もーほんと、
「ばか!」
尻もちをついた僕を見下ろして、後ろで手を組んで。
麦わら帽子と、白いワンピース。
健康的に焼けた肌と、風に揺られるツインテール。
罵倒する言葉と裏腹に、その声色は明るく、どこまでも純粋な笑顔が光っていた。
五年前、小学五年生の夏。
記憶の中の彼女は、眩しかった。
「は? あんたバカなの?」
「うぅ……返す言葉もございません」
高一となった僕らの関係性は、そんなに変わっていない。彼女——結依は成績優秀で、僕は中の下、特に数学が苦手。放課後、出された宿題に唸っているところを発見されて今に至る。
「三限で習ったばかりじゃん。この公式を当てはめて、この通りに記述すれば……ほら」
「あ〜! なるほど」
「え、今わかったの」
「うん。正直授業中よく分かってなかった」
これは本音。先生には悪いけれど、結依の教え方の方がわかりやすいと思っている。
「はぁ……そんな調子だと置いてかれるよ?」
結依は呆れたようにため息をつくと、軽くのびをして、机の上を片付け始めた。
「帰ってからもちゃんと復習しなさいよ? 明日の予習もね」
「めんどい」
だって、結依から教えてもらった方が短時間で理解できるし……。自分で予習したところで、絶対さっぱり分からない。
「颯真ね! いつまでも私に頼れると思ってるでしょ!?」
「はい。お世話になります神様結依様」
「そういうことじゃないの! ……ほんっとバカなんだから」
彼女はもう一回大きなため息をついて、勢いよく鞄を背負う。子供の頃とは違う、ハーフアップの横髪が揺れた。
「さっさと帰るわよ」
結依に「バカ」と言われる回数は、割と多い。
基本的に僕は何にも考えず気楽に生きているので、目の前のことをバリバリこなす彼女からしてみれば、情けない幼なじみだと思われているだろう。大体のことで下手に出るのは僕だ。
そして、僕は「バカ」と言われるたび、あの夏の日のことを思い出す。目に焼きついた小五の結依が、まぶたの裏で眩しくちらつくのだ。
なぜだか僕の心を奪った、幼い少女の「ばか」の一言。
今の彼女から告げられるそれは、ちょっと棘成分が増した気がするけれど。
まあとにかく、毎回ちょっとエモーショナルな気持ちになっているのは確かだ。あっちは普通に馬鹿にしてるだろうに、受け止め方がポジティブすぎるだろうか?
彼女と二人、帰り道を特に会話もなく歩く。家は隣だ。毎日ではないが、もう何年も一緒に帰っているので、沈黙の気まずさはなかった。
夏休み目前の時期、夕方でも汗だくになってくる。僕の肩あたりにある彼女のこめかみから汗が一筋伝った。
赤くなった横顔は五年前の面影を残しつつ、少し大人びている。当時のようなあどけなさはないけれど、まっすぐな瞳は変わらない。
そういえば。
あの日、「ばか」と言われた日の僕は——何が「ばか」だったんだろう?
彼女のあの笑顔は眩しくて、すぐ思い浮かべられる。だから、逆に今まであの日のことを深く思い出そうとしてこなかったことに、唐突に気づいた。
ああ言われたからには、僕が何がやらかしたか、変なことを言ったのは確実。ただ、それが何だったのか全く思い出せない。
大切な思い出なのに、結依の姿が焼き付きすぎて、前後を全く思い出せないのだ。覚えていすぎて思い出せないってなんだそれ、どうしようもないじゃんか。
いや待てよ……?
