プロローグ
プロローグ
いきなり広がる虚空。天頂。また夕方だ。夜でなければ夕方だろう。
不死の日がまた死にかけている。一方には燠。一方には灰。
勝っては負ける終わりのない勝負。誰も気づかない。
――サミュエル・ベケット
1
「生きたいか」と男が訊いた。
雪野雫の、もはや動くことがない身体をまたぎながら。
「君たちは負ける」男は淡々と言った。「彼女は死んだ。残った仲間もいずれ死ぬ。我々は勝利し、世界は君たちの手を離れる」
造船所の天窓は割れていて、大粒の雨がわたしたちをぐっしょりと濡らしていた。雫の身体は動かなかった。口はぽかんと開き、自分を殺した男の顔を空っぽな目が見つめている。そうなっても尚、彼女は美しかった。油膜の張った水溜りの上を、彼女の長い髪が流れていく。揺らぎ、拡散し、そして散る。
雪野雫。わたしの友達。たった今死んだ、世界を守るために戦った女の子。
「生きたいか」男が再び問う。「君は、君たちはまだ子供だ。ここで死ぬ必要はない」
私は雫から目を離した。マスクに隠された男の顔を見つめ、その向こうに浮かんでいるであろう表情を読み取ろうとする。残忍な喜び、興奮、優越感、そして弱者への哀れみ。
彼は正しい。わたしたちはまだ子供で、そして彼は大人だ。大鴉、ヴァローナ。わたしたちの敵。わたしたちが戦い、そして敗北した相手。
全身を黒の鎧で包んだ彼のまわりを、羽の生えた小人が飛びまわっていた。グロテスクな妖精。死の使い魔。絶え間なく撒き散らされる黒い粉が、煤のようにわたしたちに降り注ぐ。
わたしは何かを言い返そうとしたが、声は出てこなかった。自分の身体が震えているのを感じる。鋭い、氷のような死の恐怖が背骨を貫いて動けなかった。立ち上がらなきゃ、と自分を懸命に叱咤する。それでも足は動かない。
雪野雫は動かない。彼女は死んだのだ。それだけは確かなこと。小鳥のような声で笑う雫の姿を、わたしは二度と見ることができないだろう。
「君たちはよく戦った」男は言った。「子供にしては。もう十分だろう。これ以上、命を捧げる必要はない」
立て。わたしは自分に命令する。
仔鹿のようなか細い足で、わたしはよろよろと立ち上がる。鴉のようなマスクをかぶり、両手に低熱線銃を握った男がわたしを見下ろしている。
君は負けた、と男が告げる。
わたしは負けた。
右手の指で、指輪がほんのわずかに脈打っていた。滑らかな銀の台座が美しいルビーの指輪。わたしたちに力を与え、その代償としてこの終わりのない戦いに巻き込んだ、魔法の指輪。
「生きたい」とわたしは言った。
男は何も言わなかった。ただ黙って、恐怖でくしゃくしゃになったわたしの顔を見つめていた。その目はもう、わたしに何の興味も抱いていなかった。
そうしてわたしたちは逃げ出した。それは滑稽なほどに悲劇的な、無様な少女時代の終わりだった。
「姐さん……、姐さん」
華奢な男の手がわたしの肩を揺らしていた。つかの間の眠りから、わたしは目を覚ます。資料の束を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。
「あと五分で到着です。侵入傘の準備をしてください」
そう言うと、フレッドはオレンジ色のバックパックを放って寄越した。
「珍しいですね」彼はどこか嬉しそうに言った。「姐さんが居眠りなんて。疲れてるんですか?」
「当たり前でしょ」とため息。「一昨日までチェコにいたのよ。例の生物爆弾騒動のせいで、もう一月近く休んでない。やっと帰ってきたと思ったら、今度はこれ」
「僕らを恨まないで下さいよ。姐さんを捜査責任者にしたのは局長ですからね」
「まあいいわ。明日は休みをもらったし。さっさと終わらせて帰りましょ」
「本当に大丈夫ですか?」フレッドは気遣うように言った。「ひどい寝顔でしたよ。今にも泣き出しそうな」
「ちょっとね」わたしは曖昧に言葉を濁した。「どうやら夢を見たみたい」
「へえ。姐さんでも夢を見るんですか」
「人間だもの。当然でしょ」
