プロローグ
「撮影は以上です! お疲れさまでした!」
初めて訪れたこの街でのドラマ撮影は、思っていたよりずっと慌ただしくて、気を抜く暇もなかった。
本当なら、今頃は車で事務所に戻っている時間。でも、人混みの中でマネージャーとはぐれてしまった。
駅前の通りは人で溢れていて、信号が変わるたびに、人々が濁流のように交差点を行き交う。
その中を、羽宮陽菜は帽子を深くかぶったまま、足早に歩いていた。
スマホを取り出そうとして、やめる。
もし、一度でも顔を上げ、誰かに顔を見られてしまい、私が羽宮陽菜だと気づかれたらどうしよう。
そんなことが頭によぎるたび、呼吸が浅くなる。
——大丈夫。
すぐに合流できる。
それに、きっとバレっこない。帽子もマスクもしてる。
そう自分に言い聞かせて呼吸を整える。
なるべく人目のつかない所に行こう。私は人通りの少ない所へ足を向けた。
しばらくして、この判断に後悔することになる。
「あれ、もしかしてさっき撮影してた羽宮陽菜じゃね?」
背後から聞こえた声にびくりと肩が震える。そして心臓がぎゅっと締め付けられる。
「うわ、マジじゃん!」
「え、すげぇ!本物?」
ここから早く逃げなきゃ。でも、体がうまく動かない。
男たちは面白がるように笑いながら、私に近づいてきている。
「こんなところで一人?」
「写真撮っちゃおっと」
「てか、握手してよ」
次々と、軽い口調で。スマホのカメラをこちらへ向けられる。
邪な視線が、肌にまとわりついて離れない。
逃げ道はない。
喉が張り付いて、声が出ない。
何も考えられない。
きっと、普段ならもっと上手く”羽宮陽菜”としてやり過ごせる。
でも、今は無理だ。怖い。ただただ、怖い。
諦めかけたその時だった。
「——嫌がってるだろ」
その声は、低く落ち着いていた。
「あ? なんだお前」
睨まれても、その男の子は怯んだ様子を全く見せない。でもきっと、喧嘩慣れしているわけではない。
黒髪で落ち着いた雰囲気の男の子。
背が高いわけでも、体格が良いわけでもなかった。
なのに、不思議と安心感があった。
「嫌がってるんだ、やめた方がいい」
「カッコつけてんじゃねぇ! 失せろ!」
「……そっちがその気なら、僕もこの絡んでる様子、撮って拡散するけど?」
淡々とした口調。
感情的に怒鳴るわけでもない。
「……ちっ。だるっ、シラけたわ。行こうぜ」
三人の背中が遠ざかり、角の向こうへ消えた。
しばらく動けないままだった私に、男の子が口を開いた。
「……暗くなる前に帰った方がいい。この辺、治安がいいとはあまり言えない」
ようやく、張り詰めていた息を吐き出す。
「……あ、あの……ありがとうございました」
そう言うと、男の子は少しだけ困ったように目を逸らした。
「別に」
ぶっきらぼうな返事だった。
でも、彼も張り詰めていた緊張がほどけたように見えた。
「それじゃ、帰らないとだから」
それから何も言わず、男の子は歩き出した。
ただそれだけ。まるで、これ以上は深く関わるつもりがないかのようだった。
「あ、あの、名前を——」
けれど、声は雑踏の音に紛れて届かなかった。
去っていく背中を追いかけたその時、制服の胸元に刺繍された校章が目に入った。
——蒼ヶ峰。
「ちゃんと、お礼言いたかったな」
程なくして、やっとマネージャーから電話が入った。
震える指で通話ボタンを押した瞬間、張っていた糸が切れたみたいに、膝から力が抜けそうになった。
名前は知らない。
顔も、はっきりとは見えなかった。
それでも、夕焼けの中で聞いたあの落ち着いた声だけは、不思議なくらい耳に残っていた。
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