第38話:対人戦闘に向けて
コトリ――。
鍋の蓋が、わずかに鳴った。
静かに火を落とし、レオンは深く息を吐いた。
「……ここからが大事だな」
バクルアの肉を丁寧に布で包みながら、レオンは静かに呟いた。
夢喰いの魔獣――《バクルア》。
その肉に含まれる精神干渉抗体は、熟成を経てからのほうが効能が安定する。
誰に教わったわけでなくレオンにはそれが判った。
仕込みを終えた今、料理は数日間の寝かせという過程に入った。
この間に手を加えることはできない。
温度、湿度、保存環境が整っていれば問題ない。それも今の自分ならスキルで調整できる。
つまり――今、自分の手は空いている。
「……なら、この時間を使うしかない」
ロイドは兵を従え、王位を掴もうとしている。
あの男に対抗するには、こちらもまた戦う覚悟を持たねばならない。
(俺自身の力が、通じるのか……試す必要がある)
対人戦闘。
自分にとって、最も不確かな分野。
魔獣との戦いで培った勘や技が、人間相手に通じるかどうかは未知数だった。
(ロイドと向き合うとき、それを知らないままじゃ足元をすくわれる)
一瞬のためらいが命取りになる。
あの男に対抗するには殺し合いの感覚を体で知っておく必要がある。
――自分の力を、実戦で試す。
料理も、スキルも、魔獣への知識も、今はすべて下地にすぎない。
本当に必要なのは、人間相手にそれらを活かせるだけの実力だ。
「リュミエル。ちょっと出かけるよ」
「どこか、行くの?」
レオンは頷いた。
「冒険者ギルドへ行く。偽名で登録して、山賊討伐の依頼を受けるつもりだ」
「……山賊?魔獣じゃなくて??」
「そうだ」
リュミエルは言葉を飲んだまま、しばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと問いかける。
リュミエルは、レオンの背中をじっと見つめていた。
「ねぇ、レオン……人と戦うことに、抵抗はないの?」
問いかけは、静かだった。
けれどその一言は、レオンの足を一瞬止めさせるには十分だった。
彼は答える。
「……あるさ。そりゃ、もちろんあるけど――それでも、俺はやらなきゃいけない」
その瞳には、迷いと決意が同居していた。
「俺がいま戦わなきゃ、フローラは操られたままの未来を生きる。……それだけは、どうしても許せないんだ」
「だから、戦う。必要なら人とも。……けど、俺は殺したくない。できる限り、命は奪わないやり方を選ぶつもりだ」
リュミエルは、目を伏せて静かに頷いた。
「……優しいのねレオンは。だからきっと迷ってしまう。でも、その優しさを失わないで」
レオンは微かに笑みを浮かべた。
「失くすつもりはないさ。……それを手放したら、俺はもう“料理人”じゃなくなるからな」
そして再び、扉に手をかける。
「いってくる。数日で戻る。バクルアの料理の完成も、その時だ」
「ええ。待ってるわ。……ちゃんと、帰ってきてね」
リュミエルの言葉は、まるで祈りのようだった。
そしてレオンは、その言葉を背に受けながら、静かに街のへと踏み出していった。
レオンは、冒険者ギルドへ向かい扉を押し開けると、すぐに喧騒と熱気が迎えてくる。獣皮のローブを羽織った男、巨大な斧を持つ戦士、魔導師らしき者が数人。
そして、受付カウンターの奥では男が一人無造作に応対していた。
「新規登録か? それとも依頼の報告?」
受付の男が退屈そうに聞いてくる。
レオンは、ほんの一瞬だけ迷い――低く名乗った。
「……登録を頼む。名前は――アッシュ」
レオンはあらかじめ準備しておいた偽名を使った。
流石に本で登録する訳にはいかない。
「アッシュね。……登録ならこの書類を読みな」
書類を一枚取り出し、さらりと説明する。
「簡単に言えば、自己責任で生きろって仕組みだ。命の保証はない。死んでも文句は言うな。わかったら、ここに署名してくれ」
レオン――いや、“アッシュ”は無言で頷き、渡された羊皮紙にペンを走らせた。
署名の筆跡も変え、住所欄には適当な廃村の名を記す。
「……登録完了だ。で、希望の依頼は?」
「対人戦の経験を積みたい。山賊退治の依頼はあるか?」
受付の男が、驚いたように目を細めた。
「おいおい、いきなりか? 普通は採集とか護衛から始めるもんだぞ」
「自己責任で決めるんだろ……問題あるか?」
少しの沈黙のあと、男は肩をすくめて書棚の奥から依頼書を数枚引き出した。
レオンは無言で頷き、手渡された依頼書を受け取った。
場所は街の北東にある小規模な集落跡。
そこに山賊が潜み、近くの村を脅しているらしい。
「気をつけろよ。あいつら、武器を持ってるだけの盗賊じゃない。戦闘経験のある元兵も混じってるって話だ」
(……ならちょうどいい)
それが目的だ。
人間の攻撃にどう反応できるか。
「単独で、受けられるか?」
「もちろん可能だが、命の保証はしないぞ。自信を持って単独で行く大体の奴は命を落とす。……まあ、お前もその一人にならなきゃいいがな」
レオンは、依頼書を静かに手に取った。
「引き受ける。……準備が整い次第、向かう」
受付の男は、ふっと鼻で笑うように言った。
「変わった奴だな、アッシュ。無事に帰ってこれたら、また顔を見せてくれよ。……その時は、もう少しちゃんとした依頼を回してやる」
「……ありがとう。また来るよ」
そう短く告げて、レオン――アッシュはゆっくりと背を向けた。




