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(自己肯定感)を上げる風潮が嫌いな男

長い時間を雨風に晒されて、埃を被った灰色のアスファルト。


その上を、色とりどりに塗装が施されたご機嫌な金属塊が、気怠げに回り続ける黒色のタイヤの上にまたがって走り抜けていく。


晩春の長い夕景も、もはや空の縁に補足赤い線を残すのみで、男の目には車のヘッドライトの眩しい白光ばかりがチラチラと視界の隅で瞬いていた。


仕事帰りでスーツを着込んだ彼は、待ち合わせ場所である店の前に佇むと、入口脇の壁に寄りかかり、ケータイを取り出した。


『話したいことがあるんだけどさ、肉食いにいかね?』


久しぶりの連絡だったこの友人は―――仮にNKとしよう。

NKは、スーツの男―――こちらはSOにしようか。

SOにいきなり店の住所を貼り付けて寄越した。


SOはいきなり何だと(いぶか)しむ気持ちはあったものの、直近にはろくに予定も入っていなかったし、焼き肉というのもたまには良いものだなと誘いに応じたのだ。


真面目なことが取り柄の一つだったSOは約束の時間よりも少しばかり早く店の前に到着し、こうしてNKのことを待っている。


スーツの上に何を羽織るでもなかったSOが夜風に少し肌寒さを感じ始めたころ、NKはやってきた。

SOが人の気配を感じてついと首を上げると、カジュアルな服に身を包んだ男が手を挙げる。


「おう、久しぶり」


「遅い。15分は待った」


「悪い悪い。ほら、とりま入ろうぜ、寒いしさ」


調子の良いことを言うNKにため息をついて、しかしそれに慣れていたSOは店の戸を押し開けた。


温かい空気と肉の焼ける匂い、小気味の良いざわめきがSOを包み、彼は思わず「あぁ」と息を漏らした。


店内は平日の夜とは言えそれなりに賑わっていたが、二人が入ると店員がすぐにやってきて二人を席に案内した。


そして席についたSOは、取り敢えずジャケットを脱いで横に軽く畳んで置いた。

ワイシャツ姿になったSOはNKに言った。


「食べ放題なんて久しぶりだ」


「何だ会社員、こんな安っぽいところでは食わないってか?」


NKはSOを茶化すように言ったが、SOはせめてそういうのは店員が近くにいない時にしてくれと思った。


「―――な訳あるか、単純に機会がねぇんだよ」


SOが仕方なく少し大きめな声で言い返すと、NKはケラケラと笑う。


そしてメニュー表を眺めたかと思えば、「これでいいか?」とSOに確認を取り、SOが頷くと、店員を呼んでコースを告げた。


「―――……かしこまりました。当店では塩タンを先にお出しさせていただいているのですが、よろしかったでしょうか?」


「あぁ、問題ないです。おねがいします」


SOが応え、若い男子学生らしき店員は金網に火を入れてから、頭を下げて去っていった。


その背中を見送って、SOは適当に食器を並べつつNKに訊ねた。


「それで?」


「ぅん?」


ケータイの画面を眺めていたNKは気も漫ろに、SOに応える。


「呼んだのはお前だろうが……」


「―――あぁ、悪い。腹が減って集中できなくてさ」


「お前は腹が減ると会話もできんのか……」


SOがため息をついて見せると、NKは「悪かったって」とケータイをズボンのポケットに戻した。


「そんじゃ、本題に入りますかね……っと……」


「―――失礼します。こちら塩タンになります」


NKが姿勢を変えて話しを切り出すかと思われたその時、店員がそれを遮るように皿を机上に置いた。


その時のNKの目線は肉に向いており、SOは「これは腰が折れたな」と直感する。


「―――……取り敢えず焼かね?」


SOはNKの予想通りの言葉に頷いた。

SO自身も空腹であったし、このままでは延々と話が進まないと理解したからだ。


「適当に頼んで置くから、お前、肉見といて」


「うぃ」


NKの返事を聞いたSOは注文パネルに手を伸ばし、メニューを眺めて適当な品目を選んで注文し始めた。


ある程度内容を決めたところでSOはふっと、米を食いたいなと思い居たり、NKはどうかと確認のために視線を向けた。


「なぁ、お前、米……」


そこに居たのは明後日の方向を見つめて呆けているNKの姿だった。


トングを持ったまま固まっている彼の姿を見て、SOは網の上に視線を移す。

肉の焼ける匂いに混じって焦げの香りがしてくることが、網上に広がる薄い白煙の向こうの光景を見た瞬間に知覚された。


「おいおいおい。 見とけっつったろ……」


「ん? おお、悪い」


のっそりと動き出したNKを他所に、SOは慌てて二本目のトングを引っ掴むと、網上から肉を救出して皿に取り分けた。


SOが四枚あるうちの最期の一枚をトングでつまみ、チラリと見やると、塩タンはすでに焦げかけで、縮れて丸まっている。


「―――……まあ、食えない程ではないな」


「いやー、よかった よかった」


NKがそう言って笑うのが多少勘に触ったSOは、取り敢えず米は2人分頼むことにして注文を終え、呆れ気味にNKに目を向ける。


「お前が見てりゃ、こんな慌てなくて良かっただろ……何してたんだ?」


「いや、悪かったって、考え事してたんだよ」


「……『話したいこと』っていうのはそれか?」


NKはわずかに身を乗り出して、嬉しそうに話し始めた。


「そうそう。実は俺、『自己肯定感を高めていこう』って考え方が嫌いでさ」


「は、何? 自己肯定感?」


唐突な話に、SOは思わず聞き返す。


「ほら。動画とか本とか、最近、そういうのよく見るだろ? 自分の事を認めてあげるとかそういう……」


