10
「俺は…ヴラン、て呼ばれてた」
秋野さんの部屋、女性の部屋にしては、俺のと同じぐらいそっけなくて何もない六畳間の真ん中に敷かれた布団に横たわったまま、俺は話し出した。
秋野さんは片隅で小さな折り畳みの机に肘をつき、コーヒーカップを手にして、じっと俺を見つめている。
部屋には常夜灯のような小さな明かりが一つ、それは秋野さんの考え込んだ頬の産毛を照らしていて、柔らかな温かな気配が部屋中を満たしている。
俺はゆっくりと溜め息をついた。
不思議ともう呼ばれることのない懐かしい名前に伴った記憶をたどるのも、秋野さんの側なら耐えやすいような気がした。
「宇宙船の事故で落ちたんだけど……月旅行に来ていた」
秋野さんがぎょっとした顔になるのに、少し笑って見せる。
「信じるかどうかは別だけど、『地球』の生命体に見つかるかもしれないスリリングな旅として人気だったんだ。『地球』は俺達の星では辺境区にあたっていて、宇宙法も守らない未開惑星の一つで、まだ俺達やその他の宇宙の世界のことを何も知らない。それでも、安全な旅のはずだった、父親と、母親と、俺と」
胸の奥がしくっと傷む。
「家族、がいるんだ」
「いた、んだよ」
俺の訂正に、秋野さんは顔を強ばらせた。
「ごめん…」
「いいよ。とにかく、宇宙船の事故が起きて、いろんなことが重なってしまって、逃げられたのはほとんどいなかった。俺は父さんが脱出ポッドに押し込めて、母さんが『地球』に向けて送り出してくれて…」
ヴラン! と最後の叫びが、もう一度強く耳の内側を打ったような気がして、俺はことばを飲み込んだ。
「だから…?」
「だから」
同情を含んだ秋野さんのことばを遮って続ける。
「『地球』に落ちたのは、五年ほど前になる。今思うと、日本の中央ぐらいの山の中だったのかな。春、だったよ。緑が鮮やかで、側の湖を風が渡ってて」
ポッドは湖の間近の雑木林に落ちた。
そこは沼地になっていて、半分近くめりこんだ機体は爆発することもなく、気がつくと衝撃のせいか、ハッチが開いていた。どれほどそこでぼんやりしていたのか、わからない。開いたハッチの向こうを、黒い影が過って我に返った。
あれは何だろう、と俺は思った。
そういえば、『地球』の生物を直接見たことなんてない。きっと仲間の誰だって、いや、故郷の学者だって、自分の目で確かめたことなんてなかったはずだ。
何せ、『地球』は未知で未開の危険な星でもあったのだから。生物が生存するに足りる環境、しかし、生物は攻撃的で野蛮なものが大半を占めている、と言われてたっけ。
ぼくが見るのがきっと初めてだ。
事故にあって死にかけたっていうのに、家族をすべて失っただけじゃなくて、故郷さえも失ったというのに、何だかわけのわからぬ興奮に襲われたのを覚えている。
苦労してそこから滑り出したとたん、青と緑の世界が目の前に広がった。
地球って、きれいなんだ。
ぼんやりと思った。
風が香気を伴って吹き過ぎていった。
遠い緑の中で、ちちちちっと鋭い鳴き声が上がり、それに応じるように手近の木の枝で、同じような黒い影がちちちちっと声を返した。だが、それで、音はやんだ。
山は静かで、穏やかで、平和だった。
(みんな、いない)
ふいに、何もかもすべてを越えた理解、のようなものが湧いた。
(ぼくは一人になったんだ)
落下の衝撃で打ちつけられた体中が痛みだし、俺は踞り、やがて身をよじって転がった。
辺りは静かだった。さっき鳴き声を上げたものもいなくなり、生き物の気配はしなくなった。
その静まり返った牧歌的な情景の中で、俺はほとんど一昼夜、体の痛みに苦しみもがいた。繰り返す痛みに神経を破壊され尽くした気がして、必死に助けを求めた父母も今はどこにもいないとわかって、俺は心身ともにばらばらになりそうだった。
なのに、次の日の朝、やっぱり目を射るほどの太陽で目覚めてみると、日の光に照らされた鮮やかな緑と青の世界は、やはり本当にきれいだとしかいいようがなくて。
俺は初めて泣いた。
もう、戻れない。もう、誰もいない。
俺はここで生きていくしかないんだ、この目に染みるほどきれいな世界で。
「何もできなかったんだって、わかったからかもしれない。父さんや母さんが必死に逃がしてくれたのに、俺はここでどうやって生きていけばいいのかわからない。何をすればいいのか、わからない。これから、どうなるのか…わからない」
(ああ、そうだ)
つぶやきながら、そう思った。
俺はここにこうしているけど、これからどうすればいいのか、本当にわからなくなってしまったんだ、と。
(大人になったのに。『成人』になったのに)
「近江…」
秋野さんがふいと手を伸ばして、俺の頭に触れてくれた。
「つらいなら…」
「いいよ、つらくても」
俺は少し頭を振って、秋野さんの指を避けた。そのままでいると、果てしなく秋野さんに甘えて泣き出しそうな気がした。
「つらくても、現実なんだ」
強がって、息を吐き、時計を見た。まだ、次のキスまで一時間はある。今度はキスしてくれるかな、と思ったのが伝わったみたいに、秋野さんは小さく咳払いをして、尋ねた。
「『近江潤』は、いるの?」
「うん、いる。というより、いた、といった方がいいよね」
「…あんたが?」
一瞬ためらった秋野さんの問いかけは予想していた。
「違う。けれど、生きてくつもりはなかったみたいだよ。ポッドで苦しんで、その後、そこから離れて湖の方へ行ったら、俺の目の前で水に飛び込んだから」
「自殺?」
「う…ん」
俺は口ごもった。




