序章
二〇二四年、ドイツで政変が起きた。極端なナショナリズムを唱える超国家主義派と、現政権を支持する軍人の一派が激しく対立し、ついには内紛へと発展。超国家主義者が政権を掌握し、それは欧州諸国を巻き込んだ大きな戦争へと発展していった。さらに太平洋側でもヨーロッパでの戦争を皮切りに米中が激突し、開戦。世界は第三次世界大戦の様相を呈していた。
米国と開戦した中国は対米防衛線として第一列島線の名の下に設定している、九州を起点とし、沖縄・台湾・フィリピン・ボルネオ島を結んだ戦力展開ラインの確保のため、日本の南西諸島地域の制海権を確保するべく、東海艦隊を増強した空母機動部隊と上陸部隊を乗せた揚陸部隊を東シナ海に展開し、南下させた。また同時に台湾には上陸作戦と空挺作戦を開始。一部地上部隊は日本軍の防御を破り、侵攻を進めつつあった。
一連の中国の行動は宣戦布告無く、奇襲的に実行された。国連安全保障理事会はもはや機能せず、大日本帝国は米中の狭間で、東アジアの同盟国と共に自由主義陣営の一員として中国に宣戦を布告した。
奇襲を受け、戦闘の主導を取られた日本は防戦を余儀なくされ、空母機動部隊を東シナ海に急行させ、沖縄侵攻を阻止すると共に南西地域の制海権を確保し、台湾に向けて増援部隊を展開させるルートを維持するべく、空母機動部隊を迎え撃つ構えだった。
西暦二〇二四年、皇紀二六八一年の十月。東シナ海に大規模な艦隊決戦が繰り広げられようとしていた。
東シナ海 日本海軍航空母艦《赤城》
皇紀2681年(西暦2021年)10月9日0948時
「皇国の興廃、この一戦にあり……か」
帝国海軍中尉の月島晴祥は、F-14J三九式艦上戦闘機のコックピット内で独り言ちた。
月島の乗るF-14J戦闘機は今、航空母艦《赤城》の飛行甲板に置いて発艦の時を待っていた。艦載機即時待機が発令され、戦闘配置状態でコックピットに乗り込んで待つ間に東シナ海の海は暗い雲に覆われ、海面は白く飛沫を上げてうねり、満載排水量十万トンの原子力空母も揺さぶられていた。
射出座席に収まった月島の肌は血の気が引いて白くなる一方、冷や汗によってすでに汗ばみ始めている。
『なんだ、緊張しているのか』
耳元に聞こえた背後の戦術航空士席に座る機長の麻木真琴大尉の冷たい不敵な口調の声に月島は思わず肩をびくりと震わせた。
機内通話装置は常にホットマイクになっている。意図せず上官に独り言を聞かせたことを恥じながらも月島は平静を装った。
「いいえ。ですが、まだ実感が湧かないですね」
『鈍い男だな、相変わらず。……まあ、浮き足立っているよりはマシか』
この辛辣な女性パイロットは、作戦参加資格を取得したばかりの月島が空母《赤城》の第二艦上航空隊に配属された当初からの専属的な教官であり、二人は上官と部下という関係よりも師弟関係に近いものがある。
『飛行甲板、こちら飛行甲板管制所。艦載機、発艦始め』
射出機に設置されていた二機のF-14Jが轟音を轟かせ、カタパルトより射出される。荒波に揺られる空母がその衝撃に震えた。
『クーガー12、射出位置へ』
「クーガー12、ラジャー」
返事をしながら月島は息を呑んだ。遂に自分も空に上がり、艦隊防空戦に加わることになる。これは月島にとっては初の実戦だった。
湾岸戦争以降、大日本帝国は政策的にも大規模な軍事作戦は避けており、ここ数年で国会が承認したPKOを除く軍事行動は、テロや内戦で不安定化した中東やアフリカなどで勢力を拡大し、独立を宣言したイスラム原理主義の過激派武装勢力を排除するため、イラク政府の要請の下で行われた空爆を中心とした作戦だけだ。
