第二章:心を開くものは(一)
「マリア様、今日は何をなさりますか?」
「うーん、どうしようかしら。」
始めの頃は、この豪華な宮殿を歩いて周り、それはまるで子供の頃に遊んだお姫様ごっこをしているかのように心を弾ませていたユリアだったが、この宮殿に来て、もう十日ほど経っている事もあり、ユリアは何か新しい事はないかと考えていた。この太陽が出ている時間帯は実につまらない。特にやる事もないので、この環境に慣れた時点でもう楽しみを失ってしまっていた。
「(そういえば、この宮殿内は大分探検したけれど、外に出た事はまだ無いわね…)私、今日は外に出てみたいのだけれど、いいかしら?」
「ええ、それでは昼食はお包みいたしますね。」
「ありがとう!(やった。また新しい事を見つけられる。)」
人間は逞しい。急激な変化にも対応、順応し、すぐ慣れる。それは人が考えるよりもずっと速いスピードで、その変化の速度はまるで音が空気の振動で。
宮殿の正面玄関を出て、坂を少し降ると綺麗な小川がある。そこを陽気に超え、坂を降りつづける女が一人。静けさを保つ森林、頬を撫でるような優しいそよ風、木の葉の隙間から煌めく太陽に照らされて、ユリアはこの明るい世界を満喫していた。森の中をただひたすら真っ直ぐに歩くユリアには、目的地などない。ただそういう気分なだけだ。今の生活から少し離れた場所で、自分の立場を確認したい。嘘をつき続けるのは大変だから、自分に戻る時間を。少しだけ。
ぼつ。ぽつ。ぽつぽつぽつ。瞼に感じる水滴。涙?と思った瞬間、この馬鹿げたメランコリーは儚く散った。涙は涙でも、これは天からの恵み、神様の涙だ。
「うわぁ、どうしよう…」
突然の通り雨。とりあえず宮殿のある方角に向かおうとするユリアだったが、小川の勢いが増し、飛び越えられそうに無い。仕方がないので大きな木の下で雨宿りをすることにした。
「もうお洋服がべちゃべちゃ…」
水を含んだ服が体にまとわりつく。
「もう脱いじゃおうかしら。」
「それは遠慮しておいてほしいかな、お嬢さん?」
はっと後ろを振り向くと、既にそこには男性の先客がいた。深緑色のマントを身にまとった青年は、頭を傾け意地悪そうに微笑みかけた。
「あはは〜、冗談ですよ〜。おほほほほ。ふぅ」
すっごくびっくりした。いきなり後ろから出てこないでほしい。口から心臓が飛び出そうになったユリアは、浅く深呼吸をした。
「すみませんが、この辺りに住んでらっしゃる方ですか?」
「あぁ、そういう訳ではないんだけど、この辺りに知人が住んでいるんだ。少し顔を出そうと思ってね。それがこの雨だよ。」
「そうなのですね。(この近くに住んでいる人っているのかしら…)」
雨に濡れた焦げ茶色の髪から滴り落ちる水滴を、気怠そうに指先で落とすその姿は、まさに水も滴る良い男。無邪気に歯を見せ笑う表情は、柔らかく明るい雰囲気を醸し出していた。
「君は、この辺に住んでいるのかい?」
「えぇ、この先にある宮殿に住んでおりますの。よろしければ、いらっしゃいませんか?何か体を拭くものをお貸しいたしますけれど。」
「いや、遠慮するよ。旦那様に嫉妬されても困るしね」
この男の何もかもを見透かしているかのようなアップルグリーンの瞳は、キラキラと雨を写していた。
「雨も弱まってきたことだし、僕はこれで。またね。」
「えぇ、では失礼いたします。」
雨は不思議な縁を持ってくる。ユリアも急いで宮殿に戻った。
「ずぶ濡れではないですか!お体に障ります。今すぐ御召し物を…」
「大丈夫よ、このくらい。それより、この辺りに他の宮殿や人が住んでいるような場所はあるのかしら?」
「えーっと…」
「ありませんよ。ここの土地一帯は、ライアン・ヴィーノフ所有のものとなっております。」
軍服によく似合うキャラメル色の髪。聞き覚えのある声に振り返ってみると、見覚えのある麗しき騎士がそこにいた。
「ハーロス様?」
「はい、お邪魔しております。」