第59話:食事の意味
篝火が灯る広間には騎士たちの笑い声と温かな料理の香りが満ちていた。
今宵は、戦で疲弊した騎士団をねぎらう非公式の慰労晩餐会。
格式張った場ではなく、あくまで心と体を休めるための集まりだった。
そんな場に、厨房から料理を運び出す男の姿があった。
――レオン。
アッシュという偽名を用いながらも、彼はこの日ただ一人で厨房を任されていた。
(まさか、あんな大人数分をひとりで……)
厨房を見た侍従の誰もが驚いたが、レオンは黙々と仕込みを終え着実に一品ずつ料理を仕上げていく。
「……さて」
ふと顔を上げたその視線の先に、見慣れた人物の姿があった。
それはかつての仲間であった王女ティアナ。
「……嘘、だろ」
レオンは思わず息を詰めた。
騎士団の中心に座るレイナ。そのすぐ隣に誰よりも遠い存在であるはずの王女がいた。
(なぜ彼女がここに? こんな場に現れるとは……)
いや、違う。
彼女は自分の意思で来たのだ。
その表情はどこか迷いを孕んではいたが、決して誰かに強制されたものではない。
レイナが何かを語ったのだろうか。
レオンの胸に、微かな希望と……迷いが生まれる。
(ティアナ……お前も、もしかして……)
スキルによる支配から、解き放たれる兆しがあるのなら。
この料理を出せば、ティアナもスキルから解除される可能性がある。
だが、それは同時に危険でもあった。
(……彼女は仲間たちの中でも特に僕に辛辣だった。スキルが解除されてもどんな行動に出るか予測ができない。最悪の場合、ロイドに気づかれる可能性がある)
自分の料理がロイドの〈支配のスキル〉を打ち破るという事実。
それを知られることは、すなわち自分の命が狙われるということ。
レオンは一瞬、躊躇した。
料理人としての責任と、戦略的な選択が頭をよぎる。
だが、目の前にいるティアナの表情、
迷いながらも何かを求めている瞳が、すべての思考を押し流した。
(違う。ここで俺が逃げたら、何も変わらない)
彼女が自分の足でここに来たのなら応えなければならない。
レオンは静かに鍋の火を強め、手にした食材を取り直した。
作るのは、
心の霧を晴らす《解呪のスープ》。
魂に宿る温度を取り戻す《氣のグラタン》。
そして、忘れられた自我に火を灯す《再誕の香草焼き》。
「……お前の鎖も、きっと切れるはずだ。俺の料理で」
その夜、運命の晩餐が、静かに始まった。
香りが、風にのって届いた。
深くて、やさしくて、それでいてどこか懐かしい――
そんな匂いが、晩餐の間にゆっくりと広がってゆく。
「……これは?」
ティアナが声を漏らすと、給仕の手によって一皿ずつ料理が運ばれてきた。
彼女の前に置かれたのは、白く澄んだスープ。
淡い金の光をたたえるその器は、まるで宝石を包むような輝きを放っていた。
続いて、香草をまぶして焼かれた肉料理と、グラタンのような見た目の皿が添えられる。
「ずいぶん……手の込んだ料理ね」
ティアナが呟くと、隣のレイナがふっと微笑んだ。
「これが、アッシュの料理です。見た目だけじゃありません……食べればきっと、何かが変わる」
その言葉に、ティアナはそっとレイナを見つめた。
「……やっぱり、あの人だったのね。あなたが言っていた料理人」
レイナはゆっくりと頷く。
「ええ。あの夜、私の中にあった霧が、ひと匙で揺らぎました。
だから、信じてるんです。あなたにも、何かが届くはずだって」
ティアナは視線を落とし、目の前のスープにそっと手を添えた。
器の縁から伝わる温もりに、心がわずかにほどけていくような錯覚を覚える。
「私、今まで……食べるということに、こんなにも意識を向けたことなんてなかった」
「王族であるあなたなら、当然です。食事も作法も誰かが決めた形の中で済ませるものだったはず」
「……それが、当たり前だと思ってた」
ティアナはスプーンを取り、そっとスープをすくった。
すん、と香草の香りが鼻をくすぐり、氣の流れを感じさせる微かな刺激が舌に届く。
一口、口に含む。
――その瞬間。
静かな波が、心の底で広がった。
あたたかさが、胸の奥に触れる。
甘さでも塩味でもない、懐かしい感情の味がした。
「……なに、これ……」
ティアナが思わず漏らしたその声は、震えていた。
隣で見守っていたレイナが、そっと手を添える。
「思い出そうとしてるのかもしれません。
あなたが、自分で考え選ぶことを……忘れていたあの頃を」
ティアナの目に、うっすらと光がにじむ。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
「……おいしいわ」
一言。
それだけで、十分だった。
ティアナの頬には、初めて見る柔らかな笑みが浮かぶ。
レイナもまた、微笑んで応じた。
「気に入ってもらえて良かったですティアナ」
その背後で――
給仕の振りをしながら様子をうかがっていたレオンは、
スープを飲んだティアナの表情を見て、静かに目を伏せる。
(……届いたな)
まだ完全ではない。
だが、確かにその鎖は揺らぎを始めていた。
そしてこの時――
誰も気づかぬまま、王城の奥。
ロイドの意識に、わずかな違和感が走り始めていた。