月島だけとは言わず、艦隊でも海軍でも、そして来援に駆け付けようとしている空軍の将兵も多くが初めての実戦だ。
月島の後席に就く麻木は謎多き女で、経歴などもまだ把握しきれていない所はあり、噂では中東での航空作戦に参加したことがあるようだが、戦闘機と戦闘機同士の空中戦の経験は流石に無いだろうと、月島は想像している。
しかしながら戦闘機パイロットにとって実戦とは、実弾を撃ち合うだけの世界ではなく、平素の対領空侵犯措置や警戒任務もまたすべて実戦であった。実弾を抱えた戦闘機同士がこの広い空で邂逅し、お互いがそれぞれの国を背負って飛ぶ。それは実戦以外の何物でもなく、それを経験してきた麻木達のような先輩はやはり実戦経験が豊富なのだ。
『ブレーキ』
訓練の時よりも落ち着いているのではないかと思ういつもの低い凄みのある声で麻木が呼びかける。
「リリース、OK」月島は麻木の呼び掛けを聞いて点検しながらチェックリストを履行する。
『ライトクリア、レフトクリア。ゴーアヘッド』
「ラジャー」
月島は機体の前に立った緑色の作業服を着た誘導員の誘導で、機体を射出機へとタキシングさせる。
エンジンが震え、自分の呼吸と麻木の呼吸が聞こえてくる。その間に馬と乗り手の鼓動が重なるように、マシンとパイロットは一体となる。月島の後席の教官は、機体を手足のように操れるよう、機体を理解し、信頼する、人馬一体という意識を常に心掛けるよう月島に指導していた。訓練の時よりも今ははっきりとその言葉の意味を実感できる。
艦載機を射出した電磁式射出機の後方に立ち上がっていた起立式防護板が再び折りたたまれ、次の機体を受け入れようとしていた。
『前へー、前へー、もうチョイ……良し!』
月島がブレーキを踏み込むと首脚のショックアブソーバーが僅かに沈み込んだ。機体が甲板要員の手に寄って直ちにカタパルトに接続される感触がコックピットにもわずかに伝わってくる。
『12、射出位置宜し』
赤色の作業服を着用した武器員の兵曹が兵装から取り外した安全装置の赤い帯のついたピンを掲げて見せる。栗色の作業服の列線員が発艦重量と発艦出力、搭載兵装を記入したホワイトボードを掲げた。
主兵装たるAIM-54E四一式長距離空対空誘導弾(改)が四基、それを補うAAM-4B五九式中距離空対空誘導弾二基、自衛用のAAM-5B六四式短距離空対空誘導弾二基、機関砲弾五百発、そして一千リットル増槽燃料タンク二本を搭載した状態だった。すでに発艦重量は管制塔に伝えられ、電磁式カタパルトの射出の出力もそれに合わせてある。
月島は二番射出機の位置についた僚機のパイロットからの準備よしの合図を確認して合図を返す。
『飛行甲板管制、こちらクーガー編隊。発艦準備完了』
流れるような流暢な声で麻木が無線に吹き込む。操縦席に月島は収まっていてもその手綱を握っているのは、後席でスキッパーを務める麻木だった。
『デッキコントロール、了解。指令。発艦後方位三一〇度、高度二万七千フィートまで上昇、最大出力。ソーサラー01と交信せよ、周波数インディア。復唱』
飛行甲板管制と麻木のやり取りを聞きながら月島は発艦後の任務を頭の中で思い描いていた。現在、日本海軍第二機動艦隊はこの空母《赤城》を旗艦として台湾と与那国島の間を抜けて黄海に向けて針路を取り、全速航行していた。
第二機動艦隊の針路上に位置する中国人民解放軍海軍東海艦隊は日本の南西諸島攻略を目的とした作戦行動を取っており、すでに一部戦端は開かれ、東シナ海を担任地域とする護衛艦隊隷下の第四護衛隊群が後退しつつ交戦していた。