わたしは顔をしかめた。「あなた、わたしを何だと思ってるの?」
「いや、別に」
彼は慌てて誤魔化した。焦った顔がなかなか愉快だ。
「ちょっと意外だったんですよ。姐さんの、なんて言うか……子供みたいな表情が」
「子供?」
「そんな顔でしたよ。小さい女の子みたいな」
「忘れて」私は言って、バックパックを両肩に背負った。「昔の夢を見ていたの。それだけよ」
昔の夢。まだわたしが理由もなく、望みもない理不尽な怒りに身を焦がしていた頃の夢。
当時わたしたちは十四歳の女の子で。
そして魔法の使える女の子だった。天使結晶とAngel Ringの共鳴がもたらす擬似魔術とはまったく違う、本物の魔法。
「それより、時間封鎖のリミットは?」
わたしは夢の名残を振り払い、当面の任務に集中することにした。今のわたしは一望監視官事務局の上級監視官だ。世間知らずな、十四歳の女の子じゃない。胸だって大きくなったし、セックスだって人並みには嗜む。
「あと二時間ってとこですね。結局、失神炸裂弾の使用許可は下りなかったんですか?」
「下りていたら、わたしたちが出向く必要はないでしょ。いくら時間封鎖があるとはいえ、ロンドン郊外に爆弾なんか落とせないわよ」
数年前から時間封鎖と失神炸裂弾の組み合わせは監視局の切り札になっていた。特定区域を通常の時間の流れから隔離する時間封鎖と中規模爆弾が組み合わされば、事実上あらゆる事件を収拾できる。封鎖前に民間人を避難させておけば、巻き添え被害を出す心配もない。
もちろん、倫理的には相当グレーな代物だ。なにしろ、この世界はたった十年前まで、無人戦闘機による空爆に対してさえ難色を示していたのだから。おいそれと使用できるものじゃない。フレッドはこれが不満で、いかにも前時代的なナイーブさの表れだといつも愚痴を言っていた。わたしはと言えば、それなりにクラシックな感性の持ち主だったから、その手のナイーブさに関しては、まあわからなくもない。
前時代。次世代魔術機構が世界を支配し、妖精の技術があらゆるアナログ工学を駆逐する前の世界。
「それに、わたしたちの任務は彼の暗殺ではなくて身柄の拘束。ようやく見つけた重要参考人に傷がついたらどうするの」
「非殺傷爆弾だし、平気ですって」
「万一ってこともある」わたしはため息を吐いた。「相手は六十歳近い老人なのよ。脳に後遺症が残ったら困るでしょ。そんなことになればウェブスターが発狂する」
「それはわかりますけど」
納得できないというように、彼は口を尖らせた。ウェブスターはMMSの局長で、極度の仕事依存症として有名だった。
「元気がないわね」わたしはまだ若い部下に声をかける。「身内の逮捕は気に入らない?」
「まさか。相手は一〇〇人以上を死なせた精神病質者ですよ」
マイケル・ラザフォード。それが今回の標的の名前だった。ケンブリッジ大学の元教授で、専門は生物物理学。生命現象を量子力学的なアプローチで考察する量子生物学の大御所としても有名な人物だ。もっとも、それがどういう学問なのか、わたしにはよくわからなかったが。たぶん、有栖が生きていれば詳しく教えてくれたことだろう。
ラザフォードは半月前まで、チェコにあるクラーロヴェ魔導生物学研究所の所長を務めていた人物だった。NEWMが運営する研究所の一つで、天使結晶のエネルギーが生物に与える影響を研究している。少なくとも、表向きはそうだった。問題は、彼らの研究チームが少なくない数の人体実験を行っていたこと。詳細は伏せられたままだが、かなりの数の生体サンプルが押収されたという話も聞いている。だが、それに輪をかけて最悪だったのは彼らが秘密裏に行っていた研究の内容だった。
生物爆弾。熱や爆風による被害は一切なく、生物のみを確実に消し去る最悪の兵器。ラザフォード博士率いる研究チームが秘密裏に作ろうとしていたものはそれだった。コンセプトは中性子爆弾と同じだが、その規模と確実性の観点から言えば凶悪度は遥かに上だ。天使結晶の持つエネルギーを使い、生物を素粒子レベルまで分解して存在そのものをこの世から抹消する。実際の開発に成功したという話はこれまで聞いたことがなかったが、こうして一望監視官事務局が動いているということは、おそらく博士の研究は完成に近いところにまで来ていたのだろう。