まだ考えようはある。
思い出せはしなくても、推測くらいならできる。
僕はあの時、尻もちをついている体勢で結依を見上げていたんだ。つまり、尻もちをついた情けない僕に対して放った言葉だった、とか。
そうなると、なんで尻もちをついたかという疑問が生まれる。あそこは、近所のだだっ広い芝生がある公園だったはず。木に囲まれた真ん中に芝生が広がってる、シンプルな公園。その芝生の上で尻もちをつく状況……うーん……。
「分からん……」
「何が? 数学が?」
「いやそれはもう理解したよ。って、え?」
ナチュラルに返事してしまったが、どうやら思考の一部が口から漏れていたらしい。
「え、はこっちのセリフ。何が分かんないの?」
「いや、なんでもない」
「出た〜颯真のはぐらかし。ハッキリ言うまで問い詰めまーす」
やっば、やらかした。
彼女は「なんでもない」が嫌いで、絶対に問い詰めてくる癖がある。モヤモヤしてどうしようもなくなるからだとか。
いつもだったら白状するけど、五年前のことを思い出してたなんて恥ずかしくてマジで言いたくない。勘弁してくれ……。
「まぁその、ちょっと思い出したいことが思い出せなかっただけだよ」
「思い出したいこと? なになに、気になる」
なんで気になるんだよ!? そこは興味なくしてくれて全然いいのに……!
「えーと……その」
シンプルに言ったら引かれる。
絶対引かれる。
そもそも向こうはおそらく覚えてない。結依があの時どういう気持ちだったのか知らないけれど、今までもこれからも言うであろう、からかいの一つに過ぎなかったはず。
ていうか、結依は僕のことを、手のかかる幼なじみだとしか思ってないはずだから、特別な意図もなかったに違いない。あの時と今とでは、結依は僕のことを……。
「結依は、僕のことをどう思ってるの?」
「…………は?」
幼なじみが固まった。
僕も固まった。
なんとか言い訳をしようフル回転した脳は、何故かあるまじき脱線をして、爆弾を落とした。
「え、あの違くて——」
「ど、どういう意味? 会話の流れが、ぜ、全然繋がってないんだけど」
もっとものツッコミだった。
質問に質問、しかもかけ離れた質問で返されるとは、支離滅裂もいいところだ。
「私が颯真のことどう思ってるかって……そりゃあ、情けないしほっとけないし、勉強だってできないし、私のこと家庭教師か何かだと思ってるし、あと情けないし、それに情けないし」
僕が口を挟む前に、勝手に喋りだす彼女。
しかも情けないって三回言った。
「——でも、私が困ってる時は、ちゃんと寄り添ってくれるから。感謝はしてる、けど」
「…………」
えっと。
結依ってこんなに可愛かったっけ?
完全に思考がフリーズしている。心臓がだんだんうるさくなってくる。
「あのね、この際言うんだけど。
小五くらいの時……そうそう、今日みたいな暑さの日。
近所の公園で遊んでて、私が芝生の横の木に登って、降りられなくなっちゃってさ。
手は伸ばせるんだけど、どうしても足を下に降ろせなくって困ってたら、颯真が『受け止めるから、そこから飛んで!』って言ってきたの。
覚えてる?」
あ……!
木の上で、眉を下げて手を伸ばしている結依がパッと浮かんだ。
ツインテールに麦わら帽子の彼女が。
「私は、それじゃあ颯真が怪我しちゃうでしょ、って言ったんだけど、『そのくらい平気だから』って聞かなくて。
でも、自分で降りるのはもう難しいって悟って、仕方なく飛んだの。思い切ってえいって。
そしたらさ、ちゃんと受け止めてはくれたんだけど、案の定あんた、尻もちついちゃって」
目を見開く。
心臓が鳴り止まない。
結依が語る情景の結末に、僕が五年間焼きついて離れない、あの白いワンピースが繋がって……。
思い出した。
尻もちをついた僕は、
『結依、大丈夫?』
『大丈夫だよ。むしろ心配されなきゃいけないのは颯真でしょ?
私を庇って尻もちついちゃって……ありがたいけど……もーほんと、』
結依を見上げた僕に向かって、彼女は——。
「……そういう、困ってたらちゃんと助けてくれるところが……まぁ、なんて言うかその……好きってこと!
もう、恥ずかしいじゃんなんでこんなこと言わせんの!」
最後は早口ぎみに、勢いよく言い切った彼女は、立ち尽くす僕に向かい合う。
「……もーほんと、」
あの日の記憶を纏った笑顔。
ああ、そうか。あれは彼女の照れ隠しで。
「ばか!」