偽りの神託
「これより一年の間、王がこの地におわしますと、王の御身には災いが降りかかると神託が」
神官ガウマータの声は、うす暗い謁見室に朗々と響いた。
「神がそう仰せになったのか」
玉座の王は、背もたれにもたれたまま胡乱な目を神官に向けた。
「余に災いがあると」
「畏れながら、神託には続きが」
ガウマータは言った。
「しかれども、王がこの地に留まらず、西へ軍を発すれば、豊饒の地を得るであろう、と」
「西か」
王の目に微かな光が灯った。
虫の居所が悪ければ、たとえ寵臣であっても血祭りにせねば収まらぬ狂暴なその性質が、軍という言葉に惹かれたようであった。
「西の豊饒の地とは、どこのことか」
「偉大なるカンビュセス王よ」
ガウマータは答えた。
「西の豊饒の地とは、すなわちエジプトにほかならぬかと」
「ふむ」
王は頷く。
「その神託が偽りであったなら」
王の猛禽類のような目が神官を見据え、その口が嗜虐的に歪んだ。
「貴様の命はないぞ、神官」
王の間から退出してきたガウマータを出迎えたのは、彼と歳も背格好もよく似た男だった。
それは王弟のスメルディスであった。
「神官殿。首尾は」
声を潜めて心配そうに尋ねる王弟に、ガウマータは額に滲んだ汗を拭いながら微笑んでみせた。
「王はその気になられました」
ガウマータは囁いた。
「じきに、エジプト遠征の軍が発せられますぞ」
「そうか」
スメルディスは目を輝かせた。
「それでは、これで我らの計画も」
「ええ」
ガウマータは頷く。
「あと少しでございます」
暴虐のカンビュセス王を除くことは、王弟スメルディスと神官ガウマータの共通した悲願であった。
先年、癇癪に任せて王が腹の中の自分の子ともども蹴り殺してしまった王妃は、王自身の妹でありスメルディスの姉でもあった。
愛する姉の、あまりに無残な死。
その怒りと悲しみに、スメルディスはついに決心したのだ。
王といえども、これ以上の蛮行は許せぬ。
神はスメルディス様のお味方ですぞ。
そう囁いてスメルディスに接近してきたのが、神官のガウマータであった。
先日若くして最高位の神官になった彼であったが、スメルディス同様、王を深く恨んでいた。
彼が最高位の神官になれたのは、彼よりも年長の神官たちのほとんどが、些細な理由で王によって追放されたり死を賜ったりしたためであったからだ。
このままでは、次に死を賜るのは私です。
目に切実な色を浮かべて、ガウマータは言った。
その前に、どうかスメルディス様。あなたが王に。
二人でひそかに結託してカンビュセス王排除の策を練る日々。折しも、神殿に神託が告げられた。
西に災いあり。王となる者、東に留まるべし。
ガウマータはその神託をすぐに王には告げず、スメルディスに諮った。
「王を西へ向かわせるのです。スメルディス様がここに留まれば、あなたが次の王に」
神託を利用して、王を陥れる。
それは神官であるガウマータにしかできぬ策略であった。
スメルディスは同意した。
そうしてガウマータは、神託とは逆の内容を王に伝えたのであった。
エジプト遠征の軍は速やかに編成された。
留守を任されたスメルディスは、宮殿の門で王を見送った。
王は厳めしい顔で前を見据え、弟を振り向きもしなかった。
代わりに、その隣に立つ若い槍持ちが、並んで立つスメルディスとガウマータに恭しく一礼した。
「あの槍持ちの方は、初陣ですかな」
ガウマータの言葉に、スメルディスはその初々しい顔立ちの青年を見た。
「ああ、そうですな。王の親衛隊の一人で、確か、名は」
しかしスメルディスはその名を思い出せず、そうしているうちに王の一行は軍とともに西へと去った。
スメルディスの予想に反して、カンビュセス王のエジプト遠征は順調に推移した。
東から現れた大軍にまずエジプト周辺の諸国が膝を屈し、それに呑まれるようにして大国エジプトも数度の戦いの後、あっけなく滅びた。
「どういうことだ」
スメルディスはガウマータを詰った。
「王の遠征は成功し、豊穣のエジプトを本当に手に入れてしまったではないか」
「ご心配なく」
ガウマータは自信満々だった。
「神託とは、そんな指呼の間のことばかりを告げるものではございませぬゆえ」
エジプト遠征が成功裏に終わっても、カンビュセス王はエジプトから戻らなかった。
どうやら、新たに得た領土の経営に意欲を燃やしているらしい。
数年がたち、ついにスメルディスの待ち望んだ報せが届いた。
エジプトの南、ヌビアへの遠征をもくろんだカンビュセス王の大軍は、目的地に着くまでもなく、仲間同士が籤引きで相食らうような飢餓に見舞われ、大敗した。そして王は病に伏したと。
とうとうこのときが来たか。
スメルディスはこの喜びを神官と分かち合いたかったが、どういうわけかガウマータはここのところその姿を見せていなかった。
やがて、遠征以来一度も帰国せぬままカンビュセス王の死が伝えられると、スメルディスは直ちに王に即位した。
新たな王の誕生。
即位の数日後の深夜のことだった。
スメルディスがふと目を覚ますと、傍らに男が立っていた。
「何者か」
そう咎めると、男は闇の中で身じろぎもせずに答えた。
「ガウマータでございます、王よ」
「神官殿か」
スメルディスはほっと息を吐く。言われてみれば背格好は確かにガウマータのようであった。身体を起こし、居ずまいを正す。
「神官殿のおかげで暴虐の王を排し、王位に就くことができた。礼を言う」
「礼には及びませぬ」
神官は言った。
「こちらこそ、今宵はお詫びを申し上げに参りました」
「お詫び?」
スメルディスは目を見張る。
「お詫びとは、何の。いや、そもそもなにゆえこのような夜更けに」
スメルディスの言葉は途中で途切れた。
闇の中に浮かび上がったガウマータの顔が、まるで鏡を見ているかのように己の顔にそっくりであったからだ。
「神官殿。その顔は」
「神託を偽っておりました」
ガウマータは低い声で言った。
「あの時スメルディス様にお伝えした神託には、続きがございました。正確には」
ガウマータは歌うように神託を告げた。
西に災いあり。王となる者、東に留まり、真の王は南より帰る。
「それで、ここのところ南の地に潜伏しておりました」
目の前で、自分そっくりの顔が邪悪に歪む。
「その間に、秘儀で顔をこのように」
「貴様」
スメルディスの声が震えた。
「まさか」
「真の王は南より帰る」
ガウマータはもう一度言った。
「明日からは、私こそが真の王に。代理のお役目、まことにかたじけなく存ずる」
その手に、鈍く光る短剣が握られていた。
声を出そうとしたスメルディスの喉に、短剣が突き出された。
しかし、結局はスメルディスに成り代わったガウマータの世も長くは続かなかった。
王は偽者である、と喝破した貴族の青年が、仲間たちとともにエジプトより帰還し、ガウマータを討ち果たしたからだ。
エジプトの南、ヌビアへの同族相食む地獄の遠征から生還したその青年の顔には、カンビュセス王の槍持ちとして王都を発ったときの初々しさはもはやなく、歴戦の戦士としての精悍さが漂っていた。
真の王として立つことになる彼の名は、ダレイオスといった。