の意図が分からず、裕が抗拒する。

「何をする、楠少納言殿! 何のつもりだ?」

 ……楠少納言……? 再びざわめき出した群衆の中で、薫が裕の発したひと言を明確に聞き取ると、内心酷く驚いた。同時に東宮が、得たりとばかり口角を上げる。

……あの時、俺が出鱈目に言った名前を知っている……やはり、楓だな。

東宮が、掴んだ腕をぐいと引っ張り有無を言わさず裕を引き込むと、紛紛冗冗とした群衆の中に紛れて走り出す。背後の薫を一瞥すると催促した。

「おい、薫! ここはまずいから二条院へ戻るぞ。早くしろ!」

言うが早いか裕の腕を掴んだまま、疾風迅雷の勢いで駆け抜けた。

薫がふ―っと深い溜息を吐くと後を追い、迅速に走り出す。

……どうして私が浅慮な阿呆の所為で、隠れる様に逃げ出す破目になるんだ……。

 迷惑千万とばかり、ほとほと薫が呆れ果てた。薫は朱雀門まで来ると、ひとりの蔵人(くろうど)を呼び止め、何やら指示を与えると、再び二条院への道を急いだ。



 清涼殿では帝が政務を執り、粛々とした朝議の真っ最中であった。

太政大臣の綾小路友禅を始め宮中の朝臣が一同に会すると畏まり、恭謙して主上に奏請しては、厳正なる裁可が下されていた。

「下総の国司の訴えによりますと……」

議事進行役の官吏が、朗々と訴状を読み上げる。雨上がりの蒸した午後を過ごし易くする為に、殿上の半蔀は全て上げられ、止ん事無き帝の御座所には清風が吹き抜けていた。

突然、雷撃の如く凶暴な破砕音がパーンと耳を劈いた。

ほぼ同時に帝の御座所近くの柱に、雷鼓を発した矢が深々と突き刺さる。

叫ぶ間も無く殿上の八方に、砕破した陶器の破片が四散した。

正に青天の霹靂、突如として降り掛かった凶事に清涼殿が震撼する。

「何事じゃ――!」

太政大臣を始め、左右の大臣が血相を変えて叫号する。

「出会え――! 謀反じゃ!」

殿上人が挙って大声を張り上げると、兵衛府の武官を呼び付ける。清涼殿が俄かに騒然となった。兵衛が大挙して馳せ参じると、近侍の朝臣が直ちに御簾越しに帝の安否を確認する。帝の安泰が確認されると今度は審議を中断して、矢と破片の検分が始まった。

矢が飛来した方向に兵衛が直ちに駆け付け、犯人の追及が始まる。

左兵衛府の大将が、速やかに奏上した。

「只今、全力で矢が飛来した方向を調べさせております。暫し、お待ち下さい」

 殿上の間では、(きん)(だち)に依る陶器片と矢の吟味が始まっていた。

「どうやら此の形状から察するに、破砕したのは小皿の様な陶器であろう」

「いや、高坏の様なものが混じっている……。此れは杯では?」

 蔵人(くろうど)(のとう)が分析結果を主上に申奏する。

稍あって御簾が巻き上がると、帝が自ら玉体を現した。左大臣が、慌てて諫奏する。

「主上、未だ下手人を捕らえてはおりません。御身が危のうございます。どうぞ御簾の中に今一度、御戻り下さいませ」

 帝が、勇壮に言葉を返した。

「よい、心配致すな。それよりも何故、こんな所に矢が……」

 帝が自ら玉趾を運び、素木柱の傷を見遣り思い集むと、俄かに殿外が喧騒するなり、兵衛に捕縛された舎人が数人、清涼殿の東庭に引き摺り出された。

 右大臣が広廂に進み出て、東庭の白洲を見下ろし詰問する。

「どうした! それなるは下手人か! 主上の御前である。其処に控えて奏上せよ」

 兵衛が白洲に跪き、縛り上げた舎人を従え、声高らかに奏上する。

「はっ。此れなる舎人は、矢の飛来した方向を精査した折、朝堂院の方向から参り、何やら矢と杯を捜していた所を、直ちに取り押さえたものです」

 右大臣が拿捕された舎人に視線を移し、厳しい視線で問い質そうとした矢先、ブンという怪音と共にとんでもなく長い矢が、右大臣の眼前に広がる白州に突き刺さった。

再び清涼殿が囂囂と、蜂の巣を突いた騒ぎになる。

右兵衛府の大将が進み出ると、帝に奏請した。

「此度の矢が飛来したのは、間違い無く朝堂院の方角です。私が直ちに配下の兵衛を従え、調べて参ります」

宮中の期待を一身に背負った右兵衛府大将が、多勢を引き連れ朝堂院へと急行した。


 大将が大挙して急急と駆け付けると、果たして大勢の群衆が何やら周章狼狽していた。群衆の中心部には、何故か的が外された杭が立っている。

群衆のひとりに確認すると、先程まで此処で、競射の勝負が行われていたとの事だった。

配下の兵衛が、弓を持ち茫然と佇んでいた群衆のひとりを連れて来た。彼の手には、恐ろしく巨大な強弓が握られていた。忠烈なる兵衛が、意気昂然として言上する。

「大将様! 下手人と思しき不審な人物を捕らえました。清涼殿まで矢を飛ばすには、通常の弓では先ず難しいと考えられます。破壊力を誇る、この様に長大な強弓でないと能いません。此奴はこの大弓を持って、この現場に居りました。此奴が犯人である事に間違いありません!」

 はきと明言した寵臣の敏腕に、大将が大きく頷いた。右兵衛府の大将は、自分の配下が殊の外有能な働きを見せた事に心から満足すると、誇らしげな顔を向け褒揚した。

「うむ! でかしたぞ! 此奴を引っ立てい!」

東宮に大弓を押し付けられた哀れな犠牲者が、法外な錯誤に吃驚すると、必死で反論した。

「違う違う、私じゃない。東宮様ですよ! この強弓の持ち主は!」

 男の主張に、大将に近侍する配下の兵衛が、辺りをぐるりと見回した。右兵衛府の大将が、周囲に東宮の姿が見えない事を確認すると、屹度した顔で怒声を張り上げる。

「東宮様の名を騙るとは不届きな奴め! 申し開きは、白洲の御前でするが良い!」

 大将の叱声に、主思いの忠臣が此処ぞとばかり、容赦無い罵声を浴びせ掛けた。

「問答無用だ! 往生際が悪いぞ!」

「不埒者め! 聖域である禁裏を何と心得る!」

「臆したか! 観念して、早々に縄に付け!」

周囲の群衆は、濡れ衣を着せられた哀れな犠牲者を傍ら苦しく思いながらも、誰ひとりとして勇猛果敢に弁護し反証する者はいなかった。

余計な事を口走り、後で東宮に目を付けられたら一巻の終わりとばかり、赤の他人に突如として降りかかった不幸極まりない不運を嘆き念仏を唱えつつも、事こうなっては生け贄になって貰うしかないと、総じて黙りを決め込んだのである。

 こうして哀れな犠牲者は、潮が引くかの如く清涼殿へ引き揚げて行く兵衛の一軍に、下手人として絡め取られ、引き摺られて行った。

 彼が無罪放免にて名誉を回復し、青天白日の身で無事釈放されたのは、暫くして薫の特命を受けた蔵人が、帝に奏上して彼の潔白を明快に証明してからである。

因みに彼は迷惑料として銀一片を貰い受け、納得して帰宅したとの事である。







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