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不定期の更新ですが、再び訪れてくれた方を楽しませることが出来ればと考えています。出来れば、早めに更新をしたいのですが、いささか忙しい時期でもありますので、気長にまっていただけると幸いです。
断ることの出来なかった理由は一つではなかった。忘れ物を届けてくれたことに対して、感謝の念を抱いていたのも、その理由の一つだった。けれど、断ることの出来なかった主な理由がそれであるかと訊ねられたならば、そうでないと、私は首を横に振ったはずだった。
私は彼女のすぐ後ろをついていった。彼女はたびたび振り返って私を見ては微笑んだ。ついて来ているわね、そう言いたげだった。私の投げやりな態度を見透かしたような笑顔だった。彼女の太股はまっすぐ伸びている。スーツのスカートから伸びる足。ヒールの少し高くなった靴。細くまっすぐな太股。私よりも一回りも大きく見えたが、それは私が華奢だからで、彼女のやせた体はひどく魅力的だった。歳はいくつだろうか。薄く化粧をしているせいか、スーツを着ているせいか、若かく見えるのは確かだったが私にいまだに残る幼さは、彼女には少しも残っていなかった。笑顔にあどけなさなどなかった。生きることで固まった、彼女が持つ、パーソナルな笑顔だった。それは指紋のようなものだった。
エレベーターに乗り、九階の展望フロアのレストランに入った。休憩室にはさきほどまでタバコを吹かしていた男が、まだそこにいた。時間経過は遅い。
彼女はレストランに入り奥へと進んだ。全体がガラス張りになった、そのレストランで一番明るく、そして、店内の人間からもっとも見にくい。そこは人から見たら空であり、人から見たら死角だった。そんな席に彼女は腰をおろし、続いて私も向かいあう席に座った。
「さて。」
彼女は口を開いた。彼女はコーヒーとチキンサンドを頼んだ。私はラザニアを頼んだ。アルコールが飲みたい気分だった。けれど、我慢してコーヒーにした。コーヒーとラザニア。破壊的な気持ちのときは、アルコールが恋しくなる。それは決められたことだ。
「お願いがあると言ったわけだけど、別に、そんな難しい話じゃないの。」 彼女は何度か頷いて、続けた。 「とても自分勝手なことだけど、先週、講義を休んでしまったの。どうしようも無いことだったのよ。どうしても外すことない用事とか、仕事とか、そういうものって、誰でもあるもの。」
私は相槌を打った。
「その眼鏡、素敵ね。とてもスタイリッシュ。いささか冷たく見えるけれど、とても素敵よ。生残性が高くなりそうね。」
「生残性?」
「そう、生残性。生き残る確率。何に対してかしら? 色々あるから分からないけれど。」可笑しそうに彼女は笑って言った。「でも生き残るってことは、大事じゃない? いつだって。」
そうだ、とも、そうではない、とも言えなかった。
「だから、そのお願いというのは、私が休んだ分の講義のノートとプリントを見せてくれないかしら、ということなの。駄目?」
ああ、そういうことか。私はそう思った。構わない。そのくらいのことなら、礼としてふさわしいことだと思った。
「いいです。」
「本当に?」
私は小さく頷く。
「簡単なことだから、別にこちらとしてもかまいません。ただ・・。」
「ただ?」
「私にも必要なものですから、必ず、返してくれることを約束してください。」
「もちろん、そうするわ。それにお礼もします。」
彼女は、可笑しそうにくすくすと笑った。冗談を言ったわけではない。
「お礼は結構です。これは私があなたに払うべき礼です。ですから・・」
「違うわ。」 彼女は私の言葉を遮った。 「私のしたことはあなたに近付きたかいから、そうしなければ、食事も出来ないし、こうやって私と、私にあなたは眼を合わせてもくれなかったわ。そういうことよ。まだ食事はしていないから、これからあなたが怒ってどこかに行ってしまったら、私の思惑というのはどこかに行ってしまう。それは困ったことね。」
そう言われて、彼女の視線から逃げた。よく理解できない。
「他意はないわ。ただそれだけのこと。私はあなたと仲良くしたかったのね。とても、だから、あなたのことをいつもチラチラと見ていたわ。講義のときも、時折、見かけても。もちろん、この図書館でも。」
「思春期の女の子みたいに?」
