なまえのないかいぶつ
その窓が見えるのに気付いたのは、偶然館の最上階の倉庫に立ち入った時だった。
その物置のなかでも窓の見える部分は限られていて、しかも窓は固く鎧戸が閉まっていた。
窓はとある塔の採光のためのものらしかったが、長年使用された形跡は無さそうだった。
ぼくはその塔が罪人を入れるための、それも重罪中の重罪の者を幽閉するための塔だと聞かされていたが、いったい今は誰が入れられてるのかは知る由もなかった。
塔に窓があることを知ってからぼくは度々屋根裏へとこっそり出入りするようになった、単なる好奇心。
それだけだったし、罪人の管理は異母兄の仕事だったのだ。
「ぼっちゃま? なにを屋根裏に出入りしているのです? あそこには埃を被った大昔の兵の装備くらいしかありません。なにより湿っぽくてお体に悪い、ささ、出て下さい」
窓に興味を抱いて何度か屋根裏の倉庫に出入りしているうちに、ヘルベルトにその事が露見してしまうと僕はそこへの出入りを禁じられてしまった。
暫らく退屈な日々が続いた。
なにせ塔の管理をしている異母兄のシグムンドとは表立って会えない程、互いの関係が悪化していたし、罪人に興味を持っているなどと知れたら、ぼくが変人扱いをシグムンド達から受けることはまぬかれない。
しばらく平穏な日々が続き、ぼくは塔の事も窓の事もすっかり忘れ去っていたのだが――
ところがある日僕は熱を出して寝込んだ。
高名な医師が何人も呼ばれ、検討が重ねられたけれど、結局流感と診察は下され、苦い薬を沢山飲まされた。
――その晩、真夜中に目が覚めた僕はまだ熱に浮かされていた。
そのとき愚かにも、最上階の屋根裏で月の光でも浴びれば、ひんやりとするんじゃないのか? と、思った僕は誰もいないのを確認すると裸足のまま、屋根裏へと続く階段を昇りはじめていた。
途中誰とも遭わなかったし、倉庫は意外にも施錠されてはいなかった。
軋む板張りの床を歩いてゆくと放たれた窓から差し込む星あかりが、屋根裏を照らしていた。
月はどこだろうか? そう思い、不意にあの窓の見える部分を見遣ると鎧戸は開いていた。
そこにいたのは罪人などではなく、この城では一度も見たことのない、白い絹の寝巻きを着た赤い眸の少女であった。
彼女は窓辺からやや身を乗り出して、しどけなく外を見ていた。
ややつり上がった目、薔薇の蕾のような唇、白磁のような肌。
黒い髪は絹糸のように寝巻きに零れ落ちている。
彼女は月を視ているに相違なかった。
まるで月から来たかの様に――!
その目線が徐々に下へ降ろされてゆき、地上にいる僕と、遂に僕と彼女の目が合った。
すると彼女は悪戯っぽく笑い、何かひとこと言ったのだがそれは聞き取れす、直ぐに鎧戸を閉めて閉まった。
忽ち僕は彼女に恋をした事に気付いた。
あの未知の少女はいったい誰なのだろう?
この城には未だ僕の知らない秘密があったのだ。
少女の事を考えてぼくはふわふわとした、しかし幸せな床で眠りに就く。
「ぼっちゃま、熱の割には機嫌が麗しいようですな。好い夢でも見ましたか?」
翌朝、ヘルベルトは上機嫌のぼくを訝しがったが、ぼくは知らぬ存ぜぬだ。
「そうかい? 確かに好い夢は見たかもしれないな、でもまだ熱は下がらないみたいだ」
「城下では流感で沢山の民が死んでいます、ぼっちゃまもゆめゆめ気を付けなさるよう」
昼は退屈なベッドでぼくは熱に喘いでいたけれど、少女の事を思うと少しは幸福な気分に浸れたのだ。
その晩も僕の熱は下がらず足は宙を踏み、しかしぼくは彼女にまた逢えるのかしらんと、屋根裏へと夜半になってから抜け出した。
相変わらず誰とも遭わなかったし、倉庫は鍵などかかっていなかった。
そしてその窓の見える部分へと至ると……
今日は赤い花の髪飾りを付けて黒地に赤い花のドレスを着た彼女が、窓からこちらを見ていた。
まるで着飾ってぼくを待っていたかのように!
