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視界が少し明るくなって、ネームプレートが読めるようになった。
『秋野太一』
「あきの…たいち」
「おうよ、わしの名前だ。するとおまえか、ひかりの同居人って。ちっ、つまんねえのを乗っけちまったな」
運転手はいきなりふてくされた顔になった。茶色に見えるぐらいに日焼けした男っぽい顔が大っぴらに不快そうにしかめられる。
「同居…人?」
(何のことだ?)
「まあよ、乗せちまったもんは仕方ねえし、これも仕事だしな。日光アパート、連れてってやるよ。まあ、あいつもな、死んだニョウボに似て、いい出したらこっちのいうことなんか聞かねえし、へたなことすると、怒りやがるしな。また、これが、扱いにくいんだよ、怒るとよ」
運転手の言っていることは半分もわからなかったが、一つだけようやく頭の中に形を成したものがあった。
「秋野さんの…おとうさん?」
「お父さん、だあ? いい気になんなよ、まだ早えぞ、おまえを認めたわけじゃねえんだからな」
むっとした顔で乱暴に車を発進させられて、俺は座席にのけぞった。無防備な背中をシートに叩きつけられ、呼吸が止まる。
支えがなくなっている体が保てるわけはなく、そのまま横倒しにシートに崩れたのに、相手はぎょっとしたようだ。
「おう、ほんとに大丈夫か? どうしたんだよ、一体」
それはこっちが聞きたいと思ったが、口さえも動かない。のろのろと足を探った手がぬめっとした液体に触れて、体の内側から凍りついた。
(ほんとに、もたない?)
爆発音。俺を呼ぶ父母の声。
(いやだ、そんなの)
荒い呼吸を繰り返し、流れ出していく気力を止めようしたとたん、胸を傷めるような鮮やかさで秋野さんの笑顔がよみがえってきた。
(秋野さん)
せめて、もう一度、秋野さんに会いたい。
「おい、着いたぞ!」
気持ちが少しは支えてくれたらしい。秋野さんのおとうさんが慌てた様子でドアを開け放ったときには、何とか足を再生できていた。
「どうしたって…歩けねえのか? これ…靴……靴下まで脱いだのか?」
秋野さんのおとうさんは、いぶかしそうに眉を寄せながら、支え起こしてくれた。そのまま、ぐったりした俺の体の重さによろめきながらも、アパートの方へ引きずるように連れていってくれる。
「ったく…何を食って…でかくなりやがったんだ…ここまで」
はあはあとあえぎながら、相手は俺を一〇六号室へ引きずっていった。
「おーい、ひかりい! 開けろ!」
結構響く大声に、慌てたようにドアの向こうで人の気配が動いた。
「なあによ、急に今ごろ…近江?!」
出てきた声の主が、父親ではなく俺を見てとんきょうな声を上げる。
(秋野さん)
「どうしたの!」
「こっちが聞きてえよ、大学前で気分悪そうにしてたから…それより、わざわざ娘の同居人を連れてきてやったんだから…おい!」
止まらなかった。
秋野さんの声を聞く前から、その存在の波動とでもいうようなものを、俺の体が感じていた。
生涯ただ一人の『密約』の相手。
そして、俺はその相手から離されて、今にも死にそうになっている。だから。
いや、本当は、そんな理由なんか後でつけたようなものだと思う。
秋野さんが姿を見せたとたん、足に力が戻った。秋野さんのおとうさんの支えを振り切り、両手を伸ばして秋野さんを抱き締める。
いつかの公園の噴水の水のように。
きっと彼らも秋野さんをこうしたかったに違いない。
俺は秋野さんの顎を押し上げて、あっけに取られて開いているその唇に、自分の唇を押しつけた。
次に味わったのは、めまいがするほどの幸福感と安堵感だった。
(もう、死ななくていい)
もう、どこへも行かなくてもいい。
俺はここなら生きていける。
俺はすぐに気を失った、経験したことのない喜びに包まれて。




