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「百九十二、あります」
「あたし、百六十だよ」
唇をとがらせる、その仕草が何だかとっても可愛いと思えて、俺はまぜっかえした。
「文句あるんですか?」
「文句つけたら、縮んでくれる?」
「……縮みませんて」
くすくす笑う秋野さんに舞い上がっていた気持ちが一気に冷えた。正体を知っているのかと思ってひやりとしたせいだ。
(そんなことがあるはずはない)
いくら秋野さんが『異常現象』に興味があるといっても、『地球』に既に宇宙人がいて、しかもそいつが目の前にのっそり立っているなんて、さすがに思いつきはしないだろう。
「それより、何ですか、用って」
「んー?」
秋野さんは俺をからかって満足したのか、机に戻って広げていたノートを見ている。それきり、俺のことは忘れてしまったかのようにページをめくる。
「朝のこと、って言ったんでしょう、村西に?」
あんまりそっけなくふるまうんで、つい、側に寄って話しかけると、秋野さんは唐突に顔を上げた。さっきよりずっと距離が近くなったことに気づいたが、もう身を引くことさえできなくなっていた。何だか、秋野さんの磁力にからめとられたみたいだ。
「朝、どうして逃げたの?」
秋野さんはいたずらっぽい目で尋ねてきた。
「逃げた、なんて」
図星をさされて一瞬、ことばに詰まった。
こういうところがこの人は妙に鋭くて困る。
「秋野さんこそ、何をしてたんですか」
ようやく切り返すと、
「うん」
秋野さんはにっこり笑った。邪気のない、澄み切った笑顔だ。
「水と話せないかな、と思ってさ」
さすがにびく、と無意識に体が固まった。やがて体の中心に炎を投げ込まれたような気がしてきた。
ゆらめき、広がる、炎の色は青だ。
青と金の『恋愛濃度』の色。
「SF映画じゃあ、液体型の生命ってあるじゃないか? 小説で水みたいな生命体が書かれている。だからひょっとすると、この地球上にある水の中には、そういう奴がいるのかなっと思ってさ。けど」
くすくすと秋野さんは笑った。
「あの公園の噴水の水はそうじゃなかったみたいだ。それとも、あたしと気が合わなかったのかもしれないな」
揺らめく感覚とは別の衝撃が俺を襲った。
(液体型の、宇宙人と、話そうとしたって?)
秋野さんが今やっているのはまさにそれだといったら、どんな顔をするだろう。
そう思った次の瞬間だった。
「近江?」
「は? あ、んっ!」
自分がまずい位置にいることを忘れていたわけじゃなかったが、液体型宇宙人と話そうとした秋野さんなら、ひょっとして俺のことをわかってくれるんじゃないか、そんな期待が動いたのも確かだった。
その一瞬のすき、拒む間も避ける間もなく、体を起こした秋野さんが跳ねるような早業で、俺の唇を奪っていったのだ。
体を強烈な光が走って、頭の中が真っ白になる。
(今の、今のって)
「よおし!」
俺の狼狽に全く気づかずに、秋野さんは片腕をつきだしてぐっと曲げ、腕の筋肉を誇るような仕草をして上機嫌で喜んだ。
「近江潤のキス、もーらいっ」
体が震えてきた。
頭が熱くなり、それが全身に広がって、震えとともに体の隅々まで駆け巡る。世界がいきなり陽炎の中に放り込まれでもしたように、ぼやぼやと輪郭を失っていく。体の中の青い炎が野火のように全身を走る。
崩れそうになる体を、俺は必死に机にしがみついて支えたが、灼熱の波のようなうねりに体がどんどん飲み込まれていく。
息ができない。
(これが…『密約』…)
「賭けはあたしの勝ちだったなあ。あ、近江にもおごったげるね」
秋野さんがあっさりとそういって、俺は信じられない思いで相手を見た。
(賭け、だって?)
声が声にならない。
今すぐにでもとろけて、原型に戻ってしまうのをこらえるのが精一杯だった。思考も感情も竜巻の中に投げ込まれたようにみるみるかき乱されて、いっそこのまま我を失って倒れた方がましな気さえした。
そんな状態なのに、すぐにでももう一度、秋野さんの唇が欲しくて、その衝動が背骨を貫いて吹き出しそうだ。机から手を放せさえしたら、確実に秋野さんを押し倒している。
「あんたときたら、頭がよくて顔がよくて、ガタイもよくて人もいいのに、女にはやたらと冷たいでしょう。だから、ターゲットになっちゃったんだよ。あ、それとも」
秋野さんはふいと生真面目な顔になって俺を見た。
「ひょっとして、男の方がよかったのかな。それなら、悪かったな、ちょっとまとまったお金がほしくてさ。今すぐ、うがいしてきてもいいよ?」
(違う)
俺はのろのろと首を振った。
(それどころじゃなくて、あんたが、あんたのキスが)
やっぱり声は出なかった。
「女でいいのか。じゃあ、まあちょっとしたアクシデントだと思ってくれるといいかな? これからは気をつけんだよ、かなり狙われてるから。じゃね」
とってもうれしそうに部室を出て行く秋野さんを俺はにらみつけた。振り返りもしない華奢な姿、もし、今俺が背中から襲いかかって抱き締めてしまえば、すぐに全てが手に入れられそうな後ろ姿を。
これから、だって?
あんた、俺にとんでもないことしちまったんだぞ。
俺はがくがく震えてくる体をきつく抱いてへたりこんだ。周囲に起こっている全てのことが、何十倍もの刺激に増幅されて、体の中になだれこんでくる。
だめだ。
秋野さんに『密約』、された。
俺はもつ、だろうか?




