第25話:月の雫の効果
どれほど歩いただろうか。
獣道を幾重にも絡まる根をかき分け、霧に包まれた谷を越えた。
朝も夜も曖昧に混ざり合い、太陽と月の区別すら失われていた。
妖精の世界の時間は、人の理とは異なる。
それを理解していたはずなのに気づけばレオンは、自分が何日ここにいたのかすら思い出せなくなっていた。
「レオン、大丈夫……?」
リュミエルの小さな声が、どこか遠くから聞こえた気がした。
けれどその声も、やがて風に溶けていく。
歩き続ける足。
疲れているはずなのに、痛みも空腹も感じない。
ただ、歩く。前に進む。それだけが、自分の存在を保つ唯一の実感だった。
そして――
空気が変わった。
冷たい。けれど澄んでいる。
まるで、月そのものが息をしているかのような、凛とした静けさ。
気づけば、レオンの目の前に、白銀の光を宿した泉が広がっていた。
水面は凪いでおり、風ひとつなく、ただそこに“在る”という静謐さだけが支配していた。
「……ここが、《月の雫》の泉……」
リュミエルがそっとレオンの肩に降り立つ。
彼女の羽も、光を浴びてかすかに震えていた。
泉の中央には、一輪の白い花が咲いていた。
その花びらの先端から、ぽたり、と。
――銀のしずくが、落ちる。
音はなかった。けれど、レオンの心には確かに響いた。
それが、《月の雫》だった。
「レオン……ついに着いたよ。あれを飲めばその傷もきっと治るよ」
レオンは黙って頷く。
この雫は、ただの癒しではない。
記憶、痛み、憎しみすらも洗い流しかねない、絶対的な再生。
それを前にして、彼は――
「……俺は、忘れない。癒されたとしても、すべてをなかったことにはしない」
そう呟いて、月の雫へと手を伸ばした。
顔を治す――それだけを願い、ここまで来た。
レオンはゆっくりと手を伸ばす。
だが――
「ッ……!」
触れた瞬間、鋭い痛みが掌を貫いた。
それは熱でもなく冷たさでもない、“浸食”の痛みだった。
皮膚が焼け、神経が裂かれるような感覚。
レオンの体が、一瞬、震えた。
「ど……どうしたのレオン!?」
リュミエルが慌てて声をかけてきたが、それどころではなかった。
(……これは、“人間”にとって毒だ……)
強すぎる効果ゆえに。
《月の雫》は、本来、人の身には過ぎた存在だった。
「……どうやら人間の僕には毒にもなりえるようだ。このまま飲むことはできない」
「そんな……ごめんレオン。私が無知だったせいだ。変な期待をさせちゃったね」
リュミエルは余程ショックだったのか落ち込んでいた。
「大丈夫――俺は、料理人だ」
彼は静かに立ち上がり、手を胸元に当てる。
心の中にある“厨房”のイメージを喚起し、素材を扱うように、己の魔力と技を重ねていく。
「食材の性質を見極め、調理法で毒を薬に変える」
掌の上に、静かに蒸気が立ちのぼる。
生まれたのは――
透明で、月光を受けて虹色にきらめく小さなグラス。
スキルによって成形した“吸魔構造”の器。
それは《月の雫》の力を緩やかに受け止め、人の身に適した形で変質させる、まさに料理人だけが作れる「調理器具」だった。
「……これなら、いける」
レオンは、再び《月の雫》を受ける。
ぽたり――
静かな音とともに、グラスの底に一滴が落ちた。
グラス全体が淡く発光する。
毒が癒しへと変わり、“猛り”が静けさへと溶けていく。
そして、レオンは――
静かに、それを口に運んだ。
《月の雫》が、グラスを通してレオンの喉を滑り落ちていった。
一瞬、何も起きなかった。
だが――
「……っあ……!」
次の瞬間、体内で“何か”が弾けた。
灼けるような熱が、喉元から胸、そして全身へと駆け巡る。
細胞の一つひとつが震え、焼かれ、再構築されていくような感覚。
呼吸が乱れ、視界が揺れる。体が、耐えきれないほどの“再生”を始めたのだ。
「これが……月の雫の力……!」
握りしめた拳が震える。
その皮膚は、もう焼けただれたものではなかった。
新たに編まれたように滑らかで、確かに「かつての自分」に戻っている。
リュミエルが小さな手を胸元でぎゅっと握りしめ、不安げに空中を漂っていたが――
「レオン……!」
彼女が叫んだ瞬間、レオンの体から光がふわりと立ち昇る。
それは癒しの光ではない。
“変質”――それが、彼の調理スキルとしての力に、新たな変化を与えていた。
「……これは、“調理”じゃない。……“創造”だ」
彼のスキルは、ただ食材を加工するだけのものではなかった。
命を喰らい、その力を理解し、自らの中に“組み直す”。
再生とは、過去をなぞることではなく、再構築――すなわち、進化だった。
顔の感覚が戻る。
声を発すると、それは焼け焦げた喉からではなく、かつての自分の声だった。
「……戻った。ようやく……俺に、戻れた」
リュミエルはぱっと笑った。
「よかったぁ! すっごく、すっごく心配だったんだから!」
レオンは小さく笑う。
だがその目には、確かな決意が宿っていた。
「これなら誰にも気づかれない。たとえフローラでも、ここまで成長した僕の顔を判別はできないはずだ」
その言葉に、リュミエルはこくんと頷いた。
そして、月光の下――
新たに生まれ変わったレオンが、静かに立ち上がった。
旅の本当の意味が、いま、彼の中で動き出したのだった。




