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事件発生

季節は卯月も末の葵祭りも過ぎた頃、萌黄色の山の緑も今や濃艶に色めいて、平安の都は甘露を抱いた花々の芳潤な香りに満ち足りて、まさに春本番の、百花繚乱の華やかさを呈していた。


左京四条大路近くの綾小路(あやのこうじ)家では、船楽の宴が盛大に行われていた。

時の太政(だじょう)大臣(だいじん)綾小路(あやのこうじ)友禅(ゆうぜん)を主とするこの屋敷は、この時代の典型である寝殿造りの、壮麗にして優美、広大無辺な敷地を擁するものだった。鴨川の豊かな水をふんだんに引いた広い園池は、池底の玉砂利も透けて見える程の透度を誇り、その清冽な水は遣水となって滔滔と邸宅全体を循環し、清涼な水音と共に潤していた。

 池泉の中央に造られた中島と築山には、手入れの行き届いた季節の花木が絶妙に配置され、四季を通じて屋敷内からも庭の風情を愉しむ事ができる様、緻密に計算された設計となっていた。母屋にあたる寝殿前の中庭から趣向を凝らした朱塗りの反橋を渡れば、池に点在する中島は典雅な平橋で結ばれ、随所に設けられた東屋は、庭園全体をゆったりと回遊しても満喫できるという贅沢な配慮となっていた。

 一年を通じて、綾小路家では様々な遊宴が催されたが、殊に新緑が眩しいこの季節は、船楽の宴が恒例であった。色取り取りの花が咲き零れる中庭を愛でながら、釣殿に設けられた舞台で艶やかな舞楽に興じ、龍頭鷁首の船を池に浮かべて洗練された雅楽を愉み、迦陵頻伽(かりょうびんが)も斯くやあらんと陶酔する。高雅の粋を極め春を謳歌するこの宴は、文官武官は勿論の事、天皇や東宮、後宮の后妃が行幸行啓される事も珍しくなかった。


 今回の宴は、本日でもう三日目になる。初日は、主賓である天皇や後宮の后妃を始め文武百官に及ぶと思われた客人も、流石に幾分閑散として、後はごく近しい親戚や友人が、名残惜しく酒を酌み交わす程度になっていた。主催者側として客人をもてなし、世話役として多忙であった友禅の息子、(かおる)も、漸くその任から解放されると私室に戻り、ひと息入れる事にした。


 主宰とはいえ自らも存分に舞楽や雅楽に興じ、夜通し散々愉しんでいた薫であったが、三日目ともなると心地好い疲れを感じ、未だ日の高い日中ではあったが少し昼寝でもしようかと、東の対にある自室に戻ると、無人の筈の室内から、待っていましたとばかりに、伸びやかな声が鳴り響いた。

「おかえり薫! おつかれさま!」

嬉々として満面の笑みで出迎えたのは、親友の(あおい)であった。

「お疲れ様、薫! もう宴会は、お開きになったの?」

葵に続き弾んだ声を掛けてきたのは、(たちばな)右大臣のひとり娘であり、葵と共通の女友達である(こう)(らん)であった。

すっかり安らいでいる二人を見て取ると、薫が温雅に微笑んだ。

「ああ、もうお開きと言ってもいいだろうね。ようやく、お役御免で戻って来たよ。二人共、どうも姿を見ないと思ったら、此処にいたのか」

 紅蘭が瞳を和らげ快活に笑うと、答えた。

「初日は公の立場で来たから、勿論寝殿に居たわよ。でも酒宴が始まれば……うら若い乙女が、酔っぱらって出来上がってるおじ様方のお相手をするというのも、ねぇ? それで、帰ろうかとも思ったんだけど、葵も薫の私室でくつろいでいるって言うものだから……。ついつい此処に長居して、葵とのんびりしてたの」

 葵が紅蘭の言葉に頷くと、その温純な顔を向け薫を見上げた。

「僕は酒宴自体が苦手だから、いつも通り端から欠席してたんだけど、薫はちっとも部屋に帰って来ないし退屈だったから、紅蘭が来てくれて助かったよ!」

 暇を持て余していた様子の二人に、薫が柔和な瞳を向ける。

「そうなのか、それは済まなかった。私もちょっと立て込んでいてね、寝殿で仮眠していたものだから。何もお構いできず、申し訳なかった」

 葵が晴れ晴れとした視線を向けると至福の笑顔を見せ、机上を指差し得意顔になる。

「薫が気にする事なんて無いよ! 勝手に押しかけたのは僕等だし! それより見て! これ全部、昨日一旦家に戻った紅蘭が、持って来てくれたんだよ!」

 薫がふと目を転じ、居室に置いた大机を見遣る。

平素は整然として効率的な作業に適した様相の大机が、今やその姿さえ見分ける事が困難な程、夥しい物で溢れ埋もれていた。累々と積み上げられた豪勢な菓子箱に、どう見ても必要以上と思える玩具が所狭しと山積した机上を見遣り、薫が思わず呆然とする。

自ずと閉口した薫の心中など思いも寄らず、揚々とした葵が興奮気味に言葉を継いだ。

「凄いでしょ! 珍しい御菓子に双六に、見た事も無い程立派な貝合わせの蛤! 何でもあるよ! 今も紅蘭と、囲碁でひと勝負してた所なんだ。薫も、何か食べる?」

 意気昂然とした様子の葵に、薫がやれやれといった顔になる。

次々と菓子箱を開け、薫好みの御菓子を熱心に物色している様子の葵をやんわり見遣り、大机どころか床にまで派手に散乱した数多の玩具に、言葉通り奔放に遊んだ様子を見て取ると、薫が軽く嘆息するなり微笑した。

部屋の隅に視線を移し、起抜けのまま放置された葵の寝具を取り上げ、手際良く整える。疲れているにも拘らず率先して世話を焼き始めた薫に、驚いた紅蘭が口を開いた。

「呆れた、薫! あんた、葵の寝具のお世話までしてるの?」

 紅蘭が薫の手綺麗な所作に大層感心しながらも、世話好きの薫を信じられないといった様相で凝視する。

室内を瞬く間に明窓浄机に戻した薫が、紅蘭の言葉に心外そうな顔を向けた。

「此処は安気にくつろぐ為に、普段から人払いしてあるからね。それに元々私の自室だし、私が整頓するのが当然なんだよ」

 薫が清静とした瞳を向け言葉を返すと茶道具を出し、優雅な手付きでお茶を淹れる。

 紅蘭が呆れ顔で薫を見遣ると矛先を転じ、今度は葵に向かって小言を言った。

「葵! あんた、十八にもなって恥ずかしいと思わないの? もう! 自分の布団くらい自分で直しなさいよ! 全くこの三日見てれば、あんた……薫の部屋で自分の家みたいに我が物顔でやりたい放題じゃない! お片付けも碌にしないし!」

 紅蘭がピシャリと窘める。当然反省して気落ちしたものと期待して葵を見遣ると、予想に反し、けろりとして反論された。

「え――? だって僕と大津(おおつ)、薫の三人は、それぞれの自室に自分専用の寝具や小道具を置いてるもの! 個人の自室というより、寧ろ共用って言った方がいいくらい。だから本人が不在でも、いつでも好き勝手にしていいんだよ!」

葵が口を尖らせ当然の権利だとばかり開き直ると、薫に同意を求める。

薫が苦笑交じりに葵を見遣ると、紅蘭に向い言葉を返した。

「確かに言われてみれば、そういう事になっている。互いに無遠慮であるのは間違い無い」

薫が不意に言葉を切ると目を側め、言うだけ言って再び御菓子にその関心を向けた様子の葵をちらと見遣ると、口を顰めて言葉を継いだ。

「それに……私としても正直言うと、葵にやって貰うより、自分でやった方が遥かに楽なんだよ」

 薫が、その清麗な瞳で静かに目配せすると、微笑んだ。

言うだけ損だったとばかり呆れ返ると、紅蘭が盛大に溜息を吐く。

茶請けに合う菓子を嬉々として選び始めた葵に目を据えると、紅蘭が睨め付けた。

「葵! あんた本っ当に、自分じゃ何にも出来ないんじゃない……。そんなにだらしなくて、よく医師が務まるわね!」

 呆れ果てた様子で厭味を言い、喟然として嘆息する。懲りた様子も無ければ恥じ入る様子も見受けられない葵に、紅蘭が糠に釘とばかり説教を断念した。

釈然としない紅蘭を見て取ると、薫がくすりと笑い、その優艶な瞳を向け艶然として、湯気立ち上るふくよかな香りのお茶を二人に勧めた。


 麗らかな春の日差しが満々と降り注ぎ、穏やかな温もりとなって心地好く部屋を暖め、何とも幸せな午後となっていた。東の対にある薫の私室では格子を全て取り払い、部屋を吹き抜ける薫風に潺潺と流れる遣水の清爽な水音、ひと際甘い花々の浥浥とした香りを楽しみながら葵と紅蘭、薫が和気藹々と談笑し、悠悠閑閑とした極上の一時(ひととき)を過ごしていた。