「現段階では博士はただの容疑者よ。それに、彼が誰の指示で動いていたのかも突き止めなければ」
「次世代魔術機構が人体実験を認めているって言いたいんですか?」
フレッドが眉をひそめる。
「そんなに驚くことでもないでしょ。人体実験くらいナチスだってやってたわ」
「そりゃ、連中は極悪人ですからね。二〇世紀最大の汚点です」
フレッドはそう言って鼻を鳴らす。彼はまだ若い。自分が属している世界の本性が善良なものだと本気で信じているのだろう。もっとも、それ自体は人間として健全な感性だから、そのことで彼を責めるわけにもいかない。わたしは短くなった燃えさしを灰皿に捨てると腰を上げた。
「そうかしら。監視官なんて名前はついているけど、わたしたちだって秘密国家警察と大して変わらない。イヴァン・ベイリスの昔の呼び名を知ってる?」
「最高顧問の?」
彼はわたしが次世代魔術機構最高顧問官の名前を出したことに驚いたようだった。
「いえ、知りませんね。研修じゃ教えてくれませんでした」
「大鴉よ」とわたしは言った。
ヴァローナ。雪野雫を殺し、わたしたちから魔法の秘密を盗んだ男。
唇についた灰をぬぐい、時計に目をやる。射出まではあと二分といったところか。詳しい話を聞きに操縦席に向かう。コクピットでは、顎髭を生やしたクマのような大男が琥珀色の液体を飲みほしているところだった。
「酒臭いわよ、マジャール」
腕を組み、呆れた声で男の名を呼ぶ。任務中の飲酒は今年に入ってもう七回目だ。何度始末書を書かせても、この悪癖だけは直らない。
マジャールというのは彼の本名ではない。それを言うならフレッドも本名ではないし、彼らもまた、わたしの本当の名前を知らない。わたしたちは皆、入局する際に名前を捨てる。たとえ同僚であっても出自や本名を教えてはならないというのがルールだった。もっとも、マジャールに関して言えば大体の見当がついていて、おおかたハンガリーの出身だろうというのが局内での共通見解だったのだが。
「姐さんだって、煙草臭いですよ。他人のこと言えないでしょう」
「ニコチンはいいのよ。それと、その姐さんっていうの、やめてくれない」
「言い出したのはフレッドですよ」
「あいつは馬鹿だから、わたしが何を言ったって聞きやしないわ」
「姐さんのファンですからね、あいつは」
マジャールはにやっと笑う。「二十代で上級監視官になったのは、姐さんだけだ。俺だってあと十歳若かったら惚れてましたね」
一言いってやろうとしたその時、機体が大きく揺れた。計器類がうるさい警告音を発する。マジャールは面倒くさそうに操作パネルに向き直るとバランサーをいじって機体を安定させた。
「今のは?」
「ただの乱気流です」彼の声が先ほどまでとは打って変わって真剣なものになる。「封鎖地帯の上空は大気が不安定になりやすいですからね」
「目的地に到着ってわけね」
「確認しますか?」
「見せて」
わたしが言うと、コクピット上部のモニタに地上の様子が映った。大部分は森しか見えないが、北の方にコの字型をした屋敷が小さく見える。屋敷の周囲は青い霧のようなものでぼんやりと覆われていた。月霧と呼ばれるもので、時間封鎖に付随した現象だ。惨事収拾班の報告では封鎖は二時間前から行われていたはずだから、あの霧の中に見えている屋敷は、きっかり二時間前の姿だということになる。固有の時間を持った存在は何であれ、封鎖地帯の外に出ることはできず、光でさえそれは例外ではない。それはまた、一度封鎖地帯のなかに入れば、外部からのバックアップを一切受けられなくなることも意味していた。
「屋敷のセキュリティは確認できる?」
