4
「おうい、近江」
聞き慣れた声に呼び止められて振り返った。
予定の講義は終わった。不安定なときには、学内にいるのがつらい。さっさと家に帰ってしまおうと思っていた矢先のことだ。
「帰るのか?」
村西がハスキーというよりはガラガラした声で笑っていた。
「ああ」
「どこかのきれーなおねーさんとお出掛け、って気にはならねえのか?」
ひょいと片手に数枚のカードを差し出して見せる。俺はうんざりした。
「やるよ」
「やるよって、オレがもらっても仕方ねえだろ? 全部『近江潤』あてだぞ」
受け取って、村西の手前、目を通して見る。
メールアドレスつきのテレフォンカード、写真つきの薄い手紙、どこかの店のチケットにハートマークつきのメッセージ、コンサートや映画の券とメッセージカード。
俺は携帯電話をもっていない。確かに連絡はこういう方法でしかとれないだろう。
「この中に、お前の気に入った相手っているのか?」
俺は村西の笑っている気のいい目を見返して尋ねた。
「いねえけど、いても、本命がおまえじゃ勝ち目ってものが……あーあ」
俺が名前を確認もせずにゴミ箱に放り込んだのを、相手はあきれ顔で見た。
「もったいねえな」
「興味ない」
「興味ないっても…もったいねえだろ、カード代。売ればいくらかになるぜ」
そっち側のもったいないか、と俺は思わず吹き出した。
「だけど、こっちは断れねえな」
懲りたふうもなく、村西はもう一枚カードを取り出した。
それも見るまでもない、ゴミ箱へ捨てようと手を伸ばした俺に、違う違うと首を振って文面を読み上げた。
「秋野ひかりからだ。部室に来てくれって」
「秋野さん?」
朝の噴水の光景が過り、胸の鼓動がいきなり予想もしていなかった激しさで跳ね上がって、俺はうろたえた。
「何だか、話があるんだってさ、朝のことで」
「朝のこと」
体が見る見る熱くなる。濡れて光っていた桜色の唇が視界に重なって、無意識に唾を飲み込んだ。声が不安定に震えるのを堪える。
「何だ? おい。秋野が趣味だったのか?」
村西がぽかんと口を開けて俺を見る。
「そんなんじゃない」
俺は慌てて否定した。
(そうとも、そんなはずはない)
『恋愛濃度』の『接触』は、身体的なもののはずだ。見ただけでこんな状態になるなんて、聞いていない。けれど、体は勝手にあやしい揺れを生み出し始めている。それを何とかごまかそうとして、俺は向きを変えた。
「わかった、いってくる」
「相手は秋野だぞ、襲われんなよ」
後ろから村西が投げてきた冗談にさえ、一瞬、それでもいい、なんて思ってしまって、俺はくらくらした。
こんな状態のときに気になっている相手に会うなんて自殺行為だ。ここは故郷じゃないし、俺は人間じゃないんだぞ、バカなことするんじゃない。
そう何度も繰り返して向きを変えようとしたけど、気がつけば吸い込まれるように部室に入っていた。
「あ、そこ!」
ごん。
秋野さんの警告は遅かった。俺は、入り口近くの棚から突き出ていた板に思い切り頭をぶつけていた。
「あつつっっ」
額を押さえてうめいていると、
「あいかわらず、でっかいな」
秋野さんが笑いながら、座っていた机から立ち上がって、様子を見に来てくれた。卵形の顔にぽっちりと赤い唇がまるで磁石のように視線を引く。とっさに目を逸らせて答える。
「こんなところに妙なもの置いとかないで下さいよ」
「そこにあるのにぶつかるの、近江ぐらいだろ」
楽しそうにくすくす笑っている。
「百九十はある?」
秋野さんは気づいたふうもなく、俺をひょいとのぞき込み、白くて細い指で俺の額のぶつけたあたりに触れた。じり、と指先で焼き印が押されたような気がして俺は体を引いた。
(『密約』? いや、違う)
初めてのことのはずなのに、そう、感じた。感じた瞬間に、舌打ちするような残念さが滲みかけて、慌てて思考に集中する。
(無視しようとするから、かえって気になるのかな。それとも、こいつの体が反応しやすいとか)
『地球人』で『恋愛濃度』を体験したような仲間なんていないだろうし、と考えて、自分が未曾有の事態というやつに遭遇していると気づく。
(ひょっとして、『密約』の経験自体も違うかもしれない)
意外に、そうだ、『地球』でも発情とか言われている状況ぐらいですむのかもしれない。
(それなら、秋野さん相手なら、ちょっと考えてもいいかも)
そう考えると少し気が楽になって、秋野さんに目を戻した。