 不意に風光明媚な静寂を劈き、轟々と簀子を走る音が鳴り響く。

突如として湧き起った喧騒に、吃驚した一同が一斉に振り返ると、急使が飛び込んで来た。

「薫様! おくつろぎの処、大変失礼致します」

急使は肩で息をする程焦った様子で薫の前に跪き、注進した。

薫が、急使の尋常ならざる様子に何事かと眉を顰めると、問い掛けた。

「どうした? 何か、急用か?」

急使が大きくひと息吐くと、薫に言上する。

「それが……二条院の者が数名、大至急、薫様に御会いしたいと参っております」

二条院とは、事実上の東宮御所の事である。薫が怪訝な顔になると、直ちに指示した。

「東宮配下の侍従が……? 速やかに、こちらに通せ」

「畏まりました。直に、案内致します」

急使が簀子を駆け戻り、直ちに二条院付きの東宮侍従を薫の御前に連れて来た。

紅蘭と葵が一体何事かと、不安気に顔を見合わせる。

東宮侍従は薫に拝謁すると深々と頭を下げ、言上した。

「薫様、ご歓談中にも拘わらずこうして不躾に訪問してしまい、申し訳ございません」

当惑頻りに詫び入る東宮侍従に、葵と紅蘭が傾注する。

薫がその深青の瞳でじっと侍従を見つめると、冷静な口調で口を開いた。

「いや、そんな事は全く気にしないでいい。それよりどうした? そなた達が、私の許に来るという事は……もしや東宮に、ただならぬ事があったのか?」

悄然とした東宮侍従が、平伏したまま訥訥と答えた。

「はい。実は……東宮様におかれましては、昨日より御行方不明でございまして……。只今、全力で御行方をお捜し申し上げておりますが、一向に所在が判明致しませんので、東宮様の守役であり、又親友でもあられる薫様にお知恵を拝借致したいと思い……御無礼を承知で、罷り越した次第です」

 東宮侍従が深い溜息を吐き、やっとの思いで言い終えると、疲労困憊の上に今にも涙ぐみそうな様子で、衷心から弱り果てた顔を向けた。

 一方の薫は話を聞いて驚くどころか、寧ろ怒り心頭に発した様子で眉を顰めると、ああまたか……とでも言いたげに、うんざりした顔を見せた。薫の隣で傾注していた葵と紅蘭も、それぞれ盛大な溜息を吐くと、薫同様怒りを露に呆れ果てた。

 薫が表情を平静に戻すと、俯いている侍従に向かい、温情に満ちた声を掛ける。

「それは……特に心配は無いと思うが……。今迄も、この様な事は日常茶飯事であったであろうに。私も東宮からは行き先など……特に何も、聞いていないが」

 静聴していた葵が甚だ憤慨すると、怒涛の如く口を挟んだ。

「そうだよ! 貴方達が気に病む事なんて、何ひとつ無いよ! 皆、大津の被害者なんだからさ! 放っておいても、その内平気な顔して帰って来るよ! 大体、今迄に数百回は行方不明になってるし、死んだって噂だって数十回は立ってるもんね! 未だ十八年しか生きてないのにさ! 信じらんないよ!」

 気息奄々とした東宮侍従を前に、紅蘭が東宮である大津の再三に亘る無謀に対し、常常とはいえ、ほとほと呆れ果てる。次いで御役目とはいえ、その責任を追及される彼らの立場を思い遣り、暴虎馮河の暴れん坊を主人に持つと、本当に目も当てられない程お気の毒だわ……とばかり、胸奥から激しく同情した。

 薫はうなだれたままの東宮侍従を見つめると、紅蘭同様彼らに深く憐憫して、気の毒な事この上ないとばかり心を汲むと、問い掛けた。

「それで抑抑東宮は、今回どういう経緯で行方不明になられたのか? 此方の遊宴初日には、いつもと同様当然欠席かと思っていたが、珍しく主上と共に……嫌々ながらも強制的に出席されていたと思うが」

 薫の問いに、東宮侍従が言い辛そうに話し始める。

「はい……その通りです。三日前に此方で催されました船楽に、主上の有無を言わせぬ厳命により、渋渋御出席されておりましたが……宴もたけなわの夜半過ぎに、黎明より鷹狩りに行くからと密かに抜け出されまして……」

 予想通りの行動だとばかり、薫が眉を寄せ瞳を伏せると軽い溜息を吐いた。

経緯を聞いていた葵が、込み上げる笑いを噛み殺すと悪戯めいた笑みを浮かべ、声を潜めて紅蘭に話し掛ける。

『無理ないよ、大津に雅楽や舞楽が分る訳ないもん。逆に、よく夜中まで我慢したよ』

紅蘭が豪奢な(あこめ)(おうぎ)を広げると、口を顰めて葵に答えた。

『そうよね。全く柄じゃない上に、苦痛でしかない筈よ! きっと、帝に何か弱みを握られて、無理やり引き摺られて来たんだわ』

憤激醒めやらぬせいなのか、はたまた東宮と近しいからなのか……二人が辛辣なまでの放言を言いたい放題に展開する。

意気消沈とした東宮侍従が、ぼつぼつと話を続けた。

「……その後東宮様は、『天皇家の御狩場なんて、狩りの意味があるか』と仰って、我々の制止も空しく、狩場区外の立ち入り禁止場所を猛然と馬を駆っておられた所……あの辺りは、近年の連続する地震により大幅に地形が変わっておりまして、前方に突如として開いていた断崖絶壁から落ちたまま、本日に至る迄……御行方知れずとなられたのです」

東宮侍従は漸く全てを話し終えると、主の安否というよりは寧ろ自らの処遇の行く末を思いやってか……はらはらと涙を流し、両手を突いて平伏したまま咽び泣いた。

東宮侍従の隣で共に跪き、期せずして一部始終を知る事となった薫に仕える従者達は、自分達の主人が人格者であり、自らがこの上なく恵まれている事を目の当たりにすると、まず深く神仏に感謝し、次いで惨然と畏まる東宮侍従達を思い遣ると、いたく同情した面持ちで心配そうにみつめていた。

 薫が双瞳を閉じたまま長嘆する。

稍あって、その慈悲に満ちた深青の瞳を向けると、温容に口を開いた。

「……そうか。いや、全く御苦労だったね。大丈夫だ、君達には何の落ち度も無い。もう帰って二条院の留守を守り、ゆっくり休むといい。……東宮の事は仕方が無い。私と葵で捜して、連れ戻すとしよう」

 薫が静穏に微笑むと、東宮侍従の労を労った。悄悄としていた東宮侍従が顔を上げ、感極まった様子で薫の恩顔を仰視すると、感涙を滂沱に流すなり深々と平伏する。

彼らにとって薫という存在は、有事の際の神頼みに他ならなかった。恩情に満ち、寛容な姿勢で東宮に対しての全責任を引き受けた薫に対し、もはや何か神々しいものさえ感じて、彼等という悩める子羊達を救う、何やら眩い救世主の様に見えていた。


 感慨無量となった東宮侍従が丁重なる感謝の意を述べ退出すると、薫が早速身支度を整える。葵が不平不満に満ちた顔で、ぶつぶつと文句を呟いた。

「もうっ。大津ったら、どこで何をしているのさ! 本当に人騒がせなんだから」

 葵の不服も尤もだとばかり嘆息すると、薫が苦笑する。

「どうせ勢い余って崖に突っ込んだのだと思うが……。何してるんだか! ……ま、心配するだけ損だと思うが……。全くもって言語道断、甚だ迷惑な奴だな」

 降って湧いた面倒事に手際良く二人の支度を手伝っていた紅蘭が、薫の身を気遣い満面に憂色を浮かべると、心配そうに口を開いた。

「大津は化け物並みの体力だし、何せ自業自得だから……帰って来たら厳重にとっちめてやるけど……。薫、あんた宴会も続いて不眠な上に、私達も押し掛けて来てたし……疲れてるんじゃないの? 大丈夫?」

