20
「遅い」
俺のつぶやきは再び遠ざかった村西には届かなかったようだ。どっぷりとした重い絶望感が胸の中を塗りつぶしていく。
もう一時。エネルギーが持つのはもう一時間もないだろう。
なのに、俺は秋野さんを助けにいくどころか、このベッドからも動けもしない。秋野さんに今何かあったとしても何もできない。あの月旅行で両親を失ったみたいに、今度は秋野さんを失うんだ。
(それでもいいじゃないか)
また、疲れ切った声がした。
(後、一時間もすれば、秋野さんが無事だろうとそうでなかろうと、お前は溶けてなくなるんだ。今回のことがなくても、秋野さんはいずれお前を捨てただろう。お前は秋野さんにとって厄介な荷物、エネルギーを吸い取る寄生虫のようなものなんだから。それが少し早くなっただけのことじゃないか)
『近江!』
目の中の闇に秋野さんの笑顔が突然弾けた。
『文句つけたら、縮んでくれる?』
『おいしいものを食べたら、ちゃんとごちそうさまっていうんだよ』
からかうような、それでも優しい、秋野さんの微笑み。
(やっぱりいやだ)
ふいに強くはっきりと思った。
秋野さんが俺のことをどう思っててもいい。この後、俺を捨ててもいい。けれど。
(俺は秋野さんを捨てたくない。秋野さんは失いたくないんだ)
ともすれば崩れそうな体を必死に保って起き上がった俺は、かすかな音に気がついた。
ぱらぱらぱら。
窓が開いているのだろう、その向こうから聞こえて来る、木々や地面を打つ柔らかくて丸い音。いつの間にか雨が降り始めている。
雨。
曇った灰色の空から、ついに自分の重さに耐え切れなくなって落ちて来る、水の粒。
震えとともに直感のようなものが俺の中を走り抜けた。
俺は手探りでベッドの端を探し、ずり落ちないように用心深く足を降ろした。ふやりと足が崩れて転びそうになったが何とかこらえて、ベッドを触りながらじりじりと回り、窓の方へ、雨の音が強くなる方へ進んで行く。
ベッドから机か何かに、そして、壁に。手を滑らせながら、辺りを探りながら歩いて行く途中で、左足を引き留めるものがあった。右へ左へと足を滑らせて回って行こうとしたが、それはどう置かれているものなのか、うまく避けられない。焦って強引に踏み込むと、左足のふくらはぎに鋭い痛みが走って、いきなり足の一部がもぎ取られた。
びしゃ。
人の体にしてはあまりにも異様な音をたてて、俺の体が床に散った。倒れかけてとっさに窓枠にしがみつき、何とか窓へと体を引き寄せる。
思った通り、窓は開いていた。湿った風が吹き込み、雨のにおいが俺を包む。
ゆっくり深呼吸をした。
保健室は確か一階の中庭に面した場所にあったはずだ。中庭は校舎まわりを囲む芝生とは違って、校舎の間を隔てる通路のようになっている。見事な花壇があるわけでもなく、学生も教師もたまに通り抜けて行くぐらいだ。ましてやこの雨の日、保健室の窓が開いているからなんて、じっと見ている物好きなどいないだろう。
気持ちを決めた。窓枠にのしかかるように体重を移動させ、バランスを保ちながら上半身を外へ乗り出す。そのまま、両手を挙げてだらりと窓の外へ体を倒した。
ぱちぱちぱちぱち。
きつくなってくる雨が、冷たく激しく体を打ってくる。その、体を打つ水、の感覚に意識を集中して一体化し、身を委ね、まず手の形を保っていた意識の膜を切った。
ぷつん。
そんな音が指先でした。夜店で打っている水風船が圧力に弾けて、中の水が一気に外へ飛び出すように、両手が弾けて形を失い散り広がるのがわかった。水とは違って、俺はもう少し粘度がある液体だから、弾けた中身はとろとろと壁を伝って流れ落ちていく。
同時に、目や耳といった五感に制限し頼っていた感覚が、全身に広がった。
周囲の状況が目隠しを取り去られたみたいに明確に『見える』。いや、五感とは違って、もう少し相互に感覚が関連して理解できる全体的な知覚といった方がいいのかもしれない。
意識の焦点の合わせ方次第で、『体』が触れているところならどこでも、見ることも触ることも聞くこともできる。
それはずいぶんと忘れていた解放感だった。
手から腕へ肩へ首へ胸へ下半身へ。次々に意識の膜を切り離しながら、俺は窓の外へゆるやかに流れ出していく。
ひゃあう、と妙にかすれた悲鳴が背後で聞こえた。