「電力供給は絶たれているはずです」とマジャールが言った。時間封鎖のメリットの一つだ。外部からのエネルギー供給がすべて遮断されるため、電力に頼ったセキュリティは電子錠を含めすべて無効化される。緊急用の自家発電装置を備えている施設の場合は別だったが。
「ロンドンの不動産業者の話では、あの屋敷にそういった設備はありません」わたしの疑問にマジャールが答える。「まあ、博士が無許可で改築を行っている可能性は否定できませんが」
「電子パルスは?」
「封鎖前に一度放射しましたが、二時間もあれば復旧できるでしょう。過信できませんよ」
「了解」わたしはため息を吐く。「彼は確実に邸内にいるのよね?」
「時間封鎖からは抜け出せませんよ。ご存知でしょう?」
「人類はね、たった十年前まで、魔法の存在すら満足に知らなかったのよ。念を入れて過ぎるということはないわ。それに、相手は応用魔術研究の専門家だもの」
「あの爺さん、そんなに凄い人なんですか?」
「さあね。でも外部機関からNEWMが引き抜いたんだもの。優秀な人材には違いないでしょう。もっとも、倫理観にはいまいち欠ける人間だったみたいだけど」
「生物爆弾ねえ」彼は一抹の不安を声に滲ませた。「確認したいんですが、博士の爆弾は完成してないんですよね?」
「そう聞いてるわ」
マジャールの言いたいことはよくわかる。もしも博士が生物爆弾を完成させていれば、今回の作戦は大掛かりな自殺でしかない。彼が封鎖地帯のなかで自棄になってそれを起動すれば、わたしたちは痛みを感じる間もなく死ぬだろう。
「まあ大丈夫でしょう。どのみちマジャール、貴方は封鎖地帯の中には入らないんだから関係ないでしょう?」
「関係ありますよ」彼はいささか気分を害したようだった。「姐さんたちが死んだら、俺はエーデルワイスのチームに入れられるんですからね」
「いいじゃない。鍛えてもらえるわよ、きっと」わたしは右腕の時計に目をやった。時間だ。「フレッドを呼んでくるわ。降下の準備をよろしく」
「了解しました」そして、マジャールは一瞬躊躇うような素振りを見せたあとでこう付け加えた。「幸運を。ミス・セツナ」
わたしは答えず、コクピットのドアを後ろ手に閉めた。彼らとチームを組んでもう二年が経つが、所詮はビジネス上のパートナーだ。必要以上に馴れ合うような真似はしたくなかった。もとより、わたしにはそんな資格もないのだけれど。
〈目標上空に到達しました。速やかに降下の準備をしてください〉
電子妖精の無機質な合成音が響き渡る。談話室にいたフレッドがこちらに気づいて、嵌めていたヘッドホンを外した。その表情は気楽で、何の気負いもない。羨ましい限りだ。
「時間よ。行きましょう」
「了解」フレッドはにっこりと笑った。「さっさと終わらせましょう」
「封鎖地帯に入ったらAngel Ringは役に立たないわよ」
「低軌道衛星群の圏外領域だからでしょう? 知ってますって」
そう答えたフレッドの首には、銀の首輪のようなものが巻かれている。同じものがわたしやマジャールの首にもある。Angel Ringと呼ばれる複合型魔術制御装置で、いまや人類の九八パーセントが同じものを身体に埋め込んでいた。これこそが、わたしたちの世界を変えた新しい賢者の杖。極小型の量子計算機によって、人間が魔術を行うことを可能にする、魔法の首輪。
もっとも、Angel Ring自体は単なる回路だ。魔術の行使に必要なエネルギーは他の場所、ローゼンクロイツと呼ばれる低軌道衛星群から供給する必要がある。そのため、これらの通信衛星の圏外領域に入ってしまえば、どんな魔術であろうと使用することが不可能になるという欠点があった。
魔術は魔法ではない。よく似たその紛い物に過ぎない。監視官としての研修で最初に叩き込まれることがそれだ。衛星電話や無人爆撃機と同じ。便利な道具だが、それ以上のものではない。予め刻まれた魔術方程式以外のことは出来ないし、圏外領域に入ってしまえば役に立たない。魔法の杖を拾ったからといって、それで人間が魔法使いになれるわけではない。
だから、魔術を過信するな。
しかし、決して侮るな。