紅蘭の配慮に感謝すると、薫が瞳を和らげ艶然として、意味深長に言葉を返した。

「ありがとう、紅蘭。私の事は心配無いよ。紅蘭の憂慮に葵の不満、そして東宮侍従の悲哀……全ては引責するべき張本人に、謹んで請求する。軽挙妄動の大馬鹿者にね」

 容姿端麗、物腰優雅である薫が、その清艶な瞳を峻酷に細めると、艶麗なる冷笑を浮かべた。随所に毒を含んだ薫の物言いに、その激怒を感じた紅蘭と葵が思わず閉口すると、触らぬ神とばかり寒気立つ。

仕度を終えた薫が、紅蘭を丁重に送る様従者に申し付けると、庭に曳いた紅栗毛の愛馬にふわりと騎乗する。薫に続いて葵が自らの白馬に跨った。葵が無事騎乗した事を確認すると、薫は葵と共に風を切って颯爽と馬を駆り、天皇の御狩場目指して疾駆した。



 今や渦中の人物である東宮(大津(おおつ)大浪(おおなみの)皇子(みこ))は、ふっと何かしらの気配を感じるなり、上半身を跳ね上げ飛び起きると、その鷹の様な双眸で鋭く周囲を観察した。

 ひんやりとして仄暗い空間は冥々として、ごつごつとした剥き出しの岩に覆われた天井と壁が峻厳な様相で屹立する。簡素な几帳で仕切られただけの陰暗たる室内には、必要最低限の生活用具が揃えられてはいたが、人の気配は無かった。

東宮がその鋭敏な双眸を転じると、自らの所在を確認する。

どうやら清潔そうな褥の上に寝かされていたが、何故自分がこんな場所で寝ているのか、綺麗さっぱり記憶が無かった。

少々頭が岑岑とする。東宮は五感を敏に研ぎ澄まし、鋭意に警戒しながらも黙然として、事こうなった経緯を順良く思い出そうとしていた。

 ふと人の気配を感じて身構える。だがすぐにその警戒を緩めると目を欹て、気配を感じた方向を注視した。

杳杳とした空間に、眩いばかりに皓々とした一条の白光が差し込むと、眼前の几帳を上げ、気配の主が姿を現し、驚いた様子で東宮に向い声を掛けた。

「気が付いて良かった! もう丸二日寝ていたのよ! 調子はどう? 何処か具合の悪い所は無い?」

 涼やかな声の主は、年の頃十七、十八歳のうら若い女性で、流れる様な黒髪は光沢のある絹糸の如く、意志の強そうな深黒の瞳は、夜空に瞬く星辰の様な輝きに満ちていた。

彼女は公家に仕える女房達と同じ簡素な袿単衣姿であったが、東宮はその出で立ちに、何故か本能的な違和感を覚えた。

 東宮が女性の煌然とした双瞳を真っ向から見つめると、自嘲気味に口を開いた。

「ああ、少々頭が痛むくらいだ。心配無い。ところで二日とは……。そうか、俺はそんなに寝ていたのか! 全く無様というものだな、情け無い」

東宮が自らの失態に呆れ果てた様子で首を振ると、再び真摯に向き直る。

「……時に此処は一体、何処なのだ? どうして俺は、此処に居る?」

眼光爽然として、さっぱり訳が分からないとばかり、直情径行に問い質した。

単刀直入に本題を問い、何とも淡々とした様子の東宮に、夭夭とした女性が痛快な様子で失笑するなり麗朗に答える。

「ここは、自然の洞窟を利用して造った私の家なの。貴方は二日前、洞窟の前を流れる川沿いの断崖絶壁の上から落ちたらしくて、川原に倒れて気絶していたのよ」

女性が瞳爽やかに、興味津々といった様子で身を乗り出すと問い掛けた。

「凄いわね、貴方! 凡そとんでもない崖から落ちた筈なのに、見た所、擦り傷くらいしか無いんだもの! どういう鍛え方してるのかしら?」

大いに好奇心をそそられた様子の女性が、星辰の如き双瞳を大きく見開き輝輝として、東宮の顔を覗き込む様にじっと見つめる。

平素は剛毅な東宮が苦笑するなり、甚だ以って恥じ入った。

「いや……。頭を強打して意識が飛ぶ様では、話にならんさ! それより、其処を君に助けられたのか。……悪かったな、相当大変だった筈だ! 君に救護されなければ、恐らくそのまま野垂れ死んだ所だからな。まずは助けてくれて、ありがとう。礼を言う」

 威風堂々とした長身で、強靭な体躯に恵まれ精悍な容貌の東宮が、神妙な様子で詫び入ると、厚く礼を述べた。

その様子が余程心外だったのか、女性が一瞬呆気にとられると、思わず快闊に吹き出した。

「身体剛強としてかなりのこわもて、身形からして何処ぞの高貴な貴族の若様とお見受けする貴方に、礼を尽くされるとは驚いたわ! ……心配しなくても、貴方を此処まで運んでくれたのは貴方の馬よ。此処は、貴方が倒れていた場所から上流へ四里の所なの。私ひとりでは到底運べないわ!」

涼やかな声を麗朗に弾ませると、彼女が清々とした顔を向け、何かを思い出した様子の東宮を見つめた。東宮が膝を打つなり、爽快な口調で口を開く。

「そうか、俺の馬、生きていたのか! 彼奴には悪い事をした。崖から落ちた瞬間に、奴が上手く水中に落ちる様に手綱を放し、したたか尻を蹴っ飛ばしたからな! 俺は咄嗟に太刀を岸壁に刺して落下を防いだが、そこから覚えていない所を見ると、どうやらそれで頭を打って昏倒したらしいな」

 記憶が吹き飛ぶ直前の経緯を思い出し、すっきりした面持ちの東宮であったが、ふと顔色を青変させると呟いた。

「まずいな……。彼奴、激怒していなければいいが……。彼奴の機嫌を損なうと、後が大変だからな。まあ俺は擦り傷で済んだし、互いに生還できて何よりだったが」

 口を顰めて独語して、どうやら自分の馬に怯えている様子の東宮を見て取ると、清爽な瞳の佳人はさっぱり訳が分らないとばかり、不思議そうに首を傾げた。



 東宮が落ちた崖下の河川流域では薫と葵が、各々の馬が大汗を掻き大きく息を切らせる程に方々を駆け巡り、東宮の行方を捜していた。

「薫! 下流隅々まで見ていないって事は、上流かな?」

東宮であり親友である大津に対して腹を立て、半ば仕方無く捜索に出た筈の葵が、丸二日以上経過した今となっては、流石に焦りと不安の色を浮かべていた。

葵が、愛馬である白馬((はく)(こう))の手綱を大きく引き締めると、先行する薫に呼び掛けた。

白公が、流れる汗を振り払うかの様に純白の頭と象牙色の鬣を左右に振り、大きくひとつ身震いして停止する。

葵の呼声を受け、薫が見事な紅栗毛の馬((こう)())の手綱を引き、止まらせる。

紅妃は馬上の主人同様流れる様な優雅な仕草で止まったが、そのしなやかな肢体からは細かな息遣いと共に蒸気が立ち上った。

薫が紅妃の頭を返して葵の眼前に立ち戻ると、満面に憂色を湛えた葵の顔をじっと見つめる。いつも通りの冷静な口調ながら、深刻極めた様子で言葉を返した。

「そうだな……。崖下の川に落ちて流されたかと思ったが……。歩いて上流に行ったのかもしれない。これでもう三日目になる。早くしないと、危険だ」

葵同様、傍若無人な東宮の行動に呆れ果て、愛想が尽き果てた薫であったが、この心境の変化は……単なる行方不明日数の経過が原因ではなかった。

薫は東宮である大津大浪皇子という人間を、正しく理解している親友である。

同じ親友でありながら、生来より心配性の葵と異なり、薫は東宮の野性的ともいうべき危機管理能力に、絶対的な信頼を寄せていた。豪傑である東宮ならば、大抵の災禍に遭ったとしても、まず間違い無く巧妙に切り抜け、何事も無かったかの様に飄々として、無事生還してくる筈……。事実、それには今迄、唯一度の例外も無かった。

