第一章:嘘で守るものは(三)
「もうそろそろ十時になるかな。今日はもう寝なさい。さぁ。」
ふかふかの羽毛布団を広げ、公爵はユリアの手を引いた。一週間前、背中越しの会話から始まった二人の関係は、まだ暗闇の中にある。しかし、毎晩八時、大時計の鐘の音とともに現れるこの紳士は、ユリアに愛と温もりを与えた。その一方で、ユリアは違和感を覚えた。この公爵はなぜ、これほど「わたし」を愛しているのに、姿を見せようとしないのだろう。
ゴーン、ゴーン。鐘の音が鳴り響く。
「ヴィーノフ様、少しお聞きしたいことがあるのですが…」
ユリアは暖かい布団の中で、ベッドの脇に座っている公爵に喋りかけた。
「なんだい?」
「ヴィーノフ様はなぜ、私のような平民をお選びになったのでしょうか?公爵様に私は吊り合わないように思えます。」
そう。いちばんの疑問はそこだ。なぜ、お姉ちゃんはこんなにも愛されているのだろう。美人で優しいお姉ちゃんが人に好意を寄せられるのは、大いに理解できる。でも、なんで位の高い公爵様がわざわざ酒場の娘を選ぶのだろう。美人をそばに置いておきたいという傲慢なワガママなら分からなくはないが…。初めは私もそうなのだと思っていた。でも…
「そうかもしれないね。でも、私は君の心の美しさに惹かれたんだよ。君は、真に美しい。」
真っ直ぐに想いを伝える公爵の言葉に、ユリアは俯くしかなかった。これは私のための言葉じゃない。本気にしちゃ駄目なんだ。私が聞いちゃ駄目だったんだ。少し照れくさいような嬉しさは、一瞬にして罪悪感に潰された。私が来てもよかったのかな。本当はお姉ちゃんが来るべきだったの?
心にもやもやを感じながら、ユリアは目を閉じた。
「…マ…リア…マリア…もう寝てしまったかい?」
スヤスヤと眠るユリア。静まり返った部屋の中で、公爵はそっとユリアの頭を撫でる。
「君の幸せを奪ってしまった私を、君はどう思っているのだろう。憎まれ、嫌われると思っていたが、君はまだ私と会話してくれるんだね。君を失う事を考えると、とても恐いよ…」
そっと頬に触れる手が熱い。朦朧とする意識の中で、柔らかい何かが額に触れた。あったかい…。ユリアは深い眠りの中でさえも、温もりを感じていた。
翌朝ユリアが目を覚ます時には、もう公爵は居ない。小鳥の囀りが聞こえ、元気よく侍女達が活動しだす朝は、夜とはまるで違う世界だ。もしかして夢だったのではないかと思い、あたりを見渡すと、布団に公爵が座っていた跡を見つける。あぁ、今日も私は「マリア」を演じるのだ。偽善を装い嘘をつく。あの人に愛されるために…。
私はあの人が好きなわけではない。決してそういうわけではない。ただ、真剣に好意をぶつけられた事が今までなかったから、少しだけ新鮮なだけだ。そして、あの人は私を好きなわけではない。勘違いしては駄目だ。そんな事を考えながら、ユリアは朝食を食べた。