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「はっ」
激しく息を吐いて俺は跳ね起きた。夢の余韻でまだ全身を震わせながら部屋を見回す。
薄いカーテンの向こうから微かな光が差し込んできて、六畳間を照らし出していた。
小さなカラーボックスとオーディオセット、テーブルに飲み残したウーロン茶のペットボトルとコンビニ弁当のゴミ、部屋の隅には脱ぎ捨てたトレーナーにジーパン、乱雑に積まれた大学の本やノート。
壁に立てかけた鏡から、ベッドの上で体を堅く強ばらせて凍りついている俺がこちらを見返してくる。
ベッドをはみ出しそうな長さの手足、ランニング一枚の上半身はほどよく筋肉がついている。乱れた茶色の髪は脱色しているわけじゃない、猫っ毛という奴でふわふわしていて細い。二重でまつげの濃い大きな目は驚くほど大きく見開かれていて、細めの鼻梁にはいささかアンバランスに見える。骨張ったがっしりした手で口元を覆っているから今は見えないが、唇がぷくっとしていて女性的な顔立ち、いわゆる『美少年』タイプ、らしい。もっとも体は大きいから、かわいらしい、という扱いはもうされようがないが。
これが『近江潤』。
十九歳の大学生で、この春二年に進級したばかり、安いがまあまあ小ぎれいなアパートに一人住まいをしている。
けれど、本当の俺の姿は、『地球』ではたぶん『コバルト・ブルーのスライム』に一番近い。
不定形液体型宇宙人とでもいうべきか。
俺と家族は、故郷の大型観光宇宙船『シュダ・アン・アル・バ』に乗り込み、知的生命体の生存が確認されている惑星のすぐ近くの衛星に来ていた。
この衛星には、既に『地球』の生命体がたどりついている。いつ『地球』にいる生命体に見つかるかわからないというスリリングな旅を楽しんでいた。
事故が起こったのは、予定の航行を終えて帰途につき、地球を周回したときだった。
『地球』の外を取り巻いている、本来なら宇宙法違反の多くの不法浮遊物の一つが、突然宇宙船に接触し、航行機能を破壊したのだ。
宇宙船は爆発を繰り返して飛散し、わずかな脱出ポッドで宇宙空間に逃れた仲間もどれほどが助かったのかはわからない。『地球』は辺境地区にあり、宇宙法の及ばない無法地帯だと聞いていたので、詳しい捜索がされる可能性も少なかった。
俺のポッドは幸いにも『地球』の山奥に落ち、そのときから、俺は『地球』人にならざるを得なかった。
「はあ…」
俺は深く息をついて、頭を立てた膝の間に落とした。
「いつまで…見るんだろう、この夢」
体がべっとりと汗で濡れていて、その汗に自分の体がゆっくり溶け出していくようで気持ち悪い。アパートにはシャワーなんて便利なものはついていないから、被っていたタオルケットでごそごそと体をぬぐう。
もう一度周囲を見回すと、またしみじみと溜め息が出た。
『地球』で暮らして五年にもなるのに、夢だけは五年前から変わらない。
むしろ、成長するにつれて、あのとき何もできなかった自分へのいら立たしさが募ってくる。
無理なことだったのだ、と頭ではわかっているつもりだった。
あんなことが起きるなんて、誰も思ってやしなかった。あんな状況で、十分に後悔しないようにやりぬけるものなんて、まずいない。ましてや、俺はあのとき、『成人』もしていないほんの子どもで…。
そのとたん、俺はどきりとして顔を上げた。
何か、胸の内から、体の底の方から、さわさわと波打ってくるような流れを感じる。肌に触れているタオルケットが突然妙になまめかしいような、まとわりついてくるようなものに変わった気がする。呼吸が乱れる。このまま何かにすがりついて、溶け込み、崩れ落ちてしまいそうだ。
俺は、もう一度、鏡の方を見た。
「まさか…」
薄明かりの中ではあやふやだからと、カーテンを開け放ち、鏡をまじまじとのぞき込む。
間違いない。
瞳の奥に、何かきらきらと潤むように光っているものがある。春の光のせいだけではなくて、とらえようとすると消えていく幻のようだが、それらがときどき金の筋のようなものになって瞳の中を蠢くように見える。
「『恋愛濃度』だ」
つぶやくと、まるでそれに答えるようにずきりと体の奥から跳ね上がってくるような感触があった。
「大人、になったんだ」
大人。
父親や母親のように『密約』の相手と生死をともにするような。
(もし、父さん達が生きていたら、喜んでくれただろうか)
その思いは、散らばってしまった父親や宇宙船と一緒に炎の塊に飲み込まれた母親に重なって、切ないようなくやしいようなうねりになって、体の内側を駆けた。
「用心しろよ」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
(こんなところで『密約者』なんて冗談じゃない)
だからと言って、もう故郷に帰れるわけでもなかったが。
俺は頭を振って、もう一度、鏡の中の『近江潤』にいい聞かせた。
「取り返しのつかないことにならないように、な」