だからこそ安心して悪態をつき、不平不満や厭味を言いたくなるのである。

しかし今回ばかりは葵と捜索に出てすぐに、これは嘗て無い事態かもしれないと、否応無しに苛酷な現実を突き付けられた。


薫と葵が捜索に出立してまず始めに向かったのは、東宮侍従より聞き及んでいた、東宮が転落したという事故現場の崖である。

すると蒼蒼とした崖の頂上で、一人の女性が薫と葵を待っていた。

常に東宮の傍に仕えている筈の……東宮直属の諜報員のひとり、(あかね)である。

茜は薫と葵の前で片膝を突くと、その憔悴し切った顔を上げ、二人を仰視した。

平素と異なる様相に吃驚した薫が仔細を尋ねると、当惑した様子で茜が答えた。

「薫様、申し訳ございません。実は私も……未だ東宮様と連絡が取れていないのでございます。いつもですとこの様な場合でも必ず、東宮様が移動された際に残された痕跡、或いは東宮様が故意に残された目印があり……それを見付けて、東宮様がお呼びの際には密かにその御指示を仰ぐのが私の役目でありますが……。今回は御狩場という公の場所でしたので、遠方より陰ながら東宮様を拝見しておりましたが、不測の緊急事態で私が崖下に駆け付けた時には、東宮様のお姿は勿論、何ひとつ痕跡が残っておりませんでした……。その後も東宮様の乗騎である黒王(こくおう)の行方共々全力で捜しておりますが、足跡等も見出せず、御消息不明のまま今日に至っております。この様な事は初めてですので、東宮様の御身を案じておりますが……。どうしたものかと困惑しております」

茜の話に、沈着な薫が内心酷く驚愕した。というのも、その道に掛けては卓越した熟練であり、まさしく諜報が専門である筈の茜が、東宮を発見出来ないどころか一切の情報を得られず追跡不能で途方に暮れるなど、凡そ有り得ない事態であった。

前代未聞の局面に、咄嗟に薫がその怜悧な頭脳でありったけの可能性を考える。

東宮が、故意に自ら身を隠す可能性は極めて低かった。思い当たる原因が此れと言って何も無い。恣意的に隠遁したくなった可能性も、まず無い。……であるならば、事態は嫌な方向を想定せざるを得ない。つまり、何がしか不測の事態に陥り身体の自由が利かない状態になり、誰かに連れ去られたかもしれない。それとも……最悪の事態は……。

薫が暫し目を瞑り、徐に自らの考えを否定するかの様に頭を振ると、口を開いた。

「……まずは東宮が落ちた崖を見てみよう。……それからだ」

薫は茜の話を聞くなり蒼然と絶句した葵を冷静に促すと静かに馬を降り、茜と共に崖上に立ち、足下を眺めた。

眺めたというより、足下を遥かに見下ろした……という方が正しい表現だった。

崖は正に刃物でスパッと鋭断されたかの様な、断崖絶壁を思わせた。遥か下方に谷川が見える。河川敷は狭くは無い様であったが、この高さ……。まず、落ちたら命は無いと思われた。まさか……。流石の薫も、思わず背筋が凍る程の寒心を覚えた。

葵に至っては無言のまま、その場にへたへたと座り込んでしまった。

成程崖の上から真っ直ぐ対岸を見渡せば、遠目には此方側から対岸迄、恰も地続きであるかの様な錯覚を起こさせる条々として広大な平原が広がっている。

恐らく東宮は猛然と疾走していて、前方の崖に気付いて手綱を引き締めたものの足場を失い、均衡を崩して落下したのだろう……。

何とも愚かで傍迷惑な行為ではあったが、こうして現場を目の当たりにすると、最早責める気は全く湧かず、その安否ばかりが気になる所であった。

茫然とへたり込んだ葵が絶望して涙ぐむ。薫が茜に問い掛けた。

「崖下に……血痕などは、あったのか?」

「それが、あちこち捜しましたが……全く何も無いのです」

茜が即答する。薫が続けて質問した。

「川は、かなりの水量があるのか? 深さは? 流れの速さは?」

「相当な深さですが、流れは緩やかです。水量は春の雪解け水の為、大変豊富です」

茜が的確に回答した。

「周囲に人家はあるのか? 目撃した人間は、いないのだろうか?」

茜が、周辺に集落は何も見当たらないと告げた。

薫が静かに頷くと黙考する。

軈て薫がその蒼氷の怜悧な瞳を茜に向け、崖下の現場周辺に待機し、現場を再捜索しながら目撃者が居ないか訪れる者があれば再確認する様命じると、柔和に微笑み茜を労った。

孤軍奮闘していた茜が薫の温語に唇を震わせると深く一礼し、転瞬の間に姿を消した。

薫が踵を返すと、再び騎乗する。

こうして薫はその明敏な判断から茜に周到な指示を与えると、自らは東宮が水に落ちて流された可能性が高いと考え、葵と共に川の下流を探し回っていたのである。


だが下流を隈無く捜索しても何の手掛りも発見出来ず、まるで成果が無かった。

下流に流されたので無いとすれば、誰かに保護されて上流に向かったのか……。意識があれば、なんらかの意思表示をするであろうから……三日経っても消息を掴めないという事は、余程の重態なのだろうか。それとも……動きを封じられた状況下で、何者かに監禁されているのだろうか。流石の薫も、悪い予感を払拭出来無い事態に追い詰められていた。

先程葵に、歩いて上流に行った可能性もあるという言い方をしたのは、愴然とした葵の不安をこれ以上駆り立てず……ひいては自分自身も負の思考回路から脱却させる為に、敢えてそう言ったのである。

黙然としていた葵が、俯き加減に手綱を握る手元を見つめながら、重い口を開いた。

「もうじき日も暮れるしね……。この辺りは人家も無くて物騒だし……。大津、辛うじて歩けたとしても怪我していたら……。適切な手当てをしていなければ破傷風になる。そうしたら手の付け様が……」

言い掛けた葵が口を噤んで押し黙る。遣る瀬無い懸念が累々として鬱滞した葵の胸中を敏に察した薫が、再び手綱を握ると葵を奮励した。

「良くない事だらけだが、意気消沈するには未だ早い。どうせいつも通りの杞憂に終わるよ。……無事だったら、殴り倒してやればいい。兎に角、先を急ごう!」

五里霧中に彷徨い、鬱蒼とした漠然なる不安を抱えたまま前途遼遠を痛感した二人は、そうであって欲しいと強く思いを馳せたまま、上流に向かって全力で馬を走らせた。



午後の日差しが緩やかに傾き、日没前の黄昏となっていた。東宮の危惧通り、同じく女性に保護されていた黒王は、洞窟前に姿を現した東宮の姿を見るなり明らかな怒りを以て発奮し、鼻息も荒く眼前に歩み寄ると、突如としてその頑丈な前足を猛々しく持ち上げ、傲然と威嚇した。全身漆黒の夜の闇色をした馬は、見た事も無い程の巨躯でありながら驚く程軽捷で、怒気で逆立つ鬣はひと際美しく波立ち、皓然と煌いていた。

憤慨に満ちた黒王の双眸を見遣り、東宮が甚だ苦笑する。

「……悪かった。だが、そう怒るなよ。なっ、もう許せ」

ひと言詫びるなり、東宮が黒王の背に乗ろうとして跳躍した。

憤激した黒王があろうことか東宮を乗せまいと上体を転じるなり、後足で激しく蹴り飛ばす。ひと筋縄では行かぬ黒王の強暴な態度に、今度は東宮が激怒した。

「お前な! 主人が誰か、分かっているだろう! 何だ、その傲慢な態度は! いつまでむくれるつもりだ! いい加減に、機嫌を直せ!」

豪然と叱声を浴びせるが早いか黒王の手綱をぐいと掴んで悍然と締め上げ、その鷹の様な鋭い双眸を黒王の両眼に確と合わせると、容赦無く睨み付ける。

稍あって、黒王が低く鼻を鳴らすと素直に東宮の命に従った。

自分の乗騎である筈の黒王に漸くにして跨ると、東宮が女性を振り返る。

想定外の珍事とばかり瞠目したまま唖然として佇む、凛として涼やかな美貌の若き恩人に目を注ぐと、礼を述べた。

「これで、俺も帰るとしよう。色々と世話になったな」

清かな瞳の佳人が、くすりと笑った。

「もう、崖から落ちない様にね」

東宮が、全くだとばかりに苦笑すると誠実に向き直り、言葉を継いだ。

「このお礼に、何かひとつ君の望みを叶えるとしよう。尤も俺が実現出来る範囲だが……。何か、望みはあるか? ……とは言っても、自分の馬に蹴られる様な輩だと、信用ならないか」

