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ためらった俺を、秋野さんは見逃さなかった。
「秋野さんが、何なんだ」
頬が赤く燃えている。瞳がちかちかと燐光のように光っている。どこか悔しそうに見えるのは気のせいかもしれないが、秋野さんは十分にきれいだった。
「秋野さんが……必要なんだ」
「ほう」
ごくりと唾を飲み込んでしまって、誤解されたかも知れない。
でも、誤解じゃないよな、たぶん。
俺は秋野さんが、まだ欲しい。
「女っけなしは訂正だな、ずいぶん口説き慣れてるじゃないか」
突き放すような男口調でいわれて、俺は我に返った。
秋野さんは本気で怒ってるんだ。
急にぐでぐでになって担ぎ込まれてきたかと思えば、父親の前でいきなりキスしてきて、あげくの果てに気を失って。それで介抱してやっていれば、夜中に秋野さんに襲いかかってくる、とんでもない男だと思ってる。
秋野さんは冷ややかなそっけない動作で俺の側を離れて、鳴り続けていた目覚ましを止めた。ナイロン袋を開けて、中味をあちらこちらへ片付け始める。
熱冷ましの湿布、曲がるストローつきのジュース、小さなパン。タオルとどうやら男物らしい下着一組。
俺のために買ってきてくれたんだと気づいて、嬉しいよりも切なくなった。
秋野さんは優しい、秋野さんは親切だ。
けれど、それとこれとは話が違う、病人だから介抱した、元気になったんならさっさと出て行け。
そう言われているんだ、と気づいた。
「あ、あの」
「うん?」
秋野さんは布団に体を起こした俺を振り返った。まっすぐな視線に思わずうなだれてしまう。
どう言えばいいんだろう?
俺は実は地球外生命体で、ここにいる『近江潤』というのは仮の姿で、本当はコバルト・ブルーでぬるぬると動くスライム状の不定形宇宙人で、地球には宇宙船の事故で落ちたんだ、と?
そんなこと、誰が信じてくれる?
そのうえ、『成人』した俺達は、エネルギーを分かち合う相手と生涯生死を共にするのだ、なんて?
ましてや、俺の生死は、実は秋野さんのキス一つにかかっていて、特にこの数日は、二、三時間ごとにキスしてもらう必要があるのだ、などと?
そんなこと、言えるわけがない。
言っても信じてくれるわけがない。
舞い上がった後の落胆で目の前が暗くなった。
「ごめん。ありがとう…ずいぶん、元気になったから…出て行く」
ようようことばを絞り出す。出たら最後だとわかっていた。二度と秋野さんは俺に会ってはくれないだろう。
そうなれば、俺は明日の朝には見事に溶けて、下水に流れ込んでいるはずだ。
「あ……れ?」
ふと、俺は妙なことに気がついた。
赤い小さな目覚まし時計を振り返る。もう夜中の三時になろうとしている。
俺が倒れたのは夕方だった。あの直前に、秋野さんにキスしていたから二時間、いや三時間もったとしても、どうして今まで無事だったんだ?
それに、何でこんな夜中に、目覚まし時計がセットされてるんだ?
「大体、三時間ごと、みたいだから。夜中に眠ってたらわかんないだろ。でも、心配で結局眠れなかったよ」
まるで、俺の疑問に答えるように、秋野さんが小さな溜め息をついて呟き、改めて俺を見つめて尋ねた。
「もう、大丈夫なの?」
そのことばの意味がわかるまで、かなりの時間がかかった。
「秋野…さん?」
俺があんまり間抜けた顔をしていたんだろう、秋野さんはくす、と苦笑してこちらへ近づいてきた。
「本当はなんて呼ばれてる? 生まれた星じゃ、そんな姿じゃないんだよね。今だって悪くないけど元の姿も結構気に入ってる。見たことがないぐらいきれいな深いブルーだった」
「俺…?」
心を支えていた克己心みたいなものが、音をたてて崩れていくのがわかった。
「覚えてないみたいだから、教えたげるよ。あんたは昨夜運び込まれてから、二回、人間じゃなくなってる。あえていえば、コバルト・ブルーのスライム、かな」
俺は、秋野さんの前で、戻ったのか。
ひんやりとした恐怖が体を貫いていった。
ただでさえ『密約』してくれにくいのに、そんな姿を見たら、たいていの女性なら二度と関わりたくないと思うだろう。
それで、さっき秋野さんが取った行動の意味がわかった。秋野さんは俺がまた『コバルト・ブルーのスライム』に戻っていないかを確かめていたんだ。
よほど強ばった顔になっていたんだろう。秋野さんはなだめるように言った。
「一番初めは悪いけど、逃げかけた」
……やっぱり。
それが普通だよな。
落ち込んだ俺の耳に、ふいに優しくなった声が届く。
「そしたら、あんた、小さな声で呟いたんだ。『おかあさあん、おとおさあん、ぼく、しんじゃう』って」
顔に見る見る血が上っていくのを感じた。
誰も知らないはずの俺、それを秋野さんに見抜かれて、嬉しいのか恥ずかしいのかわからなくなった。
「あんたが運び込まれたときに、やたらとキスしたがったから、ひょっとしたらと思ってさ、ちょっとキス、してみたんだ。そしたら、見る見る元に戻ったよ。えーと、だから、服が脱げてる」
秋野さんは少し赤くなった。
「キス、してくれた?」
「うん」
「スライム、なのに?」
秋野さんはふんわりと笑った。
「ほっとけないだろ、ほんとに、ちっさな、ちっさな男の子の声だったんだ。そのときも泣きじゃくってて、とてもつらそうだった」
俺は胸が一杯になった。
「どうしてここにいるの? 何で、その、えーと、故郷の星に帰んないの?」
秋野さんは次のことばを少しためらってから、それでも、そっと優しく囁いた。
「どうして『あたし』が必要なの? 全部話してくれるなら付き合ってもいいよ、近江と」
秋野さん。
この人が俺の本当の『密約』者なんだ。
俺はそのとき、故郷から遠く離れたこの星で、自分が正しい『密約』の相手を選んだことを悟った。




