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突然、妙な声が響いた。
秋野さんが通り抜けて行く、表玄関に向かう通路に交わっている廊下で、二人の男が棒を突き刺された人形みたいにぽかんとした顔で立ち竦んでいる。
一人は石崎、一人は氷川。
石崎はあっけにとられた顔から見る見る顔を赤らめて憤怒の形相になった。
「氷川ぁ、てめえぇ」
押さえた声で怒鳴りつけ始める。
だが、氷川は、聞いていなかったに違いない。
氷川は笑っていた。秋野さんが堂々と、平気な顔で、自分達の前を通り抜けて行くのを見ながら、石崎に怒鳴りつけられながらこづかれながら、なんだか妙にふんわりとした顔で笑っていた。
何が秋野さんに聞こえたのだろう。
それはきっと、石崎の怒鳴り声ではなかったはずだ、秋野さんは呼ばれたみたいに、まっすぐに氷川の方を向いたから。
不思議で奇妙な一瞬が通り過ぎた。
石崎の声も周囲のざわめきも、ふいにどこかへ消え去った、時が止まった瞬間。
秋野さんが氷川に笑いかけた。にっこりと、鮮やかに。
正義を誇るわけでも、自分の強さを見せつけるふうでもなく、ただ、当たり前の結果を手にいれただけのように。
その笑みを、氷川が受け止めた。
まるで、一つの芝居があって、舞台の上で約束された出会いのように。
氷川はゆっくりと秋野さんに頭を下げた。それから、怒鳴り続けている石崎にもバカ丁寧なお辞儀をしてくるりと向きを変え、石崎を残して一人、廊下を静かに歩み去って行った。
氷川の中で何かが起こって、何かが永久に変わったのだ。
きっと、もう、ここへは帰らないだろう。
そんな気がした。
『この命はあなたに生かされています』
その氷川と秋野さんに重なるように、はるか昔に聞いた懐かしい声が、俺の体の中一杯に響いた。
『この命はあなたに生かされています。だから、決してあなたの命を奪うことに使うことはありません。あなたの命を守るために、支えるために、育むために、そして、あなたの命につながるために、わたしはこれから生きていきます』
それは約束のことばだ。
遠い故郷の星でさえ、もうおとぎばなしになってしまった、『密約』を交わすときに互いに誓い合うことば。『密約』を交わす相手に、そして、相手と自分を支える命すべてに誓うことば。
小さかった俺が覚えているはずもなかった、約束。
氷川もまた、何かの約束を思い出したのだろうか。
あるいは、命の底に流れている、聖なる約束のことばを。
(大丈夫、もう大丈夫)
秋野さんはささやく。
スライムの俺に。
あるいはまた、水に還ってしまって、地球の中を漂う俺に。
秋野さんはいつも俺を見つけ、囁いてくれる。
あなたがそこにいることを知っている。
あなたがそこで私を守っていてくれることを知っている。
あなたがどれほど私を愛してくれているかを知っている。
だから、私はいつもあなたを見つけ、あなたに笑いかけ、あなたを呼ぶ。
(大丈夫、もう大丈夫)
ここが俺の居場所。
秋野さんは、氷川が去って行ったのも気にしなかった。歩き続け、受付のおばさんの不審そうな顔にしたたかな笑顔まで返して、南大路製紙の大きなガラスの自動ドアを出た。
すれ違うサラリーマンや作業服の業者の間を擦り抜け、表の正門を出たとたん、
「走るからねっ、近江!」
秋野さんはダッシュした。
「落ちたりしないでよっ!」
ぎゅっ、と強く抱き締められながら、どんどん跳ね上がる秋野さんの心臓の音を、俺は初めて何の不安もなく味わい続けた。