東宮が口角を上げ自嘲する。絹糸の如く艶やかな長い黒髪を夕日に煌かせ、春の薫風にさらさらと靡かせながら、佳麗な恩人が清然と微笑んだ。

「さあ……今の所は、これと言って無いわ」

無欲恬淡なる恩人を快然と見遣り、東宮が頷いた。

「そうか、無理もないな。では、何時でも良いから望みが出来たら都の二条院に来てくれ。必ず礼はする。ところで、君の名前は? 未だ聞いていなかったな」

瞳涼やかなる美人が、一瞬躊躇した様子で顔を曇らせる。

間を置き、ふと表情を緩めると清静として答えた。

「そうね、未だ名乗って無かったわね。私は、武者小路(むしゃのこうじ) (かえで)。貴方のご好意は有難いけれど、別に恩に着せるつもりは無いわ」

何とも無欲な楓が清澄なる瞳を向け微笑むと、馬上の東宮を見上げ、問い返した。

「貴方の御名前は?」

「俺は……」

刹那、言い掛けた東宮が突如として発生した気配を感知して、楓に向かって叫号した。

「伏せろ!」

訳が分らないまま、驚いた楓がはっとして大きく目を見開くと、瞬間頭を大きく後ろへ仰け反らせた。危機一髪、楓の眼前を矢が通り過ぎ、彼女の家である洞窟の入口の木戸に、ターンと高い音を立てて深々と突き刺さった。

「!」

 反り返った楓が自身の袴を踏付け、後方にぐらりと傾いた。

叫ぶ間も無く倒れると思ったその瞬間、瞬息の間に黒王から飛び降り楓に駆け寄っていた東宮が間一髪、楓を確と抱き留めた。

「大丈夫か?」

東宮が楓を腕の中に庇ったまま、鋭く辺りを見回した。

どうやら二射以上の危険が無い事を鋭敏に見て取ると、腕の中の楓を凝視する。

驚駭し顔面蒼白になった楓が慄然として、焦点の合わない虚ろな目で戦慄いた。

「綾小路だ……。綾小路が、私を殺しに来る……」

楓から発せられた信じ難い言葉に、東宮が瞠目するなり思わず我が耳を疑った。

東宮にとって、殿上人を始め都の貴族名で綾小路という姓は、凡そ薫の家しか思い当たらなかったからである。空虚な目をして洞洞とした楓が、心底怯えている事に気付いた東宮が、楓の肩を掴みその双瞳を真っ向から見据えると、真剣に問い質した。

「どういう事だ? 綾小路が殺しに来るとは……薫? 綾小路、薫の事か?」

刹那、東宮の言葉に吃驚した楓が一瞬にして正気に戻ると、深く冴え冴えとした瞳を向け、昂揚した様子で答えた。

「そうよ! 綾小路家の者は皆、私の敵よ! 驚いたわ貴方……綾小路薫を知ってるの?」

 東宮が青天の霹靂とばかり驚愕した。

選りに選って親友の薫が楓の仇敵であるとは、一体どういう事なのか……。然しも剛毅な東宮が奇妙な話に混乱すると、楓の追及に果たしてどう答えるべきか逡巡する。

暫し黙思していた東宮が、自分を見上げる楓の清粋な瞳に根負けすると、突拍子も無い大嘘が口を衝いて出た。

「……ああ。知っているも何も……実は俺、綾小路薫に親父を殺されてな……。いつか仇を討とうと、密かに考えていた」

 方便とはいえ余りに滑らかに迸り出た自らの虚談に、東宮が甚だ呆れ返る。と同時に、如何に剛胆なる東宮とはいえ、父帝や薫に露見した場合の想像を絶する恐怖に心胆を寒からしめていた。

 一方の楓はこのとんでもない虚言を真に受けて、衷心から東宮に同情していた。

漆黒の夜空を思わせる深き瞳は今やその心奥からの憐情に満ち、悄悄とした楓が、東宮に哀悼の意を述べる。

「お気の毒に……。仇討ちを考えるなんて……きっと、素晴らしいお父様でしたのね……。私もつい先日、綾小路に妹を殺されたの……」

 辛い記憶を思い出したからなのか、声を震わせた楓が瞳を伏せ、唇をきゅっと噛み締める。俯いた彼女の長い黒髪がさらさらと単衣の袿を流れ落ち、夕日に透けてほんのりと橙色を帯び煌いて、何とも美しかった。

 東宮は暫時黙然として、どうしたものかと考え込んでいた。

楓と名乗る彼女の様子に、嘘偽りは無い様に思われた。

肉親を殺されたと……薫を……綾小路家を恨んでいる。いや……怨恨を抱くというよりは、寧ろ本気で怯えていると言った方が適当かもしれない。

しかし東宮が知る綾小路家の人間は、薫にせよ、温厚篤実な友禅にせよ……およそ血生臭い事柄とは無縁の人間であった。

それは、誰より親友である自分が知っている。

どういう経緯かは分からないが、早く帰って薫に直接事情を聞いてみるか……。その方が、早そうだ。

決断した東宮が、ふと双眸を転じて楓を黙視した。

 それに……楓に対して最初に抱いた本能的な違和感も、どうも引っ掛かる。

……何かが腑に落ちない。だが、何故そう感じるのか分らない。

……やはり、一旦間を置いて、出直した方がいいだろう。

 こうして東宮は覚悟を決め、嘘を突き通す事にした。

悲哀漂う楓に向き直り、恩容な瞳で見遣ると口を開いた。

「思わぬ形で……同じ仇を持った君に助けられるとは……。これも何かの縁なのかも知れないな。俺は、少納言(しょうなごん)(くすのき)だ。東宮侍従として二条院に居るから、何か助けが必要になったら、いつでも来るといい。では、俺もそろそろ勤めに戻るとしよう。君も、達者でな」

寂寂とした微笑を浮かべ、楓が頷いた。

「そうね、同僚の方も嘸かし心配されている事でしょうね。……では、さようなら。綾小路にはくれぐれも油断せぬ様、どうぞ気を付けてね」

こうして二人は別れ、東宮は楓に教えられた道を川下に向かい、馬を走らせた。



それにしても……東宮にとって楓の話は、奇奇怪怪なものであった。

楓は、綾小路家の者に妹を殺されたと言っていた。……何処かで何か、深刻な誤解でもあるのだろうか……。何れにせよ、誤解で片付けるにしては甚だ物騒な話である。人殺し呼ばわりするからには、楓の方としても綾小路家の仕業という、何か動かぬ確証があるからそう思っているのだろう。……火の無い所に煙が立つ筈も無い……。

だが親友として、断じて有り得ない話だ。大体こんな事を薫が聞いたら、名誉毀損だとばかり激怒して手が付けられなくなるかもしれない。

曖昧模糊とした一件を散漫に考えながら、一刻も早く帰らなくてはならない筈の東宮は、いつしか緩々と馬を走らせていた。

「大津!」

不意に遠方から、自分を呼ぶ聞き馴れた声が聞こえた気がした。

漫然と黙思していた東宮がふと顔を上げ、前方を注視する。

「大津!」

今度は、呼声をはきと確認した。同時に、声の主を道の先方に視認して目笑する。

手綱を引き締め黒王の腹を軽く蹴ると、蹄の音も軽やかに駆って声の主に近寄るなり、鷹揚に声を掛けた。

「葵! 良かった、合流出来た」

葵は遠目に見事な手綱捌きで黒王を駆り壮健に戻り来る東宮に、大事無いなと心の底から安心すると、却って今度は東宮が近付くにつれ鬱積した怒りが沸々と込み上げた様子で、開口一番文句を言った。

