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カーテンからは、光のスペクトルが差し込んでいた。(そう。これもカテゴリーされたもの。けれど、今の私は気付くことが出来なかったのは必然だった。)観音開きに少しばかり間を開けて、部屋の内部を照らすわけでもなく、ただ光の太い筋がベッドに横たわり、目を開いたばかりの私の頭を掠めている。温かみも感じないような光で、そして、なんの感慨も浮かばなかった。
長くなった髪の毛が、眼や耳にかかり、鬱陶しい。
大学に入ってから、それまで小さな男の子がするような短い髪が、知らず知らずのうちに、肩に少しかかるまで伸びていた。無節操な生活のせいか、リズムの定まらない生活のせいか、子供のころは、少しでも髪が長ければ、自分で髪を切っていたの。今の姿を見ると嫌になった。鏡を見て、ザクザクと切ってしまえば、と思うけれど、その気にはならなかった。その気にならなかった理由の一つは、どこが悪くて、どこが良いのか判断するのが難しかったからなのかも知れない。
シャワーを浴びて、適当な野菜と、残ったイワシの缶詰でサンドウィッチを作った。料理は嫌いではなかったが、好きでも無かった。食べられるものがあれば、どんなときでも食べることは出来た。不安定なリズムと、不協和音が響きわたる私の中では、いつ食べ物にありつけるかわからなかった。だから、私はすることが出来るときに、それをしようとした。それは私の精神がするのではなく、いわば、体がすることだった。
まだ乾いてはいない髪から、水の滴がテーブルに落ちる。タオルはまるで水の中にいるみたいに濡れていた。タオルと髪。
髪が乾かないうちに、服を着た。白いシャツ。タイトなズボン。その上から、カーキよりも薄い色の、ずっしりと重く、ポケットのいっぱいあるジャケットを羽織った。
スニーカーを履き、空みたいに青いサングラスをした。そして、そこにある鏡で自分の姿を見た。男の子みたいな格好だと思った。いささか、背が小さ過ぎた。子供のように華奢だった。肩幅が狭い。腕も足も細い。私は嫌な気持ちになった。そこに置かれた鏡が何故そこにあるのかが、分からなかった。それはたぶん、置いたというよりも置かれていたものだと思った。私はそれ以上には、一生なれないのだ。何が変わろうと。そう、それ以上には。
講義には真面目に出席をした。一年で三〇〇近くの講義を受けた。しかし、いくつかの講義の単位を落とした。単位を取得したものも、概ねが可だった。成績は平凡というよりも、悪い方だった。単位を落とすことに、規則性は無かった。講義を受けることで好奇心や興味というものが摩耗した。マグネシウムみたいに、一瞬で燃え消えることもあった。そういうときには本を読んだ。多くの本を読んだ。たくさんの本を次から次へと読んだせいか、残るものは少なかった。けれど、私は同じものを二度読むことが出来なかった。くだらなかったものも、素晴らしかったものも、どちらも同じだった。私は読んだものを捨て、新たなものも、得る前から捨てているようなものだった。
講義が終わると、しばしば町を歩いた。無駄のない町だった。人は少なかった。歩いている人間を見るよりも、遥かに、走る車の数のほうが多かった。私は車のエンブレムをサングラスの下の眼で追い掛ける。トヨタ、ホンダ、BMW、スズキ、フォルクスワーゲン、フィアット。
喫茶店に入り、コーヒーを飲むことがあれば、客のいない、まだクリーンな空気のバーでビールを飲むこともあった。アルコールはビールとワイン以外は飲まなかった。「なにビール」であろうと、「なにワイン」であろうと良かった。
しかし、どこにも長居をすることはなかった。