フレッドが軽い足取りで仮死ポッドの方へ歩いていく。その後ろ姿を複雑な気持ちで見送りながら、私も別のポッドに向かう。黒いインゲン豆のような形をしたポッドに入るのはこれが三回目だ。時間封鎖の絡んだ任務でない限り、このポッドを使うことはない。個人的には出来れば使いたくない代物だった。降下の一瞬とはいえ仮死状態になるのはあまり気持ちの良いものではない。何しろ身体を構成する分子の運動すべてを停止するのだ。しかし、今のところ封鎖地帯に侵入する方法はこれ以外になかった。
つるつるとしたポッドの中に入り、腕を胸の前で組んで対衝撃姿勢をとる。背中にバックパックのごつごつとした感触。ポッドの中はあまり快適とは言えなかったが、どのみちあと数十秒の辛抱だ。このポッド自体は滑走路のようなもので、射出されるときは完全に生身になる。反重力型落下傘が起動するまでの一分間は、スリル満点の自由落下を楽しめるというわけだ。仮死状態で意識を保つことが可能ならの話だが。
〈三十秒前。カウントを開始します。射出の衝撃に備えてください〉
自分の息で白く曇っていくポッドの磨りガラスを見つめながら、わたしはさっき見た夢について考える。あれから十二年が経つのに、わたしの脳はそれを忘れることを許してくれない。敗北と、裏切りと、逃走の記憶。
九条有栖。
山吹穂乃香。
雪野雫。
そしてわたし、藤堂刹那。
〈二十秒前〉
ねえ知ってる。いつか聞いた、雫の言葉が蘇る。海の向こうでは、あたしたちくらいの女の子が人を殺すんだって。
〈十秒前〉
あたしたちも同じかもね。魔法が使えても、結局は大人たちの道具なんだ。生まれて、生んで、殺して、殺されて。
〈射出します〉
しゅっという鋭い音と共に、わたしの身体が滑り出す。
「ごめんね、雫」
宛先のない言葉が、冬のロンドンのどんよりとした曇り空に霧散した。
2
封鎖の境界を通過した衝撃で、わたしは意識を取り戻す。仮死状態から復帰した反動で胃の中がむかむかした。降下はまだ終わっていない。ニュートンの見つめた林檎のように、わたしとフレッドは一直線に地面に向かって落ちていった。耳元で風が逆巻き、ごうごうと猛るような声が防護服の向こうで聞こえた。なるべく身体を垂直にして、空気抵抗を最小限に抑える姿勢を維持する。
高度が一五〇を切ったところで、バックパックが起動した。この反重力型落下傘は、まだ開発されて間もない試作品で、重力の影響を限りなくゼロに近づけるだけでなく、いわゆる反重力を生じさせることで落下の衝撃を最小限に抑えることができる。通常の落下傘と違い、空気抵抗を利用するのではない分、着地の精度が極めて高いのが売りだった。猫のようなしなやかさで、わたしは屋敷の裏庭に正確に着地する。三秒ほど送れてフレッドが続いた。とさり、という小さな衝撃音が静まり返った敷地内にこだまする。
ひざについた草葉を払って立ち上がった。役目を終えたバックパックを肩から下ろし、芝生の上に無造作に転がす。このパラシュートの欠点は再利用不可の使い捨てであることだ。こんな大きな荷物を背負ったまま任務に移れるはずもないから、どのみち捨てていくしかないのだが。
「起きてる?」
背中越しに声をかける。着地の衝撃で足の裏が痛んでいた。
「すべて順調」浮かれたような声が返事をした。
「そうは見えないけど」
振り返って彼の様子を見たわたしは、呆れながら言った。フレッドはバックパックを外すのに手間取っているようだった。着地の際に失敗したのだろう。肩紐が複雑に絡まりあっている。
「まったく」わたしはベルトに差しておいたナイフを引き抜くと、それで絡まった肩紐を断ち切った。「あやとりをしてるんじゃないのよ」
「助かりました」フレッドは誤魔化すように笑った。「あやとりって何ですか?」
その質問には答えず、わたしはインカムのスイッチを入れる。封鎖区域外との通信は不可能だが、内部通信であれば問題なく使えるはずだ。屋敷は広い。手分けして探した方がいいだろう。