「ちっとも良くないよ! もう! 薫と二人で三日間、散々探し回ったんだよ! 茜や東宮侍従にも連絡しないで、何処ほっつき歩いてたのさ! 皆に迷惑掛けて! ちゃんと皆に謝ってよね!」

東宮が口辺を上げ、にやりと笑う。

多少のばつの悪さは見せたものの悪怯れた様子は全く無く、飄然として葵に答えた。

「悪いな! 後で経緯を説明するとして……薫は? 一緒ではないのか?」

詰ろうとした矢先、淡然とした東宮に出端を挫かれた葵が拍子抜けすると、東宮の問いにはっとした面持ちで神妙になる。

「そう、薫! 本当についさっきまでずっと一緒に探していたんだけど……。先刻、突然矢が飛んで来てね! 薫がその矢を見て、『武者小路の奴らだ……。悪いが、葵はこのまま上流に向い先に行ってくれ。私も後から追うから』とか言って、矢を放った奴を追って行っちゃったんだよ!」

「何? ……武者小路だと? 確かに薫がそう言ったのか?」

驚愕した東宮に、葵が冷静に頷いた。

「うん、確かにそう言っていた」

「……矢が飛来した時刻は?」

怪訝な顔を向けた東宮が、矢継ぎ早に質問する。

「大津と会う、ほんの少し前だよ。それが、どうかしたの?」

珍しく驚きを前面に出している東宮を見て、葵が不可解な顔を向けると問い返した。

聞き置いたまま、東宮が摩訶不思議な顔になるなり押し黙る。

矢が飛んで来たのは、ほとんど同時刻……。お互いその所在を知らないまま近くに居た、俺達と葵達双方に矢が放たれ、両者が互いの家名を口にするなり妙な反応をした。

……これは一体、どういう事だ?

「大津? 何か変だよ、どうしたの?」

葵の言葉に促され、東宮がふと我に返る。

……まあこんな所で悩んでいても何の解決にもなるまい、と思い及ぶと了然として、きょとんとした顔の葵に向き直る。

「葵、二条院に帰るぞ! 鏑矢は、持っているか?」

「えっ? う、うん」

葵が狐につままれた様な顔をしながら、持参した弓と鏑矢を差し出した。

東宮が鏑矢を番えると上空目掛けて思い切り弓を引き絞り、バッと鮮やかに手を放す。

鏑矢がヒュウという号音を立て頭上の蒼蒼とした木立の翠蓋を突き抜け、虚空に消えた。


寸刻も待たない内に、条々とした翠影より人影が現れた。

靄然とした人影は東宮の前に進み出るなり膝を折ると、頭を垂れた。

「茜、難儀を掛けたな」

威風堂々として微笑した東宮に、茜が下を向いたまま答礼する。顔を上げて挨拶するのが礼儀であったが、東宮の顔を見上げてしまえば安堵の余り、感極まって泣いてしまいそうだった。

東宮直属の配下である諜報員は、任務に就くまで各々異なる経緯があるが、全ての諜報員が直接東宮と関わり、信頼されて個々に拝命し、就任した過去がある。

この為、彼等は東宮個人を至高とする絶対的な忠誠を誓っていた。その存在は秘密とされ、公に知られる事の無い諜報員は、東宮に見出されるまでの生い立ちが非常に劣悪で恵まれない環境であった者が多い。茜も例外に漏れず、そのひとりであった。

茜の母は早逝し父ひとり娘ひとりで生活していたが、父は貧しさ故に盗みを働き、嘗て罪人として処刑された。天涯孤独となった茜は、生きる為に自らも窃盗を働く様になっていた。或る日、選りに選って東宮を標的として失敗し、囚われて死罪となる所を東宮に許され、永久の忠誠を誓い諜報員となった。

茜にとって同じ諜報員同士は家族の様なものであり、東宮に対しては最早全ての範疇を超えて、唯一無二の超越的な存在とさえ感じていた。

東宮に付き従うのは自分に与えられた当然の任務である。此度の一件は、東宮を見失う事自体が自分の大失態であった。どの様な御叱りや厳罰でさえ覚悟していた。

それなのに此の方は……責めるどころか、こんな不甲斐無い自分の身を思い遣る様な、温かい言葉を掛けて下さった……。

尤も茜のこの感情は、諜報員以外の東宮に仕える侍従からは『当然有るべき謝罪であり、自分達はそれ以上の奉仕をして振り回されているのだから間違ってもそう思えない、とても信じられない心境』に違いなかった。

ともあれ、茜は嬉しさの余り込み上げて来る熱い涙と感情を必死に自制しながら、冷静に答えた。

「御無事で何よりでございました。一同、心配致しておりました。先程、薫様より御言付けを預かりました。丁度薫様の御指示を頂いている際に鏑矢が聞こえまして、薫様も大変安堵なさいました。薫様は私用の後二条院に向かわれるそうですが、私は葵様と合流して東宮様をお捜し申し上げ、御守りする様にとの事で、こうして川上へ向かっておりました」

茜の言葉を受け、東宮がひとつ大きく頷いた。

「そうか、御苦労だった。では、もう直ぐ日も暮れる。二条院へ急ぐぞ!」

茜が莞然とした笑顔で、東宮を仰ぎ見る。

「はい。では私は、陰ながらお守り致します」

言うなり茜が音も無く叢樹に身を潜めると、恰も翠霞の中へ溶け込む様に姿を消した。東宮が恩容に微笑むと、手綱を強く掴んで黒王の腹を蹴り、猛然と駆け出した。

慌てた葵が、待ってとばかりに後に続く。

 無為自然の亭々とした樹間に、一陣の陣風が巻き起こる。萌黄色の若葉が烈風に煽られ、嘈嘈と揺れた。日は完全に傾き、山の東側から急速に夜の帳が下りて来た。谷間を降り来る青嵐が、頬に少し肌寒く感じられる。二頭の艶麗なる幽明の馬が、疾風の如く都を目指して駆け抜ける。

葵がふと、三日前に薫と瞰下して絶望した、遥遠なる絶壁を見上げた。

 ……今は、怖くない。今は、目の前に大津が居る。

つい先まで薫と暗中模索して不安に陥って……。悪い事ばかりが頭を過ぎって気が狂いそうだった。どうしようって思っていたのに……。今となっては、こうして大津と都を目指して楽しく遠駆けでもしているかの様な、不思議な感覚……。

葵には、小刻みに肩を震わせながら感情を抑え、故意に下を向いていた茜の気持ちが、とても良く分かる気がした。

茜にとっては、大津自身が『家』の様な感覚なんだろうな、きっとね。

いつも自分勝手な行動だし、とんでもなく強引で我儘、口も悪い大津だけど……。

鷹揚で寛容、とにかく誰より人間的で……温かいんだよね。

薫とはまた別の意味で凄く頼り甲斐があって、側に居ると安心感があるんだよね。

存在してるだけで怖いもの無しというか……。

ま、本人が魔王の様な存在だから、悪魔や魔物も恐れて逃げ出すのは当たり前か。

思わず、くすりと笑みが零れる。葵が心中深く安堵に浸ると、断崖を振り返った。

あっという間に遥か後方となり、夜の闇に溶け込んでいく断崖を眺めながら、大津が無事で本当に良かったと、葵は心から神仏に感謝した。



 二条院に到着したのは夜中だった。ひと足先に茜より東宮発見の一報を受けていた東宮侍従達が、自分達の首が繋がった事に胸を撫で下ろし感涙の涙を滂沱に流すと、主の帰還を喜んで出迎える。渦中の東宮は帰るなり葵を従えて、私室に直行した。

「薫! 戻っているのか?」

東宮が常時人払いしてある私室に入って見渡すと、中央の居室の次の間に人影が見えた。

「薫!」

いつもの調子で、東宮が気さくに声を掛ける。

葵が部屋に足を踏み入れるなり、びくりと全身を緊張させると、伏し目がちに薫に向い、帰宅の挨拶をそそくさと済ませた。

「ただいま――」

二人の帰宅に際し振り返って出迎えた薫は、そのすらりとした長身で腕組みをしたまま優雅に立ち、見た事が無い至上の笑顔で艶然と微笑んでいた。

「おかえりなさい。無事で、何よりだった」

 凛とした清麗なる声に変りは無かったし、平素と同じ口調に仕草であったが、本来人を和ませる様な透明度を持つ筈の薫の美声には、何とも言えない棘と迫力が内在していた。

 野生的な本能を持つ東宮が、思わず背筋が凍る程の恐怖を覚える。

まずい……。こいつ……これ以上無く、ぶち切れている……。

東宮と異なり、如何なる場面でも理性的な行動を遵守する薫は、どんなに憤慨しようと自らの感情に任せて激昂するなど先ず無かった。極めて冷静沈着で、仮令相手がどんなに感情的に暴れて向かって来ようと、上手くあしらって流してしまう。薫が理性を失い、声を荒げて暴力を振るう事など、天変地異が起きても有り得なかった。