いいえ、と彼女は首を振った。「どちらかと言えば、男の子ね。」真顔で言った。私は冗談だと思った。私の表情を見てとったのか、彼女は悪戯っぽく笑った。その時だけ、表情に幼さが映った。私と同じような、成長のしない、表情だった。
彼女はバックからタバコを取り出して、一本私に見せた。私は首を横に振った。
「なんでかしら。タバコはとっくにやめたのに、でもね、どうしてか鞄の中には必ず一つだけ入っているの。タバコとライターね。必ず、なのよ。」
「どうして止めたんですか?」
「それはそういうものが、どうしようもなく止められないことを知っている人の言う言葉ね。」
私は何も言わなかった。
「そうね、どうしてかしら。例えばだけどね、一日が終わって家へついて、化粧を落として、色んな密度の高いものを机の上に置いた後に、たばこに火をつけて、ラジオをつけて、ソファーに体を預けるとするわ。たばこを吸うということはとても良いことよ。もちろん、体に悪いことだし、それは化学的に考えれば受動的なことだから、マイナスな面が多いかも知れない。でもね、人を元来動物と考えるか、人を人間と考えるか、という二つの前提の違いは、色んな物に変化を与えるの。それはわかる?」
私は頷く。
「見解の違い、というやつね。言葉は分かっていたって、理解していない人は多いけど。」くすりと彼女は笑い、ひじをテーブルにつく。髪が顔にかかり、手でそれを払う。「ラジオは音を鳴らすわ。音楽。私は音楽だけを流して欲しい。DJなんていらないのよ。げっぷも、おならもしないDJなんて、いらないわ。音楽なら何でも良い。民謡でもロックでもジャズでも、クラシックでもね。それはテレビも一緒。新聞はいいのよ、文字は、げっぷも、おならもしないわ。私はいつか文字が、げっぷも、おならもしないことを世界に教えてあげるのよ。萩原朔太郎みたいになるわ。」
「時には、げっぷだって、おならだって、するよ。」
「そうね、時にはするわね。うん、それはいいの。私の言葉には穴もあるわ。私は元来人間と考えることが大切だと思っていたの。やすっぽいかしら?」
首を横に振る。
「ありがとう。だからね、ソファーに座ってラジオを聴いて、たばこを吸うのは、とても心地良かったの。ねえ、それって、その一言で説明できるのよ。私が人間だからそう思うのよね。私が私という存在の前提を人間だということにしたことが大きなことだったのよ。」
そこでウェイターがやってきて、話は中断した。それぞれ運ばれてきた料理に手をつけた。私はフォークでラザニアの層を崩して食べた。彼女も同じようにチキンサンドを崩して食べた。何だか可笑しい気分になった。崩されたチキンサンドは、チキンサンドではないのだから。
「これは例え話だから、なんでもいいのよ。それがたばこじゃなくて、ウィスキーだっていいんだし、ラジオじゃなくて、竹売りでもいいのよ。」
チキンとレタスが離れて、彼女はチキンの下にあったレタスをすくい上げるように口に運んだ。
「でもね、それも、対流圏みたいなもので、対流するものなのよ。縦方向にも横方向にも、ぐるぐる、ぐるぐる、とね。温度も高度も違うものなの。だんだんと、知識を身につけていくうちに、それが無償に腹立たしくなるのね。化学的に受動的なことも。何かをコントロールしたくなって、受動的になる、ってこと自体に興味がなくなるのよ。支配的な気持ちと言ってもいいわ。ファシストよ。そりゃあ、生来のファシストじゃないってことは確かだけどね、産まれてからずっとファシストなんていないのよ。お母さんに抱かれるし、お父さんには声を掛けてもらうんだから。そんなことを考えている自分に気付いてから、何だか、ぐちゃぐちゃになっていく気がしたのね。自分の中が。ラジオも聴かなくなったし、ソファーもその日に処分したし、たばこもそれ以来吸えなくなってしまったの。化学的な欲求も無かったわ。何て言ったって、私はファシストになってしまったんだから。」
「あなたは今もファシストなの?」
私は訊ねてみた。彼女は少し考えるしぐさを見せた。それからためらわずに答えた。
「そうよ。」
「成層圏にいるみたいに?」
「そうよ。」
作品をアップし始めて一週間がもうすぐ経ちますが、予想以上の人に読んでもらっているようで、とても感謝しています。見難い箇所がありましたら、文句を書きなぐって、お送りください。
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