第42話:消え去る記憶(フローラside)
扉の向こうで、足音が止まった。
「……フローラ様、お入りください」
侍女の声に導かれ、フローラは一歩、また一歩と部屋の中へと進んだ。
空間は静まり返っていた。
窓には厚手のカーテンが引かれ、灯火はわずかに揺れるだけ。 空気には、どこか香のような、静かに意識を和らげる匂いが漂っている。
中央には、ロイドが立っていた。笑みを浮かべながら。
「来てくれてうれしいよ、フローラ。ゆっくりしてくれ」
その声音は優しく穏やかだった。
だがフローラの背筋は、僅かに強張っていた。
「何か用だったの?」
ロイドは微笑を崩さず、椅子を引いて彼女を座らせる。
その動作のすべてが、丁寧で配慮に満ちていた。
「何でもない。ただ、少し話がしたくてね。……君は、最近どうだ?」
「……特に問題は……」
その時だった。
ロイドが静かに口を開き、低く、柔らかい声で――《囁いた》。
「君が幸せなら、それでいいんだよ。……ただ、私はいつだって君の味方だ。君が辛いときは、私だけは手を差し伸べられるから」
ぞくり、と。
何かが背中を這い上がる感覚が、フローラの意識を揺らした。
――なぜか、この人の言葉が、心に染み込む。
不自然ではない。だが、確かに考える力が、わずかに鈍る。
「……それが本当なら……」という思考が、いつのまにか「そうかもしれない」にすり替わっていく。
ロイドはさらに一歩、彼女に近づく。
「なあ、レオンのこと……もう、考えるのはやめよう。彼は君を置いていった。
でも俺は違う」
――反論の言葉が、喉元で留まった。
ロイドのスキル《支配の囁き》は、フローラの中の“正しさ”や“疑念”の隙間に
微細な毒のように染み込んでいく。
「君は、もっと幸せになれる。私のもとで……心から、守られて」
フローラのまぶたが、わずかに揺れる。
その眼差しにはまだ意志が宿っていたが、確かに――わずかに、曇り始めていた。
ロイドの指先が、フローラの髪を軽く撫でる。
フローラの身体は一瞬硬直したが、すぐに力が抜け彼女自身もその理由がわからないまま、ただその手に委ねるように頭をわずかに傾けた。
「ロイド……私たち……弱くなってる気がする」
ぽつりと、誰に言うでもなくフローラがつぶやく。
その言葉にロイドの手が止まる。
「確かに以前ほど冴えていない。……でも、それは疲れがあったからだろう」
「……違う。レオンがいなくなってから、よ」
「……レオン、だと?」
沈黙が落ちた。
重く、重く、空気が揺れた。
「……彼は何か特別な戦力を持ってたわけじゃない。でも……彼がいる時だけは、みんなの動きが噛み合ってた。支えてくれていたの。気づかれないところで、いつも……」
ゆっくりと立ち上がったロイドの顔には、もはや穏やかな笑みはなかった。
その目に宿っていたのは――嫉妬、怒り、そして支配者としての否定された屈辱。
「あんな奴に何ができたというんだ?これだけ丁寧に君の心に触れてやっていたと言うのにまだそんな事を言うのかフローラ」
その声は静かだ。だが、内側に燃えさかる炎が伝わってくる。
《支配の囁き》――それは緩やかな毒。だが今のロイドは、今すぐにでも刃を突き立てたいかのような激情に満ちていた。
「ロイド……私、わからない」
フローラの声は震え、かすかに途切れた。
「もういい。決めたよ」
低く呟いたその声には、かつての慈愛の響きなど微塵もなかった。
「(もう、愛だの信頼だのは必要ない。……飼ってやる。
何も考えず、私の腕の中だけで安らげる存在にしてやるよ)」
「ロイド?」
彼の顔はフローラと同じ高さになり、その瞳は彼女を真っ直ぐに見つめた。
「フローラ。君に何かを強いるつもりはない。君が自分で選ぶんだ。私の言葉を、そばにいることを、受け入れるかどうかを」
その瞬間、フローラの胸に奇妙な熱が広がった。
拒絶したい、逃げ出したいという衝動が確かにあったのに、その感情は霧のように薄れていく。
ロイドの存在が、彼女の心に柔らかな鎖を巻きつけているようだった。
彼はそっと彼女の手を取り、掌を上にして自分の指で軽く撫でた。
「少し、目を閉じてごらん。考えるのをやめて、ただ感じてみるんだ」
彼の指が、フローラの身にまとうローブの端に触れた。
ロイドは、まるで聖なる儀式を行うかのように、慎重にローブの留め具を外し始めた。布が緩むたびに、フローラの肩がわずかに露わになっていく。
フローラの呼吸が一瞬浅くなり、彼女は小さく身震いした。
「ロイド……」
彼女の声はか細く、ほとんど聞こえないほどだったが、ロイドはそれを無視せず、優しく微笑んだ。
「安心して」
彼はローブを完全に取り去ると、そっと彼女の肩に手を置いた。
「忘れさせてあげるだけだ。君を苦しめるものをね」
ロイドの《支配の囁き》が、フローラの心に薄い膜をかけ、拒絶の感情を曖昧にしていた。彼女は抵抗する力を失い、ただその流れに身を任せるしかなかった。
フローラはベッドに身を預け、ゆっくりと横になった
「休みなフローラ。君は私のものになる」
フローラの目から涙がこぼれた。
何に泣いているのか、フローラにはもう分からなかった。
ただ、ロイドが手を差し伸べたその時――
彼女は、何も言わずにその手を取った。
――その瞬間。
フローラの瞳から、最後の迷いが消えていった。
ロイドは満足げに微笑む。
「……ようこそ、俺の愛しいフローラ」
彼女は黙って頷いた。
レオンの名は――もう、心の奥から引き出せない場所へと葬られていた。