「急ぐわよ。時間封鎖が解けたら面倒なことになる」
「あと二時間近くありますよ。焦らず行きましょう」
「封鎖地帯では時間の流れが外とは違う」わたしは言った。「それに、長く居すぎるのは身体に毒。たっぷり残った余生をホスピスで過ごしたくはないでしょう?」
わたしたちが着地したのは屋敷の裏庭だった。あるいは庭だった場所と言うべきか。かつては立派な屋敷だったのだろうが、今では買い手のつかない幽霊屋敷そのものだ。壁の一部が壊れ、土台の一部も崩れている。博士の屋敷は崩れかけた廃材の山でしかなかった。好き放題に伸びた硬くしなやかな草が風でたわみ、どこからか椋鳥の声がかすかに聞こえる。
裏口の扉は、軽く押しただけで簡単に開いた。壊れた南京錠が二つ地面に転がっている。わたしは音を立てないようにそっと扉の隙間を押し広げると、身体を滑り込ませ、背後で待つフレッドに向かって手招きをした。それから指を二本立て、軽く振ってみせる。二手に別れるというサインだ。フレッドは頷き、正門の方に向かった。そんなものが残っていればの話だが。
「うえっ」
屋敷のなかに漂う悪臭に、わたしは思わず声を漏らした。どうやらここは厨房らしかった。もう長い間使われていないのだろう。床のタイルは剥がれてボロボロになり、下にあるコンクリートの基盤が剥き出しになっている。流しには汚れた食器が溢れかえって、コバエがたかっていた。悪臭の正体はこれだろう。腐ったハギスのような匂いがする。吐き気をこらえながら、わたしは手探りでホルスターを確認した。安全装置を外し、低熱線銃を強制失神モードにセットする。
腐敗臭のする厨房を抜けて、屋敷の廊下に出る。金属製の蜀台が等間隔に並んだクラシックな作りで、まだ薄暗い邸内を無熱蝋燭の焔がぼんやりと照らし出していた。板張りの床を鳴らさないよう、滑るように進んでいく。
「フレッド、そっちの様子は?」わたしはインカムに向かって小声で囁く。
「寒いですね」彼はとぼけた口調で答えた。「天井の一部が崩落してます。雨漏りなんてレベルじゃないですよ、これ。姐さんの方は?」
「何も。腐ったハギスを見つけただけ」
「そりゃ羨ましい」
「二階に上がるわ。貴方は下をお願い」
「了解。屋敷に地下は?」
「間取り図には何もなかった。たぶん、土台の一部が腐っているはずだから気をつけて」わたしはそう言って、それからしばらく迷ったあとで付け加えた。「幸運を」
階段室は屋敷の北端にあった。二重螺旋構造の階段が垂直に伸びている。二本の螺旋階段が互いに絡み合い、下りる人間と上る人間がぶつからないよう工夫されていた。真鍮製の手摺が蝋燭の炎を反射して鈍く光る。
屋敷の二階にあたる部分は、下に比べて比較的清潔だった。蜀台には蜘蛛が巣を作り、廊下の隅には綿埃がいくつも転がっていたが、少なくとも臭いはしない。間違いないとわたしは思った。彼はここにいる。微かにだが、空気が流れているのがわかった。低熱線銃のグリップを両手で包み込むようにして握り、足音を殺して先に進む。
書斎に入る扉は二階の一番奥にあった。ほんのわずかにだが隙間が開き、そこから柔らかい光とオペラの音が漏れ出している。しばらく躊躇った後、わたしは勢いよく扉を開け放って銃を構えた。
「動かないで」
目の前に座っている男の背中に向かって、わたしは言った。男は長いローブに身を包み、こちらに背を向けて座っている。男の手元を、真鍮製の机上燈がぼんやりと照らしていた。
「もう来たのか」男は座ったままで両手を挙げた。「NEWMの犬にしては仕事が早いな」
「余計なことは話さないで。こちらの質問にだけ答えなさい」
わたしはすばやく室内に視線を巡らせた。書斎に窓はなく、空調設備は小さな換気扇だけ。四枚羽で駆動する旧型だ。三方の壁は天井まで届く本棚で覆われていた。だいたいは英語の本だが、中には仏語や独語のものもある。絨毯は真紅。部屋の中央にある机の上には飲みかけの珈琲が置かれていた。羽根ペン、インク壷、それに便箋。誰かに手紙を書いているのだろうか。だが誰に?