その街に一件だけ古いジャズを流す、喫茶店があった。古いタイプの喫茶店だ。本の中や映画の中でしか見たことのないようなジャズ喫茶だった。内層はきれいだった。たばこの脂で黄色く変色した灰皿すら無かった。壁にはレコード盤が飾られていた。店長は不在のことが多かった。店長の知り合いの女性や知り合いの男性がいつも店番をしていた。経営の基盤が、夜だったからかも知れない。しかし、私は暗くなった街にいようとは思わなかった。カウンターにはウィスキーやその他多くの色彩を富んだビンが置かれていた。見るだけで酔ってしまいそうな色だった。透過しようとした光は必ず散乱し、屈折した。そして、誰が作ろうとそこで出されるコーヒーは不味く、高かった。匂いばかりがして、コーヒーの味がしなかった。焦げていないだけましだったかも知れない。
店の隅にはジュークボックスが置かれていて、そこにはジャズ以外の曲も多く入っていた。私は木製の硬貨投入口に硬貨を入れ、ビートルズの「アイ・ウィル」を聴いた。その後、私のために店長が「オール・ザ・シング・ユゥ・アー」を流してくれた。その二曲がそこで聴いた、名前の覚えている曲だった。それ以外に、きっと多くの曲を聴いたのだと思うけれど、私には記憶がなかった。ビートルズの「アイ・ウィル」は普段から聴き覚えがあった。「オール・ザ・シング・ユゥ・アー」は、その時初めて私はそこで訪れたその日に聴いた。つまり、それは曲を覚えているのではなく、その状況を覚えているだけで、曲自体に主体性が無かった。それは仕方のないことだった。
子供のころは、クラシックをよく聴いた。両親の影響だったのか、私の周辺の影響だったかは分からない。けれど、大きな手造りのスピーカーと、レコード機。それに大きなカセットコンポがあり、そこからは絶えることの無い音色がなり続いていた。スピーカーの音色は温かく、たびたび入るノイズを別にすればいいスピーカーだった。音質は良いとは言えなかったのかもしれないが、そこから気に入った曲が流れるだけで、私は上機嫌だった。私の好きだった曲はショパンの「ピアノ協奏曲第一番ホ短調、アレグロ・マエストーソ」。レコードを摩耗させ、カセットは擦り切れるまで聴いた。本を読むときも、眠るときもそれを流した。ソファーに身を預けながら、天井をじっと見詰めた。しかし、デジタル音源になってからは、私はそれを聴こうとはしなかった。あえてではなく、またそれは必然だったのかも知れないけれど、やはり、レコードもカセットモコンパクトディスクも、それぞれ別のものだった。
講義に出席した。時間は規定時間通り潰れた。
講義と講義の間を図書館で過ごした。大学の図書館ではなく、市立の図書館だった。何冊かの本を手に取り、それをぱらぱらと読んだ。
平日の図書館は空いていた。静かだった。泣く子供もいなかった。子供がどうして泣かなくてはいけないのかは理解していたが、その理解を超えて、私は子供という存在が分からなかった。親という者も分からなかった。子を作れば分かるという人もいたが、そういうことではなかった。それを説明するのも億劫で煩わしかった。そう言われることよりも、そういう顔で、眼で見られるのが腹立たしかった。物は人によってその存在そのものが変化する。
何も煩わされることがなかったので、気分は良かった。一冊の本をしばらく読んで、次の本を読んだ。夢のある話。魅力的な話。退廃的なドキュメント。内容を理解することよりも、活字に触れることが好きだった。少し本を読むことでも、十分楽しむことが出来た。
それらの本を本棚に戻し、何冊かの本を再び手に取った。それを利用しているブースに置いて、席を離れた。
九階建ての立派な図書館だった。一から三階までが図書館であり、三から五階までは書庫だった。九階にレストランと休憩室があった。残りの階層には何があるか分からなかった。そもそもエレベーターにはその間の階に行く選択肢がなかった。
室内にいるときはいつもサングラスを外した。目立つのは嫌いだった。そのぐらいは分かっていた。外にいるときは、目立つよりも嫌なことがあった。だから、サングラスをした。理由はそれぐらいしかなかった。サングラスをしていないときは、鼻に乗る程度の眼鏡を掛けた。シルバーで本当に小さかった。私の手は小さすぎる程だったが、その手に乗った眼鏡もそれに及ばず小さかった。
