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(あつつっ)
壁を伝い降り地面にたどり着いて、なおもゆっくり移動していきながら、思わず呻いた。
考えていた以上に不快な感触だった。
肌に直接砂利だの石だのを擦りつけられる。雨のせいで多少は楽なのかも知れないが、過敏になっている感覚をおろし金みたいなささくれたもので擦りおろしていくようだ。できるだけ人目につかないように薄く平たい状態になって、物陰から物陰へと流れて行こうとするせいかもしれなかった。
大学を出て、道が雨に濡れているのを幸いに速度を上げ、裏道へと入っていく。
と、いきなり野良犬に吠えられて驚いた。
ぐ、うわん、うわん、と、首の辺りの毛を逆立て、野良犬は全身を硬直させて怯えて吠えている。目は血走って俺を凝視し、今にも飛びかかってきそうだ。
(何がそんなに怖いんだ?)
襲われそうな気配に動くこともできなくなって、俺は混乱して考えた。
野良犬の体は震えている。できればここから逃げ出したい、そんな感覚が濡れた地面を伝わってきた。
同じことを考えている。俺を見て、恐怖に脅えているのだ。
野良犬の眼をじっと見返していて、ようやく俺は気がついた。
あまり擦りつけられる感覚が痛かったから、つい体をかばったのだろう。俺はいつの間にか、体の下にあるさまざまなものを巻き込むように膨れ上がり、ゴミ用ポリバケツ一杯分もありそうな、うごめく青黒い巨大スライムになりつつあったのだ。
慌てて意識を散らし、巻き込んだものを体の外へ押し出しながら、のたのたその場から逃げ去る。
野良犬はもう近づくのさえ恐ろしかったのだろう、吠えるだけで追っては来なかった。
人間に出くわしていたら事だった。いくら雨が降っていて視界がかすんでいるとはいえ、子どもぐらいのねとねとした青い塊が、なめくじのような光る筋を残しながら移動して行くのを目にしては、今の野良犬どころじゃない、もっと派手な騒ぎになっていただろう。
不要物を押し出しながら、同時に体のいくらかも失い、ようよう道路の端の溝に雨水と一緒に流れ込んだ。
ひどい臭い、ひどい場所だった。
ずいぶんと長く滞っていたのだろう、水の流れ自体がねっとりと半分腐っているようだ。まとわりつくようなぬるぬるした感触、むかつくような特殊な溶剤を思わせる酸味の強い臭いが満ちている。
流れ込んで来る雨水に僅かに動きを取り戻した水は、俺をのろのろと先へ押して行く。溝のあちこちにたまっていたガムの包み紙や泥、べったりした金属臭の強い油のような塊が俺に押し寄せ、体の中に入り込んでこようとする。
不愉快な臭いと得体の知れない腐敗物に、感覚も体も侵されて飲み込まれていきそうだ。
(くそ)
俺は必死に感覚と体を周囲のものから切り離そうとした。不快な刺激から自分を守ろうと体の密度を上げ、粘度を高めて丸くなる。だが、そうすると、より固体に近くなって、雨水程度のゆるやかな流れでは溝の中を移動できなくなるのがわかった。
溝はところどころ蓋が外れていて、地上の道から中が見える。もし、晴れていたら、この辺りをうろうろしている子ども達に見つかって、棒みたいなものでつつき回され、死ぬまでおもちゃにされたかも知れない。
なんだかふと、『浦島太郎』の話を思い出してしまった。あれも意外と亀そのものが宇宙人だったのかもしれない。
もう一つ、周囲から自分を遮断してしまうと困ったことがあるのがわかった。
回りの不快な刺激から感覚を切り離すに従って、それまでどこへいけばいいか何となく感じていたもの、例の直感のようなものが薄れていくのがわかったのだ。
急いで再び周囲の汚濁の中に自分の体と感覚をさらしながら、その新しい感覚がどこから生まれているのか理解した。
水だ。
この『地球』では、水は何ものにも勝る巨大で豊かな情報源なのだ。
水の中には、自然に起こっている現象はもちろん、人間達がどのような生活を営んできたか、営みつつあるのかが全て記録されていた。地球上にある全ての物質の記録、それだけじゃない、その物質がどのような経過をたどって現在まできたのかの記録、水に触れていたものや命の蓄えていた感情や感覚まで含まれている。
それは、『地球』の過去から未来を含む時間そのものといってもよかった。
俺は本体になって雨に打たれながら、いつの間にか、自分の感覚をこの『水の記憶』に共振させて情報を受け取り、秋野さんを追い始めていたのだ。
気づいた俺は、改めて、もう一度、流れ込んで来る雨を媒体に、溝の中を通り過ぎたものから、南大路製紙工場とその近辺についての情報を意識的に検索し始めた。
南大路製紙の所在地。そこに工場が建設された経過と稼働し始めてからの歴史。現在の状況。出入りしている物や人の動きと流れ。それらにくっついているおおざっぱな感情と思考。それらを丁寧に追いかけていく。
あった。
その中に、一週間に二回、南大路製紙工場の裏、排水口近くのどぶ川べりで、真夜中二時から三時まで、カメラを手にじっと潜んでいた秋野さんの情報も含まれていた。
(秋野さん)
俺は秋野さんに意識を集めた。暗い夜の川の側で、体を緊張させてうずくまっている秋野さんの姿が、ゆっくりと見えてくる。
秋野さんは焦っていた。
宮内に頼まれている仕事に必要な、十分な写真が撮れなかったからだ。いらいらとして川べりの草を引き抜き、小石を落としたりしている。ゆるゆると流れている川の水は、彼女が放っている不安といらだちを感じ取り記憶していた。
そんな夜が何日も続き、昨夜初めて、秋野さんは、南大路製紙工場の排水口から流された不気味な臭いと色の液体を、カメラにおさめることができた。
けれど、そうやって数週間粘っていた秋野さんは目立ち過ぎた。意気揚々と帰ろうとしたところを、いつの間にか工場から出てきた作業服を着た男と、背広姿の険しい顔の男に呼び止められたのだ。
『こんな夜に、こんなとこで何をしてるんだ。ここは、うちの会社の敷地内だぞ』
『知らなかったのよ。夜中にしか動かない特殊な昆虫の研究をしてるの。その昆虫が、この辺りじゃ、ここにしかいないのよ。その虫の生態を記録してるってわけ』
『虫だけじゃないんじゃないか、そのカメラに写ってるのは』
男達は秋野さんの話に納得しなかった。
『詳しい話を聞きたいんだ。警察に届けてもいいんだぞ、不法侵入で。だが、まず話を聞こう、こっちへ来い』
両腕を二人の男に掴まれて、秋野さんはうなだれた。青くなってかすかに震えてもいた。
その縮み上がっていくような恐怖を、俺も感覚を通じて感じ取った。
そのまま秋野さんは工場の中へ連れ込まれてしまった。そして、その後秋野さんは外へは出ていない。
まだ工場のどこかにいるのだ。
秋野さんの死亡を伝える情報がないだけが救いだった。




