2. ジュリロミかい?
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
ーウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』よりー
かつての哲学者は、世界は事実の積み重ねであると考えた。
たとえば、僕が朝ご飯と食べた。というすでに起こった物事は、朝という事象とご飯というものが、僕を中心に消費されたことで、我が家に朝食という事態が成立したという「事実の積み重ね」だと。
正直、そんな事実なんてどうでもいいんだけれども、僕は自分自身に起こったことをうまく理解できずにぼんやりしていた。
遺族の娘さん(とは言っても初老にさしかかっている方)の簡単な話の後、我々は先ほどの受付横の建物に戻り、簡単な食事会と先生や他の研究者、素人研究者たちの講話や発表を行い解散となった。なお僕の昼飯という事態は、僕の体調により発生しなかった。
そして、今は、僕ら院生は先生につれられて、駅に向かっている途中である。そして、なぜか先輩の妹も一緒についてきた。先生が誘ったみたいだ。そりゃ、有名な天才学生が居れば誘うよなと僕も思った。
僕と彼女は先輩を真ん中にして、三人並んで歩いている。
「そういや、あんた、どうやって来たのさ」
先輩はゆっくり歩きながら、妹に聞いた。妹は姉を見上げた。
先輩はそんなに背が高い方ではないんだけれども、その妹はその肩口くらいまでしか背丈がなかった。僕からみると胸のあたりに頭が来る。
「タクシーで来た」
夕暮れが近くなってきているが、まだ日差しが強い。口元にあてたハンカチをつまむ指先が、青白く、なめらかに汗でひかる。
顔はぜんぜん汗をかいていないのに、腕から先はじっとりと濡れている。
化粧かなにかで防いでいるのだろうか? そんなものがあるのならほしいなと思った。
「うん、それは正解だね」僕は言った。
「ちょっとは歩いた方がいいいのよ」と先輩があきれた様につぶやいた。
「今、歩いているさ」ちょっとスキップするよう彼女は歩調を早めた。「んで、あなたはだれ?」と回り込む様に僕の前に来た。
わけもなく僕はまた、ドキリとする。
首を傾げて、珍しいものでもみるように僕の目をのぞき込む。
そして、その様子に先輩は目を見開く。
「君のお姉さんの後輩」僕は答える。
そう。と彼女はうなずく。「あたしのお姉ちゃんの後輩なのね」言葉に出して再度うなずいた。うなずくことで、自分の中に『今』を刷り込もうとしているかに映り、そして、首を振った。
「ねえ。これから、焼き肉なんて行かないで、僕と一緒にすこし歩かないか」
僕は半ば無意識で彼女に告げた。隣にいる先輩が息をのむ。三人が立ち止まる。
背の低い妹は真っ正面から僕を見上げる。艶やかな黒髪が風に揺れ、小さな耳が現れて、隠れる。首を傾ける。
「そう。不思議ね」一歩後ろに下がって、再度振り向く。「あたしも同じことを考えていたのよ。この気持ちをどうしたらいいか困っていたの。あなたと歩けば答えは見つかるかな」
彼女が言い終わるかどうかの時に、ぐっと隣の先輩が僕の背中をつかむ。僕はハタと気がついた様に先輩に向かって顔を向ける。その妹は様子をただ見つめる。姉がなんと言おうとしようとしているのか、すでに知っているかのように、興味なさげに。
そして、もう一歩後ろに下がる。
姉は僕の袖口をつかんで肩を下げさせて、耳元で言った。
「あんた、知ってんでしょ。この子のこと」
冷たい言葉だった。無機質で、事務的で、寒い冬に聞く留守番電話のメッセージの様に、ただ、僕の回答を聞くためだけに発せられた言葉だった。
僕は考える。そして目をつぶる。僕の癖だ。視界が閉じるとどこの場でも僕は一人になれる。だけどそれは一瞬だ。視界を開かせると、我々が遅いのか、先生たちはかなり前方に進んで小さくなっている。 セミが鳴いている。夕暮れ近くなって、ヒグラシも混ざっている。
僕はさらに考える。正しい答えなんてあるのだろうかと。
きっと、間違っている答えはあっても、正しい答えはなにのだろうと。
「ジュリエッタがうんと言ってくれたんならば、ロミオは一緒に行くんですよ。理由は後から考えます。今はとりあえず考えないことにします」僕はなにを言っているのか自分でもよくわからなかったけれども、思いついた言葉を伝えた。
姉は僕のスーツの袖から手を離した。
一張羅が少し伸びたみたいだ。
「ジュリロミね」腕を組んだ。「ふうん、まあいいわ、がんばってね」