その薫が、相手がそれと感じる程感情を露に……激怒している。

東宮は、自分と正反対な性分であるだけに薫の出方が予測出来ず、対処の仕方に当惑して恐れをなした。これが帝である親父だったら、怒り狂っていてもお互い殴り合って拳で話をする所だが……薫にはそれが通じない。……何ともやりにくい相手だった。

「人にさんざ心配させといて、自分は好き勝手な時に帰るとは……本当にいい身分だな」

薫が眉を上げ、上から見下す様な侮蔑を込めた瞳で東宮を見遣ると、白けた感情の無い顔で、抉る様な厭味を言った。東宮が、チッと舌打ちして反論する。

「迷惑掛けたのは認めるが、俺も、何も好んで愚図愚図していた訳ではない。こうして無事に帰って来たんだ! それでもう良いではないか、なっ! お前もいい加減、ねちねちした厭味は止めろ! 陰険な奴だな!」

東宮の弁解に対し、薫が悪辣とも思える顔で冷笑する。

次の瞬間、堰を切った様に責め立てた。

「ほう? 私に対して、そういう逆切れをするとは、何と了見が狭い! だから何度も同じ事(行方不明)を繰り返すのだ! 大体お前は、後の事を何も考えずに行動し過ぎる! 東宮という立場だぞ! 分かっているのか? 何かあってからでは取り返しがつかん! 自重しろと言っているだろう!」

「……だから、悪かったって言ってるだろ! 事故だ事故! もう過ぎた事だ! 仕方無いだろ! お前も、もう毒舌吐くな! これ以上言うと、張り倒すぞ!」

東宮がむきになると、食って掛かるかの様に反撃した。最後は腕力で物を言わせると脅したつもりだった。だが意に反して、氷の様な凄絶な微笑を浮かべたまま、薫の悪態は止まらなかった。いや……寧ろ、脅しが全くの逆効果だった気さえする。

「何が事故だ? 未然にどうとでも防げた人災じゃないか。しかも、お前が暴走さえしなければ、東宮侍従も茜も葵も私も振り回される事無く、平穏無事な毎日を過ごしていたものを……。お前には、反省が足りん! 猿と一緒だ! ……いや、今迄のお前の反省回数を考慮すれば、猿に申し訳ないかもしれない。どうせまた三日経てば忘れて、平気で同じ事をするのだろう? 今度という今度は、深く自省しろ。それが、皆の為だ」

過去、壮絶な舌戦に関して、軍配は常に薫に上がった。薫は大変な能弁家で、言葉を操る事に掛けては天性の、抜きん出た才能を持っていた。東宮は毎回薫に追い詰められては最終的に墓穴を掘って派手に落ち、感情的に爆発して口論終了となる事が関の山だった。

……どう考えても、薫が正論なのである。甚だ腹立たしくはあったが、ぐうの音も出なかった。東宮はチッと舌打ちすると、自分を見据える氷の刃の様な薫の瞳を、灼熱の苛立ちを隠せないまま凝視して、渋々詫び入った。

「……悪かった。次は、気を付ける。……もう、許せ」

薫が解ればいいとばかりに、ふっと笑みを浮かべると、それ以上の追及を放棄した。

葵が呆れ顔で、やれやれやっと終わったとばかりに口を挟む。

「もう、いい加減にしてよね二人共! 全く、いつもこうなんだから。大津は、誠心誠意自重してよね! 皆、凄く心配したんだから! 薫は薫で、全然素直じゃないんだから!  あんなに心配してた癖に! 尤も薫は御目付け役だから、薫以外の立場の人が中々大津に言えない事でも辛辣に諫言するのは当然だけど、ちょっと言い過ぎだよ! ……もう!  大津が逆切れして暴れ出したら、幾ら薫が止められるとしたって二次災害だよ!」

 二人の舌戦を最後まで傍観し話を締め括った様でいて、実は誰より痛烈に、言いたい事をさらりと言って退けた葵である。


 一件落着した所で薫が茶道具を取り出し、いつもの様にお茶を淹れ始めた。

東宮が、ふと急ぎ帰宅した理由を思い出すなり、単刀直入に薫に尋ねる。

「時に薫、武者小路家とは何だ? お前の家と、何か関係があるのか?」

 薫が急須からお茶を注ごうとして驚くと、はたと手を止める。急須を静かに台に戻すと、東宮の鋭敏な双眸をじっと見つめ、訝しげに問い返した。

「どうしてその名を? ……彼等に遭ったのか?」

 東宮が薫を深く熟視すると、順を追って話し始めた。

「実は、崖から落ちて気絶していた所を武者小路 楓という女性に助けられてな。色々世話になったから礼を言って帰ろうとした時、突然矢が飛んで来た。すると彼女が蒼白になって『綾小路が殺しに来る……』と、本気で怯え出した。葵から聞いた話では、ほぼ同時刻にお前等の所にも矢が放たれ、お前も『武者小路の奴等だ』と言って、後を追って行ったそうではないか。一体、どういうことだ? 何かあるのかと思ってな」

経緯を聞き終えた薫が、深く長嘆した。遣る瀬無い苦患に満ちた表情を垣間見せると、その清艶な双瞳を伏せ、重い口を開いた。

「綾小路家と武者小路家は、かれこれ二百年近く対立して来た、敵同士なのだ……」

東宮と葵が、凡そ初めて耳にする話に吃驚するなり思わず顔を見合わせると、食い入る様に薫を注視する。東宮が、真摯な態度で口を開いた。

「俺は朝議を始め宮中での行事等、面倒事には殆ど出た例が無いからな。宮中の事にはかなり疎いが……。それだけ続いた旧家なのに、武者小路家の事は、終ぞ聞いた事が無いが?」

薫が口辺を緩めると、自嘲気味に淡々と答えた。

「無理もない。綾小路家が現在の様に政治の中枢を担う立場になったのは、今上帝の御代からの事……。それ迄は有力貴族ではなく、家としては旧かったが、主に大学博士を務める学者の家だったからね。宮中での地位も決して高くはなかった。武者小路家も地位からすれば我が家とほぼ同格だったから、東宮である大津が知らないのは当然だ。そして抑抑、大本を辿れば両家は同じ祖先を持つひとつの家だったのだが、大体二百年前に対立して二つに分家し、綾小路家は学問の、武者小路家は武道の家となったのだよ」

薫が典雅な茶碗を机上に並べると、慣れた所作で二人にお茶を淹れた。

優美な仕草でお茶を勧めると、粛然と話を続ける。

「それぞれ異なる道を選んだ筈なのに、却ってそれが裏目に出たのか……両極端とも言える思想の違いは収拾のつかない軋轢を生み、それが段々昂じて、いつしか私生活を含むあらゆる面で悉く対立する様になったらしい。しかし、互いに殺人だけはしなかった。殺し合う事の無意味と、馬鹿らしさを知っていたからだ」

薫は机に両肘を付いて軽く手を組み顎を乗せると、湯気の立ち上る茶碗を眺めながら、一瞬哀愁を帯びた寂しげな表情を見せ、ふと感情を消し虚ろな顔になった。

「……だが、それも父の代で破られた。最初の犠牲者が出たのだ。私の……六歳上の姉だ。私が生まれて間も無い時だったらしい。悲報を聞いた母は心痛の余り病に倒れ、軈て失意の内に他界した。……だから私には姉も、母の記憶も全く無い」