SOの反応が悪いとみたか、NKは身振りを交えて説明する姿勢を見せた。


しかしSOはそれを「まてまて」と遮る。


「『自己肯定感』は知ってる。分かねぇのは、何でお前がそれを嫌っているのか、だよ」


「……やっぱりお前は話が早いな」


NKが嬉しそうに笑ったのを見て、SOは微かに自尊心をくすぐられたのを感じた。


もともと話を聞くために来てはいたが、そのためのモティベーションが上がったのだ。


SOは照れ隠しのように塩タンをレモン汁につけて口に運ぶと、NKに箸を向ける。


「世辞はいいから、教えろって」


NKは「そうだな……」と少し考える素振りを見せたあと、SOに質問を投げかけた。


「……お前さ、自己肯定感を上げる意味って何だと思う?」


「上げる意味?」


SOは塩タンの二枚目を口に運んでその旨味を転がしている間に、NKの言葉の意図を考えた。


「そう、上げる意味、目的とかでもいいんだけど。とにかく、最終的に手に入るもの(・・・・・・・・・・)って何かなってさ」


NKの質問はSOにとっては自明なもので、それが彼を思い(わずら)わせるものとはとても思えなかった。


「何って、そんなの『幸せ』だろ? より良く生きるために、あって助かるものだし」


SOの返答に、NKは大きく頷いた。


「そうそう、そうだよな? じゃあさ、何でそれが『幸せ』と結びつくんだ?」


「何で? 何でって、そりゃ……」


SOは答えようとして、しかしすぐには言葉が出てこず沈思した。


「―――……」


「失礼いたします。こちら壺カルビと……」


丁度その時、店員がやってきて頼んでいた肉を机に並べた。


SOはすぐにトングを掴み、それらを網に並べていく。


「―――……思うに」


SOが呟くと、NKはSOに顔を向けた。


「自己肯定感が直接的に生むのは、『気力』じゃないか?」


「元気ってことか?」


「そうだ。『気力』があればその人は元気だし、仕事(・・)にもやる気がでるし、趣味にだって力を注げる。それは少なくとも『嫌な事』ではないだろ?」


NKは静かに話を聞いていたが、SOが語り終えるとため息と共に呟いた。


「―――……やっぱりなぁ」


「何がだ?」


SOは、訊きつつ、肉の焼け具合を確かめて裏返した。

その時滴った油が火を少し燃え上がらせて熱が彼らの顔を撫でる。


「いや。結局、自己肯定感を高める目的って、そういうことなんだろうなってさ」


「あん?」


SOは話が見えてこず、トングを持ったまま視線を肉からNKに戻した。

NKの目線は網の方に向いていたが、その瞳は網の向こう側に揺らめく炎をテラテラと照り返していた。


「自己肯定感を高めると『気力』が湧くわけだろ?」


「まぁ、そうだな」


「そうするとやる気が出る訳だ」


「そうなんじゃないか?」


「んで、労働にも取り組めると」


「そうなるだろ?」


NKは眉をひそめ、SOに目線を向けた。


「つまり自己肯定感を上げるってことは生産性の向上……延いては国の成長を目的にしているってことだ。国民を奴隷として使うために……」


SOはいきなりぶっ飛んだNKの言葉に「いやいや」と待ったをかける。


「飛躍しすぎだろ。結果として労力に成るかも知れないってだけで……」


「だけど、結果としてそうなるものが流行っているってことは、そういう事(・・・・・)なんじゃないか?」


SOはNKの言っていることは極端だが、間違えていると断言することも出来ないと思い、小さく唸り声をあげつつ肉を裏返す。


「―――……確かに、否定はできない……っつっても、仮にそうだったとして、困ることはないだろ? 働けば稼げるし結果として経済は成長するかも知れない。だからこそ『国の政策としてそういうものを流行らせている』って考え方も……まあ、出来なくもない、のか?」


SOは話していて、自分の言葉が正しいのか自信がなくなってきて、首を捻った。


だが結局、SOは当初と同じ結論に至る。


「……まあともかく、別にそれが苦痛じゃないのなら、誰も損はしない(・・・・・・・)訳だし、別に構わないだろ。むしろ何でお前が自己肯定感を高める風潮を嫌っているのか、本当にわからん。お前は別に、自分が好きになれなくて悩んでいる訳じゃないだろ」


SOが言うと、NKは「やれやれ」といった風に首を振る。


「お前の言う通り、俺は別に自分が嫌いじゃない。その点では自己肯定感を高めることには困っていないさ、確かに。けど、誰も損はしない(・・・・・・・)なんてことは有り得ないと思う。現に俺はこの風潮にうんざりしてるんだ。自己肯定感を高めようなんて考え、まやかしだ。やめるべきだろ」


「一体、何がそんなにお前を駆り立てるんだ……」


言下に、SOは網上で程よく焼けた壺カルビをハサミで適当に切り分け、皿に取り分けた。

NKはそれをすぐに口に運び、米を一緒にかき込む。


「やっぱり、お前にもわからないか……」


NKが妙に腹立たしい言葉を吐くものだから、SOは思わず悪態をつく。


「何ほざいてんだ……」


SOはNKが美味そうに食べる姿を見て、ふと気がついた。


「……そういや、さっきからずっと俺が肉焼いてるぞ、お前も焼いてくれ」


「嫌だよ。人が焼いた肉(・・・・・・)一番うまい(・・・・・)んだから」


「はぁ? そういうのいいか……ら―――……」


SOは言い返そうとして少し声を張るが、その途中で天啓のように閃いた。


「―――……なるほどね。確かに俺達の理屈だと、『自己肯定感を高める風潮』はお前には(・・・・)邪魔だわな」

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