「時計屋」の老人
町の外れにある坂の上。
雑草に埋もれた廃旅館に月の光が差し込んでいた。
夏の夜のぬるい風が吹き抜けていく。
経済的に行き詰まっている現代では、こんな風に打ち捨てられた旅館は珍しくもない。
ただ、見晴らしの良い丘の上にあるこの建物は、明らかに異質だ。
化け物や幽霊を見たとか、果ては死人が出たとかの噂だけが飛び交っている。
近所の悪ガキやホームレスが入り込むには絶好の場所のように見えるが、実際には誰も入る勇気がない。
それほど異様な雰囲気のある建物だった。
その旅館の一室、禿げた頭に古い袈裟姿の老僧が朽ちた畳に座っていた。
「こんなところで何をしておるんじゃ」
「わかんない」
老人の前には、三歳くらいに見える幼女がぺたりと座り込んでいる。
「これ、なあに?」
二人の間には黄金に光る四角形の箱型の時計があった。
「時計じゃよ、知らぬか」
幼女は可愛らしい顔を上げて首を傾げ、その丸く青い瞳で僧侶を見る。
「そうか。これはな、ここに細い針というものがあるじゃろ?。
これがどこにあるかで今が何時か分かるのじゃ」
「ふうん」
幼女に理解は難しいのだろう。
ただ、そうっと小さな手を出しては引っ込めるを繰り返していた。
時計の針は午前二時を指している。
そしてその時間はまったく動いていない。
「親はどうしたね」
幼女は首を横に振る。
「そうか、かわいそうにの」
よく見れば幼女の身体は汚れ、どこかに縋りついたのか、爪もいくつか剝がれていた。
「親のところへ戻してやろうかの」
老僧の言葉に幼女が俯いた顔を上げる。
「この時計をようく見ておれよ」
「うん」
カチリ
カチリ
老人の指が箱のつまみを動かし、ゆっくりと針を戻していく。
やがて、幼女は光に包まれた。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん」
「どこ?、こわい、こわいこわい」
逆行のせいで記憶を呼び覚まされ、これまでの苦痛が幼女を襲う。
泣き叫ぶ幼女。
老僧はその様子をただ見ているしかなかった。
やがて幼女は安らいだ顔になる。
「おかあさん、あったかい」
その丸い目に映る景色は、幼女を胸に抱く優しそうな青い瞳の女性の姿だった。
「ほれ、ここじゃな」
「ほい」
いつの間にか一人の少年が老人の後ろから姿を現していた。
幼女の目に映る景色を記憶する。
「ちゃんと届けるぜ」
渡されたピンクのリボンを手に、少年は姿を消した。
老僧はじゃらりと長い数珠を掻き鳴らし始める。
「さて悪霊ども、わしが相手じゃ」
これが二人組の祓い師『時計屋』である。
実はもう一作あったりします
「時計屋の少年」