すると急に自分だけが寝間着であることが思い出され、ぼくは顔が真っ赤になった。
それを見て彼女は赤い眸を細めて軽やかに笑った。
そして窓にもたれ掛ると、また二、三呟いたようであったがそれは風に掻き消えた。
嗚呼、彼女はどんな声の持ち主なのだろう? 鈴の鳴る様な声に相違ない。
塔の部屋からは薄い絹のカーテンが翻っていた。
これが罪人を閉じ込める塔なものか! そして彼女は残念なことに窓の中の灯りを消した。
――それから、どう部屋にもどったのかはよく覚えていない。
「ぼっちゃま日に日に良くなっていきますね、恢復が早いのは大変結構なことですよ」
ヘルベルトはにこやかに、ぼくへ微笑んだ。
そうだ……治ったらもう彼女に逢う機会は無くなるのではないか? そんな不安で心がもやもやと苦しくなるのだ。
しかし今晩もまた逢えるだろう、ぼくの熱はまだ下がっていないのだ。
「ぼっちゃま? 聞いてますか、ぼっちゃま?」
「あ、ああ、ヘルベルト。それで?」
「――ぼっちゃまはここ二日ほど上の空で嬉しそうです、流感に罹ったのがそんなに嬉しいですか?」
「そうじゃないけど、執務を忘れてゆっくりできるのは嬉しいんだ。平素ぼくは忙し過ぎるからね」
三日目の晩も夜中になってからぼくはベッドを抜け出した。
もう誰にも遭うことなく倉庫に行ける自信もあったし、事実誰一人ぼくの脱走に気付いては居なかった。
窓を見るとまたあの絹のカーテンがふわりと窓を縁取っているのが見えた。
そして今日は青い花の髪飾りを付けた彼女が青緑のドレス姿で、ぼくを待ち受けていた。
あの初めて逢った時のように窓にもたれ掛って、しかし星でも月でもなくまぎれもなくぼくを見ている。
あの赤い目とぼくの青い目が交わった。
その時ぞわりと背中に電流が奔り、そして彼女も同じ気持ちを抱いていると確信した。
何という幸福感! いつまでも彼女を見ていたかったし、実際見ていたのであった。
そしてどれくらい時間が経ったろう? ぼくは倉庫で眠っていた。
塔の窓は閉じられていた。
彼女にはまた明日逢えばいい、そんな幸福感と熱でふわふわとしながらゆっくりと屋根裏から廊下に出ると、そこには鬼のようなヘルベルトの顔があった。
「屋根裏で、何を見ましたか?」
厳し過ぎるそれは質問ではなく詰問といえた。
「なにも……何も見ていない、ぼくは月を見ようとした……それだけ」
「塔は、塔は見ていないと?」
「見ていない!」
「よろしい、では部屋に戻りましょう」
ヘルベルトはにこりともせず、ぼくを強引に寝室へと追い立てるとドアを閉めた。
「陛下は今宵、塔の窓を見てはいない、そうですね?」
ぼくは頷くしかなかった。
「では赤い眸の少女の事は忘れなさい、今後一切」
それだけ言うとヘルベルトは振り向きもせずに、部屋を出て行った。
やはり彼は少女の事を知っていた!
ぼくはまだ熱が下がってないのを自覚しながらベッドへ潜り込むと、彼女に思いを巡らせた。
彼女は何故あの塔に閉じ込められているのだろうか? それにしてはあの罪人らしからぬドレスに手入された美しい髪、年頃の少女が何故?――
それがヘルベルトが彼女を忘れろという所以なのだろう、この城には未だぼくの知ってはならない秘密がある。
忘れられるものか――! シーツに包まるとぼくは泣き崩れたのだった。