第37話:人と戦う覚悟
街に戻ると、すでに夕暮れだった。
広場には人の気配もまばらで、露店の明かりだけが頼りなげに揺れている。
レオンは手にした布の中を一瞥し、小さく息を吐いた。
《バクルア》――夢喰いの魔獣。
かつては英雄譚にも名を連ねた、幻覚と精神干渉の支配者。
だが実際に相対したそれは強敵とは言えなかった。
“止まりの森”を乗り越えた今のレオンにとってバクルア討伐は容易な仕事だった。
「……止まりの森の魔獣が強すぎたんだな。俺も自分が思っている以上に強くなってるのかもしれない」
《バクルア》の肉は、まだ調理していない。
森で調理しても良かったが手間がかかる上、調理に時間かかるからだ。
今のレオンには――それが許されない。
ロイドの動きが、早すぎる。
(もたもたしていると、もう“あの椅子”に座ってしまうかもしれない)
王位の即位式が、近づいているという噂があった。
この街でも、商人や旅人たちの話に混じって新しい王の時代という言葉が出始めている。
だが――
(それでも、証拠がなければ誰も動かない)
ロイドのスキル、《魅惑》なのか《支配》なのか――正体を暴かなければ、どれだけ叫んでも“敗者の嫉妬”で終わるだけだ。
だからこそ、夢喰いの力を、確かな武器にする必要がある。
(《バクルア》の精神抗体。それを摂取して――“対ロイド用”のスキルを身につける)
「……急がないとな。調理と、仕込み。それに……検証相手も必要か」
問題は、影響を受けている可能性のある者を見つけること。
ロイドの影響はフローラだけではない。
王城の兵士、貴族、あるいは商人たちまでも――
(この素材を応用すれば抗体料理も作れるはず。それで正気に戻れば、証拠の一つになる)
レオンは立ち上がる。
「よし……始めよう。ロイドの支配を、確実に崩していく」
レオンは肉をさばきながら、ふと手元を見つめた。
ナイフさばきは迷いがなく、筋や毒袋の位置もすでに指が覚えている。
けれど、同じ手で人を斬れるか――そう問われれば、答えはまだ出ない。
(……俺は、“料理人”だ)
誰かを殺すための腕じゃない。
食べさせ、癒し、満たすための手だ。
それが、今は“戦い”に使われようとしている。
(ロイドに勝つって……つまり、あいつと戦うってことなんだよな)
レオンは、自分がその舞台に立つ覚悟を、まだ持ちきれていなかった。
止まりの森で魔獣を退けた。
忘却の森で《バクルア》を討伐した。
だが、それはあくまで“獣”との戦いだ。
(……人と、本当に戦えるのか?)
魔獣とは戦った。牙を持ち、ただ本能で襲いかかってくる相手には、恐怖もあったが、どこか割り切れるものがあった。
けれど、人は違う。
(自分と同じ言葉を話し、考える相手を――)
その相手に、刃を向けるということ。
その重さを、レオンはまだ知らない。
実際――対人戦闘の経験は、ほぼない。
剣の構えすら正式に習ったことはなく、動きも我流のままだ。
魔獣との戦いで身につけた間合いや勘が通じるかどうかもわからない。
(……どこまでが自分の力なんだ?)
倒せた魔獣たちは、果たして本当に自分の実力で勝てたのか。
料理人として磨いた技が、ただ偶然、戦いに応用できていただけではないのか。
ロイドと対峙する日が近づく。
あの男の背後には、精鋭の近衛兵や魔導士、果ては貴族の騎士団までいる。
真正面からぶつかれば、迷いひとつで命を落とす世界だ。
レオンは自分が強くなった実感はある。
けれど――その力が対人戦闘でどのくらい発揮できるのか。その力の実像を掴めずにいる。
「……確かめなきゃ、ダメだな」
一人ごちた声は、静かだった。
自分がどれほどの場所に立っているのか。
それを知らなければ、守りたいものさえ守れない。
レオンは、拳を握った。
(人と戦う覚悟。今の自分の力。それを試す機会が、必要だ)
遠くで鐘の音が鳴っていた。
日暮れの街に、かすかな風が吹く。
戦うための準備は、まだ終わっていない。
むしろ、ようやく始まったばかりだった。