何かを掛けていれば、安心するということは少なからずあった。シルバーの眼鏡。空みたいにブルーなサングラス。
九階の休憩室に行き、コーヒーを飲んだ。タバコを吸っているスーツの男が一人。それ以外は私しかいなかった。自販機でコーヒーを購入する。簡素な紙コップに注がれる。これもまた、コーヒーの匂いしかしなかった。けれど、あのジャズを流す喫茶店のコーヒーよりはマシだった。
温かいコーヒーを両手で持ち、九階という高さから見える景色を眺めた。眼鏡はコーヒーを飲むたびに曇ったが、すぐにクリアになる。高台のそこだったが、あまり多くを眺めることのできる場所ではなかった。街自体が緩やかな坂になっており、図書館がある高台から、中心に、放射状に緩やかな坂を作っていた。高台とは言えないのかも知れない。高階層を持ったビルが多くあるせいか、起伏というものをあまり見てとることは出来なかった。しかし、確かにそこだけを中心に小高くなっていた。そこを中心として街が発展したのも必然なのかも知れない。高台は守りやすい。だから、歴史的にもそこが中心であったことが分かったし、事実そうであった。ビルの隙間に、古い建物がまだ残っていたし、武家屋敷街も残っていた。白い壁が綺麗に並んでいた。しかし、ほとんどがレプリカであり、その壁の向こう側は、見てとるのも恥ずかしいぐらい、汚れていた。さまざまなもので。
しばらく、そこで時間を潰してから、私は元の席に戻ることにした。コーヒーでまだ舌が痺れている気がしたが、気分はすっきりしていた。
席に戻る道すがら、また何冊かの本を手に取った。ずっしりと重い本を両手で抱えるように持った。力が弱い。少しやせすぎなのかも知れないと思った。
席に戻ると、私の席に女が座っていた。ぴったりとしたスーツ。今の私とおなじくらいか、それよりもいくらばかりか長い髪。ヒールが少し高くなった靴。座っているせいか、背中しか見えないせいか、印象というものはぼやけていた。
私は本を持ったまま、話しかけた。彼女ははっと振り向いて言う。私の顔をじっくり見てから、
「これ、あなたの?」と言った。
私は彼女の手に持たれたブルーのサングラスを見る。私は自分の目尻に手を触れて、シルバーの眼鏡の存在を確認する。
「そうです。」
「良かった。忘れ物。」
それを差し出す彼女の手を見て、私は舌打ちをする。
「いけないことだった?」
心配そうに見上げている彼女は、本当に心配しているようにみえた。私はため息をつきたい気分を堪えて、かぶりを振った。少しばかり、必死だったかも知れない。
「いいえ、ありがとう。」微笑んで私は言った。彼女も微笑んで、私に答えた。
「良かったわ。講義が終わって、忘れ物に気付いてからすぐに追いかけたんだけど、あなたの歩くのが早くて、見失ってしまったのよ。」苦笑しながら言う。「見失ってしまったからいつものように、ああ、私のいつも、だけど。いつものように図書館へ行くことにしたら、あなたがいたの。とてもついていると思ったわ。色々、お願いしたいこともあったの。」
私は頷く。
「けれど、どうしてかしら。私は話しかけられなかったのよ。だから、すぐ横の、あなたのことを見ることの出来る席に座っていたの。あなたを見ていたの。失礼なことだということは分かっています。ごめんなさい。とにかく、良かったわ。今日返すことが出来て。これが無いと、あなたは困る気がしたの。」
「ええ、とても困ります。」
私は素直に頷いて、そう言った。彼女は笑った。そういうと、遅すぎるけれど、はっと気付いたように、さっきまでの声とは比べることの出来ないくらい小声で顔を私に近付けて誘った。果物のようないい匂いがした。
「上で食事をしないかしら? お腹がぺこぺこなのよ。」
やれやれ、そう私は思ったけれど、断ることが出来なかった。