東宮と葵が、余りの内容に言葉を失った。二人共薫の母が早逝した事は知っていたが、薫に姉が居た事、そして過去の忌まわしい悲劇については初耳だった。

親友である薫の悲愴を慮り、両者共に口を閉ざしたまま黙然として、掛ける言葉を見付けられないでいた。薫が、ひとり深深と話を続ける。

「父はそれ迄の綾小路の慣例を破り、私にあらゆる武道を習わせた。自分の身を守れる様にと――。昨日、私と葵に向かって射られた矢は武者小路家の物だった。武者小路家は、私の姉や母の仇でもあるのだよ」

薫が長い睫毛をそっと伏せると、幼時を追憶した。少年の頃の自分と父の姿が鮮明に瞼に蘇る。父である友禅は薫の両肩に優しく手を置いて、こう言った。

『薫、強くなれ。優しさと強さを持つ、立派な人におなり』

父の思惑よりは路線が大幅にずれてしまったが……等と謙遜頻りに自嘲すると、薫がふと我に返り、その切れ長の美しい蒼氷の瞳をそっと開いた。

 薫の眼前で、葵が顔をくしゃくしゃにして、呦呦と嗚咽していた。

「ちっとも知らなかった。お姉さんの事も、お母さんの亡くなった事情も……。薫も友禅様も本当にお気の毒……。御愁傷様としか言えないけど……。何で、もっと早く話してくれないのさ……」

 涙と鼻水でずぶ濡れの顔に殊の外汪汪と溢れる涙を拭い切れず、悲痛を満々と湛えた葵の様子に、薫が思わず苦笑した。

「大丈夫か、葵? 悪かった。だが姉と母の事は、私にとっては生来よりの事。だから私は別段どうという事は無いのだよ。葵、お前が気に病む事など何も無いぞ」

 薫がやんわりと葵を慰める。葵の涙と鼻水を懐紙で優しく拭き取ると柔和に微笑んで、葵の大好物である甘いお菓子を勧めた。

事の顛末を聞いた東宮が、遣る瀬無い顔を向けると口を開いた。

「そうだったのか。嫌な事を思い出させたな……悪かった」

情け深い言葉にも拘らず、薫が驚いた様子で瞠目する。

東宮から自分を労わる言葉など、凡そ間違っても聞いた事が無かったからである。

薫が暫時唖然として東宮を凝視する。黙座したまま何事か物思いに耽る東宮を見て取り、ふっと瞳を和らげ満足気に微笑むと、無言のまま静淑にお茶を淹れ直した。


稍あって漸く葵が泣き止むと、薫が平静な口調で東宮に問い掛けた。

「ところで大津、お前を助けてくれた女人の名前だが、聞き違いではないのか? 楓という女性は、武者小路家にいないぞ?」

想定外の薫の指摘に吃驚すると、東宮が透かさず反論した。

「いや、絶対、楓と言っていた! 薫を知っているのかと問われて、実は俺も、薫に親父を殺されたから仇を討とうと考えていたと答えたら、きっと素晴らしいお父様でしたのね。私も先日、妹を綾小路に殺されたの……と言っていた。綾小路を恨んでいる武者小路家の楓という女人だ。同じ仇だからと互いの武運を願い、別れたのだ! 間違うものか!」

 言い終えるなりはっと気付いて、見る間に酷く顔を青変させる。

自縄自縛という痛恨の悔悟に俯き様、恐る恐る薫の気色を窺おうと視線を上げた瞬間、眉を顰め苦虫を噛み潰した様な薫の姿がちらりと垣間見えた。

刹那、背後の頭上から聞き馴れた声が凶と鳴り響く。

「この上無い御父上であるからな! 殺害されたら当然、俺も後を追って自刃せねばだな」

 威厳に満ちた激声だった。耳馴れたその声に、自業自得の東宮が、最悪の間合いだとばかり絶望すると頭上を振り仰ぎ、自暴自棄になるなり、あろうことか声の主に怒号した。

「……親父! 何で親父が此処に現れるんだ! 俺の屋敷だぞ! 然も厳重に人払いしてある筈だ! 相変わらずとんでもないな! 無視して入って来ただろう!」

「……何じゃと?」

 招かれざる客という自己都合の腹の中そのままに発せられた不遜極まりない東宮の暴言に、父帝の御気色が見る間に損なわれる。此度の一件を聞き及び、行幸がてら二条院を訪れ、辛辣な厭味程度で灸を据え、度量の広さを示すつもりでいた帝が、腹積もりをあっさり破棄するなりふんと鼻を鳴らし、蒼天を突如として戦慄させる雷神とおぼしき険相に豹変する。筋骨隆々とした体躯より瞬時に発せられた怒気は否応無く周囲を威圧し、強制的にその場を畏怖させた。

 チッ……益々、面倒なことになった。

舌打ちした東宮が、薫と葵を一瞥する。唐突な帝の臨御にも拘わらず、いつの間にか端然と礼譲していた薫が、いけしゃあしゃあと帝の背後に畏まり控えている。薫に続いて葵も拝礼の体勢を取り、畏まる。

次の瞬間、かっと瞠目した帝が東宮を睥睨するなり、雷鳴の如く激昂した。

「馬鹿者! 朕の前で、その反抗極めた無礼な態度はなんじゃ! 又もやお前が、好き勝手な奇行愚行を繰り返したと聞いて、もはや我が手で成敗するよりないわと思い、こうして来たと言うに! 恥じ入りもせず、朕に暴言を吐くとは何事か! この愚か者が!」

 轟轟と叱責するが早いか、猛烈な平手打ちが炸裂した。次いで、熾烈な拳骨の嵐が茫々と降り注ぐ。帝の拳は、一撃で猛牛を倒す程の拳圧があった。この展開を予期して身構えていた筈の東宮も、流石に数発は躱し切れず、まともに食らって思わず軽くのけ反った。

 ひと頻り強暴な制裁を加えると、青筋を立てた帝が鬱散したのか手を緩め、鼻息も荒く憤慨する。

「その上、朕を都合良く亡き者扱いとする虚言を吐くとは! 全く、万死に値する!」

「主上、恐れながら申し上げます」

尚も興奮覚め遣らぬ帝に、粛々と進み出た薫が平伏した。

「なんじゃ、薫」

手を止めた帝が恩容な顔で薫を見遣ると、その信頼に満ちた瞳を向ける。

凛とした薫が畏まると、帝に奏上した。

「今回、東宮様を御捜し申し上げるのに、いたずらに日を費やし……主上を始め関係諸氏には多大な御迷惑と並々ならぬ御心労を御掛け致しまして、大変申し訳ございませんでした。ひとえに、私の不徳の致す所でございます。又、東宮様の方便につきましては、私事で恐縮ですが、そもそも綾小路と武者小路の確執にひとかたならぬ御配慮をされた結果であり、全ての責任は、守役の臣たる私にあります。どの様な処罰も私が受けます。東宮様はこの三日の間、気を失い、臥せておいでだったとの事ですので、どうぞ、これ以上の御咎めはなさいません様にお願い申し上げます」

 東宮と薫は私的には親友同士である為、平素は互いに呼び捨てという忌憚無い会話をしているものの、当然の事ながら、公には大津大浪皇子を東宮として扱い、主従関係を弁えた態度に転じていた。

「違う! 行方不明も虚言も全て俺の独断だ! 薫も葵も関係無い!」

薫の奏上に、蒼然とした東宮が、真っ向から否定する。厳然として東宮を一瞥した帝が礼譲尽くして控える薫に慈愛に満ちた視線を注ぐと、その宸意を明らかにした。

「薫、そちが責任を感じる事は無い。東宮たる者、人の上に立つ者が、自己本位の放逸な行動を取る事は、断じて許されない。軽々しく言葉を使う事も然りじゃ。……これは、東宮として生きる者の定めなのだ。東宮とは、隠忍自重を肝に銘じ、先憂後楽を常とせねばならぬのじゃ」

声を大に、帝が厳格な態度で東宮を戒める。

「戯け者! お前の大失態で、薫を始め臣下の心労如何ばかりか……。良臣の労を思えば、帝としていっその事、お前の首を容赦無く落としたくなってくるわい!」

帝が、じろりと東宮を睨み付けた。

「……まあ、此度は無事で何よりだった。それにしてもお前は忠臣……いや、良き親友に恵まれたな! 薫といい葵といい……阿呆を極めたお前には、凡そ勿体無いわ!」

 帝が呵呵と大笑すると薫と葵の苦労を労い、良く休む様に命じると、では邪魔をしたとばかり、清涼殿に引き上げた。


 




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