第41話:癒味の手
夕暮れの陽が木漏れ日となって差し込む
扉を開けると、柔らかな香草の匂いと共に、リュミエルの姿が迎えてくれた。
「おかえり、レオン!ちょっと疲れてる?」
「ちょっとな。でも、無事に済ませた。……バクルアの調理準備を始めるよ」
レオンは、火を見つめながら唇をほころばせた。
調理台に鎮座するのは、数日かけて寝かせたバクルアの極上肉。
冷気を孕んだその肉は、まるで眠っていた夢が形になったかのようだった。
「うん、完璧。触っただけでわかる……この弾力、この香り、間違いなく旨味が熟成されている」
鼻先をくすぐるのは、干し果実と山のハーブを合わせた特製ソース。
リュミエルが焚いてくれた香草の蒸気が、部屋をほんのりと包み込む。
「よし、焼きは……強火で一気に、外はカリッと、中はとろけるくらいに」
鉄板を熱し、分厚くカットしたバクルア肉を一枚――ジュッ!!
「来たな、この音。この瞬間がたまらない」
レオンの表情は、まるで子どもが宝箱を開けた時のように輝いていた。
トングを手にくるりと肉を返すと、キツネ色の焼き目がしっかりとついている。
香ばしい煙が立ち上り、リュミエルが小さく目を見張る。
「いい匂い。こんな香り、初めて」
「だろ? これが夢を食う魔物の香りだ。悪くないよな、名前だけ聞けば最悪だけど、こいつは素直な肉なんだよ」
表面が焼き上がったところで、今度は鍋に移し、特製の香草バターと薬草酒で蒸し焼きにする。
ジュウッと立ち昇る香りが、空間そのものを癒しに変えていく。
「決して強すぎず、でも芯はぶれずに……
そう、人の心ってやつを料理にしたら、こんな感じになるのかもな」
最後に細く削った香草を散らして
「――完成だ」
皿の上に、ほのかな光を湛えた料理が盛り付けられる。
それは、美味しそうで、あたたかくて、どこか“懐かしい”匂いがした。
「さあ、いただきますだ」
レオンは思わず自分で言ってしまい、苦笑する。
「……違うな。これは、誰かの心に届ける“希望の一皿”だ。食わせるまでは、まだ終わらない」
けれど、笑みは消えない。
料理人として、久々に楽しいと思えた時間だった。
「さ、リュミエル。食べよう」
レオンは一皿をリュミエルの前に差し出した。
バクルアを香草と薬草酒で蒸し焼きにした、渾身の一品。
皿の上には、ほのかに湯気を立てる柔らかな肉と、透明に澄んだ香りのソースが添えられていた。
リュミエルはスプーンを手に取り、ひと口――
「……っ!?」
口に入れた瞬間、瞳を大きく見開いた。
「なに、これ……やわらかくて……でも、芯があって……」
噛むたびに、冷たい静けさと、ほんのり温かい希望のような旨味が舌に広がっていく。それはまるで、迷っていた心を優しく包み込むような味。
「……すごい……レオン、これ……食べたら、泣きたくなっちゃう」
「泣くなよ、塩分バランス崩れる」
そう言いながらも、レオンはどこか嬉しそうだった。
「でも……なんだろう。心の奥でずっと、ぎゅっとなってたものが、ふわってほどけてくの」
リュミエルは静かに目を閉じ、しばらくその余韻に浸っていた。
そのとき――
レオンの胸元に、ふわりと金色の光が灯る。
「……ん?」
光はふわふわと舞い上がり、彼の手元に吸い込まれる。
指先が温かく輝いた。
《スキル獲得:癒味の手》
――“料理によって、心に触れる”
――“対象の精神状態に応じた味と効能をもたらす料理”が可能になる
「……今の、スキル……?」
リュミエルが呟く。
レオンは手を見つめ、ふっと笑った。
「……料理ってのはさ、戦いでも、薬でも、武器でもなくて。
誰かの心を、もう一度立たせるためのものなんだな」
「うん、今の私が……その証明だよ」
火が落ち、夜の小屋に静けさが戻っていた。
リュミエルは毛布にくるまれ、バクルアの余韻にまだぼんやりと浸っている。
レオンは調理台に肘をつき、光を帯びた右手をじっと見つめていた。
――《癒味の手》。
心に作用する料理。対象の精神状態を感じ取り、必要な味を導き出す力。
「……なるほどな」
手を握りしめる。
「これは、ただ美味しくするスキルじゃない。
心の奥に巣食った異物――違和感、恐怖、強制的な感情すら、
料理によって正常に戻すことができる……そういう力だ」
確かに感じた。
リュミエルが一口目を食べたとき、彼女の心が、柔らかく解けたのを。
それは単なる癒しではない。
縛られていた心が、自分の意志で立ち上がる力”を取り戻す瞬間だった。
「つまり……」
レオンの脳裏に、冷たい瞳の女の顔が浮かぶ。
ノエル――かつて自分を切り捨てた合理主義者。
だが、今はロイドのスキル《支配の囁き》の影響下にある可能性が高い。
「このスキルなら……ロイドの洗脳を解除できる」
はっきりとそう思った。確信だった。
「料理という自由な選択肢を、本人の意志で口に運ばせる。
そこから生まれる本来の感情が、スキルを解除する」
それが《癒味の手》の本質。
誰かの意志を取り戻すための、最も穏やかで、最も確かな刃――それが料理だ。
「……なら、まずはノエル。
あいつを救えれば、証明できる。ロイドの支配は絶対じゃない」
手は震えていない。
むしろ、不思議なほど落ち着いていた。
目指すべき道は、見えた。
「待ってろよ、ノエル。
まずはお前の心を奪い返す」
窓の外、夜空には一筋の流星が流れた。
それは、料理人としてのレオンの本当の戦いが始まることを告げていた。