「ラザフォード教授ね?」
「正確には教授ではない」彼は穏やかに訂正した。「私はもう、どこの大学にも所属していないからね」
「そう。どちらでもいいわ。わたしたちと一緒に来てくれるのなら」
「どこに行けと?」
「それは貴方次第よ」
彼の背中をじっと観察しながら、奥歯に仕込んだインカムでフレッドに信号を送る。(見つけた。二階の書斎。一番奥の部屋)。
「ゆっくりとこちらを向いて。おかしな動きを見せたら撃つ」
男は言われた通りにこちらを向いた。口元を豊かな髭で覆った柔和な顔立ち。コガネムシのように小さな黒い目が、銀縁の眼鏡の向こうから、わたしをじっと見つめていた。これが一〇〇人以上を殺した人間の目なのだろうか? 予想していたよりもずっと温厚そうな姿に、わたしはわずかな戸惑いを覚える。
「意外だったか?」
わたしの心を読んだように彼は言った。「ヨーゼフ・メンゲレのような異常者を想像していたんだろう。違うかね?」
「ヨーゼフ?」
「ナチスの医師だよ。第二次大戦中にアウシュヴィッツで働いて、収容所の囚人を使って人体実験を繰り返し行った。実験といえばまだ聞こえはいいが、実際にはただの虐殺だ。血液を抜いたり、病原菌を注射したり、生きたまま解剖したりした。あまりの残酷さに、収容所内においてさえ、死の天使と呼ばれて恐れられていたようだ」
「貴方のこともそう呼んで差し上げましょうか?」
「死の天使と?」彼は笑った。「私をそう呼ぶ権利が君たちにあるとは思えないがね」
「何の話」
「知らないならいい。君にもいずれわかる」
「何故殺したの」
「殺した?」彼は不思議そうな顔をした。「何が言いたい」
「惚けないで。貴方はクラーロヴェの研究所で一年以上ものあいだ人体実験を繰り返していた」
「実験はした。だが殺したわけではない。彼らの姿を変えただけだ。水を沸騰させて水蒸気にしたようなもの」
「詭弁は結構」
わたしは目の前の男に言いようのない怒りを覚え始めていた。フレッドの言葉は正しい。彼は紛うことなき異常者だ。
「君の怒りは不合理だぞ。量子論的な観点から言えば、人間の生死などというものは大した違いではない。たとえば、君は魂の存在を信じるか?」
「いい加減にして」わたしは思わずグリップを握る指に力を入れる。「ええ、魂の存在なら信じているわ。それが何?」
「それなら、君の怒りは間違っている。人間の本質は魂だ。肉体はその器に過ぎん。私は器の形を変えこそしたが、魂には傷ひとつつけていない」
「そう。だったら、今ここで貴方を撃っても許されるのかしらね」
「撃ちたければ撃つがいいさ」彼は言った。「だが、君は撃つことができない。私を殺すなという命令に縛られているからだ」
「緊急時の射殺は認められている」わたしは短く答えた。「何が緊急なのかはわたしが決めるわ」
博士に気取られないよう、こっそりと背後の気配を探る。フレッドはまだ来ていなかった。
「いや」彼は首を振った。「それはわたしが決めよう」
そう言って、ポケットから銀色の球体を取り出した。テニスボールほどの大きさで、光沢のある表面に沿って何筋もの細い溝が刻まれている。球体の上部にはクレーターのような窪みがあり、その中心で緑色のダイオードが点滅を繰り返していた。それが何であるのか、わたしの直感が答えを囁く。