最後の『がんばってね』は、妹の方に伝えてから、手をひらひらさせて、ずいぶん前の方に進んでいる先生たちの方へ早足に向かっていった。
僕たちは何となくそのままその場に立って、先輩を見送ると彼女は言った。
「さて。ジャマモノはいなくなったわよ。ロミオ。どうするの?」
僕は改めて彼女をみる。彼女は腰に手を当てて、身長差があるから、あごをあげている。
「お姉さんはジャマモノなんかじゃないさ。ジュリエッタ」
「知っているわよ。ロミオ。あたし、天才なのよ」
彼女はロミオとジュリエットが気に入ったのか、口の中でなんどもロミオと反芻してにやにや笑っている。「天才って、知ってる? 家族の愛情くらいは感じ取れるくらいはできるのよ」
口端をあげて髪をかきあげた。
「知ってるよ」
「ああそう」残念そうにつま先を蹴り上げるポーズをとる。
「多分、君が思っている以上に、君のことを僕は知っている」
「ああそう。つまらないわね」言葉とは裏腹に機嫌よく彼女は話す。
「さて。どこに行こうか?」
「あなたが連れて行ってくれるところならどこでもいいよ」
「ホテルでも?」
「そう。ホテルでも」彼女は考える。「だけど、ホテルに連れていくんならば、お姫様だっこはしてほしいわね」
「なるほどね。君は軽そうだから、貧弱な僕でもできるかもね」
「ロミオは貧弱なのね?」
「うん。ロミオは貧弱なんだ」
「あたしと一緒ね」
僕たちは駅とは反対方向に歩き出すことにした。
迷ったら、タクシーにのればいいのだ。
「ちなみに、僕は、このあたりは詳しくないんだ。自分で言っておいて残念だけど、ホテルの場所が分からないから行けないや。ごめんね」
彼女は笑った。
「いいよ。許す。ジュリエッタはロミオを許すよ」
「ありがとうジュリエッタ」
「どういたしまして。ロミオ」
僕たちは幹線道路沿いをゆっくりと歩く。
セミの鳴き声は止んで代わりに、往来する車が走る。
僕が右側で彼女が左側につく。
「ねえ。あたし、どきどきしているのよ。分かる?」
少し頬が赤い。
「うん。僕もどきどきしているんだ。分かるかい?」
「いーえ。ぜんぜん。あなた、無表情だもの」
「ああ。よく言われる。自分ではよくわからないんだけれどもね」
長い夕暮れが終わりを告げて、少しずつ闇がおりてくる。
一歩一歩彼女と歩調をあわせる。
歩調をあわせながら、呼吸をあわせる。彼女と少しでも一緒になれるように。彼女の仕草を見て、彼女と同じ動きをして、彼女の情報を自分の身体に刻み込んでいく。
「お姉ちゃんは学校ではいい人?」
「とても良くしてくれているよ」
「あなた、お姉ちゃんに信頼されているわね」
彼女は髪をかきあげながら言った。
「そうでもないと思うけど」僕は肩をすくめた。
「家じゃいつも不機嫌なんだ」
「ふうん」
「あたしがいるからかもね」
「ふうん」
「あたし、お姉ちゃん好きなのよ。本当よ」
僕はもう少しだけ歩調をゆるめる。彼女もそれに続いて、もっともっとゆっくりとあるく。歩き始めの赤ん坊のように、かみしめるように。僕は手をぎゅっと握る。彼女の思いもその姉のやるせなさも、すべて握りつぶしてやろうと、僕は力を込める。
彼女はのびをして、僕の顔をのぞき込む。
「ねえ。それ、痛いでしょ?」彼女は僕の握りこぶしを指差す。
「手をつないでいい?」
「いいよ」僕はゆっくりと手を開きそれを差し出す。僕の指の間に彼女の指が滑り込まれる。
自分の呼吸が浅くなるのが分かる。
彼女がぶんぶんと腕を振る。絡まれた指は離れない。
そして、ゆっくりと歩調に合わせて前後に揺らす。
彼女の親指が僕の手の平を時々くすぐる。僕は彼女の指を少しだけ強く握る。
道を挟んだ反対側に川が見えた。
奥の方は街頭に照らされて、手前は車のヘッドライトに照らされて、水面がきらきらと輝いて見える。僕たちは手をつないだまま、道路を横切る。息が弾む。視界に川面が広がる。その先にうっすらと月が姿を出している。半分、泣いているかのように、彼女はじっとそれを眺める。僕も眺める。指先は温かい。
「あたし、今を忘れたくない」
彼女がつぶやいた。
川の流れより静かな声だった。
僕は目をつぶる。彼女の声を反芻する。できの悪い牛みたいに、何度も何度も繰り返す。僕は目を開けて、握った指先に力をこめる。
「僕が思い出させるさ」
出来もしないことだった。
「ありがとう。ロミオ」
手を強く、強く握る。
出来もしないことは、彼女自身が一番良く知っている。