第54話:忌まわしい記憶
温かな湯気と共に、香ばしい香りが食堂に満ちていく。
レオンは一切の言葉を交えず、静かに一皿をエミリアの前へと差し出した。
「……心を調律させる一皿です。どうぞお召し上がり下さい」
エミリアは黙ってうなずいた。
一口、口に運ぶ。
ふわりとした食感と、ほのかに染みわたるような優しい味。
舌の上でゆっくりと広がる出汁の深みと、柔らかな甘み。
(……美味しい……)
二口、三口と重ねるごとに、心の奥に沈んでいた何かが揺らぎ始める。
頭の奥がじんわりと熱を帯び、胸の奥がしめつけられる。
そして一気に、記憶が洪水のように溢れ出した。
エミリアの涙が止まらなかった。
熱いものが胸の奥から溢れ出して、言葉が追いつかない。
「……私……私、もっと早く気づいていれば……!」
レオンとユナが静かに見守る中、エミリアは震える手で目を押さえる。
だが、その奥で――さらに深い記憶が、波のように押し寄せていた。
(……違う。まだ終わってない。
思い出したのは、あの時の私だけじゃない。リサ……リサは――)
脳裏に蘇る、ひとつの光景。
あの夜。遠征任務を終えた帰り、いつも明るかったリサが、まるで別人のように沈んでいた。何かを聞いても、曖昧に笑って「ううん、なんでもないよ」とだけ答える。
そんな日が、続いた。
数日後、ロイドが彼女を自分の隊に引き上げたと噂が流れた。
その直後、リサはギルドに顔を出さなくなった。
エミリアが心配になって宿舎を訪ねたとき、
リサは、ロイドの私室の奥で、まるで人形のようにベッドに横たわっていた。
「リサ……っ!? 大丈夫? ねぇ……!」
しかし、彼女は表情ひとつ変えず、どこか焦点の合わない目でこう呟いた。
「……ロイドは優しいの。私に……ふさわしい価値をくれたの。
だから……私は、捧げるの。心も、体も、全部……」
エミリアの背中を、冷たい何かが這い上がった。
その言葉は、彼女の意思ではなかった。
明らかに、何かにそう思わされていた。
その直後、ロイドが姿を現し、微笑みながら言ったのだ。
「彼女は幸せだよ。あなたのように中途半端に揺れているより、ずっと素直だ」
エミリアは、言葉を失った。
そのまま、リサの手を引くことも、助けることもできず逃げ出してしまった。
「……私は、見捨てたんです」
エミリアの唇から、苦悶のような声が漏れる。
「リサは……ロイドに心を弄ばれて、都合のいい道具にされていたのに。
私は……何もできなかった。助けられなかった……!」
ユナが傍に座り、そっと肩に手を置く。
「それでも、あなたが今ここで話してくれた。それが、救いの一歩だよ」
「リサは、今もあの男の手の中にいるかもしれない。
だから……私は、今度こそ逃げない。彼女を、取り戻す。自分の手で」
レオンは無言でうなずいた。
「その覚悟があるなら、僕たちに力を貸して欲しい」
「……お願い、レオンさん。私にもう一度……リサを迎えに行く力をください」
その眼差しには、もはや迷いはなかった。
後悔と恐れを経て、それでも立ち上がった人間だけが持つ――確かな意志が宿っていた。
エミリアが記憶と平静を取り戻してから、しばしの沈黙が食堂を包んでいた。
その静けさの中で、レオンはゆっくりと立ち上がり、椅子を引いてエミリアの正面に座った。
「……ありがとう。君が記憶を取り戻してくれたことで、また一歩進める」
エミリアはうつむいたまま、小さく頷いた。
「でも、まだ終わりじゃない。……むしろ、ここからが本番だ」
レオンの声は静かだったが、その奥に確かな火が灯っている。
「俺が王都から追放されたとき裁判は開かれなかった。
罪状の読み上げも、釈明の機会もなかった。渡されたのは、たった一枚の通告状だけ。そこにはこう書かれていた。反逆と詐欺の罪」
エミリアの目がゆっくりと開く。
「でも、それって……」
「そう。俺はそんなこと、していない」
「……じゃあ、その罪って……?」
「仕組まれた。おそらくロイドが記録を改ざんし、ギルドの裁定部門を通じて、追放の根拠を作り上げた。俺には、抗う術もなかった」
レオンは深く息を吸う。
「だから今、必要なのは証拠だ。
俺が実際に何の罪で処罰されたのか。本物の記録が、まだギルドの書庫か、王城の記録庫に残っているはずだ」
エミリアは、言葉をなくしたまま、レオンの顔を見つめていた。
「エミリア。君には……ギルドに復帰してもらいたい。
かつて所属していた身として、内部記録にアクセスする正当な権利を回復してほしい」
「復帰……?」
「一時的でもいい。目的は、正式な手続きを踏んで俺の罪状記録を閲覧・写し取ることだ。可能なら盗み出して欲しい」
エミリアは唇をかみ、静かに問う。
「……もしそれが、見つかってしまったら?」
「処分される。最悪の場合、君も罰せられるだろう。
……それでもやると言うなら、俺は全力で君を守る」
沈黙。
だがその後、エミリアはすっと姿勢を正した。
「……ロイドの側にいた時、私は何も守れなかった。
でも今なら……誰かの力になれるかもしれない。自分の意志で」
そして、強い目でレオンを見返す。
「やるわ。ギルドに戻る。私の立場を使って、必ず記録を見つけ出す。
それが……リサを取り戻すためにも繋がるなら、何だってやる」
レオンはゆっくりと笑った。
「……ありがとう。君がいてくれて、本当に良かった」
静かな食堂の中で、決意が交わされる。
そして、ひとつの反撃が静かに幕を開けた。




