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「う…ん」
気がついたのは、あたりが夕闇の中に沈みきってからだった。
体中が冷え冷えとして、寒さで凍りついてしまったような気がした。コンクリートの塊のような足を引きずり、ようやく立ち上がる。
何とかしてアパートに戻りたかった。
俺達の仲間で他の生命体と『密約』したものはいない。
そんなことができるとも思われてなかったはずだ。
(本当に『密約』だったのかな)
もし、『密約』でなければ、あの衝撃やこの寒さは何なのか。
(確かめることはできる)
『密約』の始まりには、お互いにかなり緊密な『接触』を必要とするはずだった。生きていくためのエネルギー補給の方法が、それまでの外部からの物質によるものから全く違う形に移行するためだ。一日二日は、二、三時間おきに一回の『接触』がなければ、急激に体力を失い、死に至るはずだ。
もし、このままアパートに戻って、そのまま動けなくなり死んでしまうなら、俺は秋野さんに『密約』されていることになる。
けれど、万が一、ただ疲れ切っているだけなら、俺は明日の朝には多少なりと回復しているはずだ。あの秋野さんとの出来事は何だったのかと悩みながら。
「く…っ」
だが、頭の中とは違って、体の方は全く自由にならなかった。
机に寄りかかって壁に手をつき、ドアを開けて廊下に出る。そのまま、かたつむりがはうようなのろのろとした動きで、大学の門を出て行くまでに、一時間以上かかった。電車に乗れないばかりか、駅までもたどりつけないことは明らかだった。
揺らめく視界を必死に瞬きして目をこらし、大学前の道路をするすると近づいて来る一台のタクシーを見つける。
手を挙げて、タクシーが止まってくれるまでに、二度、ひどい波が襲ってきた。
頭の上から足の先へと命が引きずり出されるような脱力感で、座り込まないようにするのも苦労した。転がるようにタクシーに乗り込んでも、すぐに行き先が告げられない。
「お客さん、どうしたんです?」
バックミラーの中から、いぶかしげな不安そうな顔が尋ねた。
「具合悪いんなら」
降りてくれ、といわれるだろうかと一瞬肝が冷えた。
「病院、連れてきましょうか。この時間でも見てくれるところ、知ってますぜ」
ほっとして、俺は首を振った。乱れる呼吸を整えて、かすれる声を絞り出す。
「三田……霜橋町……日光アパート」
「日光、アパート?」
運転手はなぜか妙な繰り返し方をした。
「そこに住んでるんですかい?」
なぜ、そんなことを気にするんだろう、と思った次の瞬間、意識の全てを根こそぎさらうような波がやってきて俺はうめいた。
「ぐうっ」
足がいきなり形をなくした。ぐにゃ、と不安定な感触と一緒に支えがなくなり、靴下をいれたままで、靴が床に脱げ落ちる。
ごとん、と無機質な嫌な音がした。
「お客さん?」
前の座席の方へ崩れ込んだ俺に運転手は車を止めた。
「ほんとに大丈夫ですか?」
俺は首を振った。
このままでは、タクシーの中で『原型』に戻ってしまう。
同時に、自分が秋野さんに『密約』されたことがはっきりわかった。そして、それが、どれほど追い詰められた状況かも。
俺がいる『この世界』では、普通は、恋愛関係にあるか、それにかなり近い親密な関係でないと、キスしてくれとはねだれない。
いわんや、一方的に襲ってキスした場合には痴漢とか変態とかいわれてはねつけられるのが常だし、それでも諦めずに追い回せばストーカー扱いされるはずだ。
だからといって、他でもない、秋野さんが俺の望む通りにキスしてくれる可能性なんて、ほとんどない。それも一回や二回ではすまないのだ。少しの間とは言え、二、三時間おきのキスなんて、恋人同士でもしないだろう。
けれど、それなしでは、確実に俺は死ぬ。
暗く澱んでちかちかする視界に、俺をポッドに押し込めた父親や、爆発する宇宙船の中で笑っていた母親の顔が交錯した。
(あんな状態で助けてくれたのに、俺はこんなところで死んでいくんだ)
悔しいとも悲しいともいえない思いで胸がふさがった。
「秋野…さ…ん」
答えるはずのない『密約』の相手を呼ぶ。
呼吸が涙にせり上がって体が震えた。
「秋野? 今、あんた、秋野っていったか?」
運転手がふいに間近で声を上げて、薄れかけていた意識を引き戻された。
「あんた、日光アパートっていったな? 今の秋野って、日光アパートの秋野ひかりのことなのか?」
俺は顔を上げた。
運転手の顔はかすんでよく見えない。
(秋野さんを知ってる?)
助手席のところにある顔写真と、その横に書かれている名前を必死に読み取ろうとする俺の耳に、運転手の声がもう一度響いた。
「もしかして、あんた、近江とかいう奴か?」
(俺の名前?)
俺はのろのろとうなずいた。