護衛隊群は空母を持たず、巡洋艦他、駆逐艦やフリゲート艦など八隻前後で編成され、日本本土の各地に計五個隊群が編成されている。対して東海艦隊は空母を基幹とし、駆逐艦やフリゲート艦等で編成され、また各艦隊から増強を得て三十隻弱で編成され、さらにその後背には上陸作戦を敢行せんとする揚陸艦隊までいる。そして本土からも護衛機を含む爆撃機や攻撃機を飛ばし、艦隊を支援していた。
第四護衛隊群はもはや時間稼ぎに過ぎず、遅滞作戦を余儀なくされ、少なくない被害を受けつつあったが、その我が身を顧みない献身によって南シナ海で任務に当たっていた第二機動艦隊到着は間に合ったのだ。
『クーガー編隊、発艦後方位三一〇度、高度二万七千フィートまで最大推力で上昇、ソーサラー01と周波数インディアで交信する』
『クーガー編隊、復唱はその通り。艦首方位二七五度、速力二六ノット、相対風方位二七〇度から十ノット、縦揺れ三度。横揺れ三度。一番射出機および二番より発艦を許可』
「クーガー編隊、了解。発艦する」
『コックピット、フライトデッキ。ケーブルを取り外します』
「了解」
緑色の作業服を着た甲板要員が飛行甲板の列線員と交信するインターコムの有線ケーブルを取り外し、それを掲げ、月島は親指を立てて見せる。
発艦要員を統率する黄色い作業服を着た発艦士官の中尉が落ち着いた様子で機体の前に立ち、月島に自分を注目するよう合図した。
『アテンション・シューター』麻木が声をかける。
「了解」
中尉は機体の後方でジェットブラストディフレクターの防護板が起き上がったことを確認すると、指差し確認で機体周辺の安全を確認し、バイザーダウンのサインを送ってくる。
『バックチェック、クリア。オン・バイザー』
「了解、オン・バイザー」
ヘルメットのHMDバイザーは射出直前まで列線員とのアイコンタクトの為上げておかなければならないので、ここで初めてHMDバイザーを下げる。
その中尉が右手を差し上げ、二本指を立てた。エンジンを最大出力まで上げろ、という指示だ。
『パワー・BUSTRE、保持』
「バスター、ホールド、OK」
月島はエンジンの回転数を確認しながら左手に握るスロットルレバーをエンジンの最大回転数であるBUSTERゾーンまで押し込んだ。機体が小刻みに震え、機体が前進しようと前屈みになり、機首が沈み込む。
緑色の作業服を着た兵曹が駆け抜け、機首脚とカタパルトの牽引索が繋がっていることを最終チェックする。
機体の正面に立っていた中尉は飛行甲板の端へ移動した。
月島はMFDに表示した燃料流量計、エンジン回転計、排気温度計などをチェックした。どの確認項目にも問題はない。月島は深く呼吸した。
端へ移動した中尉が右手を高々と挙げ、次いで前方を指差し、前方注視のサインと共にその場に屈む。同時に射出信号灯が赤から青に変わる。
月島は喉を鳴らした。発艦の衝撃を覚悟して緊張を覚える。
『CAT1クリア、エジェクション』
中尉は膝を折って、腰を屈めながら二本の指で甲板に触れた。
首を前に乗り出すような格好をして月島は衝撃に備える。カタパルト、射出。その瞬間、プライドルに繋がれた月島の乗る三九式艦戦F-14J 928号機を《赤城》の電磁式射出機が打ち出す。
一気に三百キロ近い発艦速度まで加速させるときに生じる慣性が月島の身体を締め付けた。
飛行甲板を主脚が離れると機体が浮いた感覚が激しいGの中、伝わってくる。キャノピーフレームを掴んでいた右手を操縦桿に持ち替え、左手でギアを格納すると操縦桿を右に倒して機体を右旋回させる。
強烈な加速によるGが解かれ、もう視界にはいっぱいの空が広がり、それまでの喧騒は過ぎ去り、ただ自機の腸を震わすようなエンジン音だけが無線の他には聞こえてくるのみだ。月島は空中の人となった。