生物爆弾。
「――完成していたの」
「いや、不完全な試作品だ」彼は残念そうに言った。「しかし、わたしと君をコンマ数秒であの世に送るくらいの力はある。まばたきする暇もなくな」
彼の細い指が球体の窪みにかかっていた。わたしが彼を撃てば、その瞬間に彼の指先が生物爆弾を起動し、封鎖区域内の生物を全て殺すだろう。いくら低熱線銃とはいえ、起動される前に彼を制圧することは難しい。
わたしは奥歯を食いしばる。インカムが緊急信号を屋敷にいるはずのフレッドに送った。
「彼なら来ないぞ」博士は球体から指を離すことなく言った。「この部屋は少し電波が悪いからな」
沈黙したままのインカムが、その言葉の正しさを裏付けていた。厄介な状況になったとわたしは心のなかでため息を吐く。
選択肢はない。
「さて、どうする?」
「それを起動すれば貴方も死ぬのよ」
「言ったはずだ。私にとって死は瑣末な問題に過ぎないと」彼は冷静な口調で返した。
「その球体から手を離しなさい。今ならまだ間に合う」
「間に合う? もう手遅れだよ」彼は鼻を鳴らした。「さて、君こそ銃を捨ててもらおうかな」
「それは無理ね」わたしは言った。「これ、まだ使うから」
その言葉に男が反応する前に、わたしは左手の指輪を起動した。赤いルビーのような石が嵌めこまれた石座から鋭い爪が伸び、中指の皮膚に食い込む。金具が肉を貫通する痛みのせいで、思わず目尻が潤んだ。真っ赤な血が滴となって傷口から溢れ、中石に吸い込まれていく。零れた鮮血が深紅の絨毯を叩いた刹那、世界から一斉に色が消えた。
まるで歯車を失った機械時計のように、全てが動きを止めていた。わたしは肩こりをほぐすように腕を回し、微動だにしない目の前の男へと近づく。安全のために起爆装置を解除しておきたかったが、処理の仕方がよくわからない。仕方なく、彼の手から取り出して自分のポケットにしまった。起動しなければ無害だとはわかっていても、あまり気分のいいものではない。動くものは何もなかった。換気扇の四枚羽も、蜀台の炎さえも、すべてが動きを止めていた。音がなく、景色は古いモノクロ写真のように色を失っている。
これが、時間の止まった世界。
十三年前、九条有栖に出会ってわたしが手に入れた魔法の力。Angel Ringによる紛い物の魔術とは違う、わたしだけの本物の魔法。
魔法使いだった、わたしの。
しばらく迷った後、結局彼を撃つことに決めた。命まで奪うつもりはないが、抵抗力は削いでおくに越したことはない。
時間が再び動き出し、世界に色と音が戻った。銃声が響き、膝を撃ち抜かれた男がどうと倒れる。真っ赤な血が膝の穴から流れ出して絨毯を染めた。
「無理して立たない方がいいわよ」わたしは銃をホルスターに戻す。「膝靭帯を損傷するとリハビリが大変だから」
ラザフォード博士は何が起きたのか理解できないようだった。激痛に顔を歪めながら、信じられないという表情でわたしの顔を見つめている。
今、わたしはどんな顔をして立っているのだろう。ふと、そんな考えが頭をよぎった。この男の瞳には、いったいどんな表情をしたわたしが映っているのだろう?
「そうか」彼は何かに気づいたようだった。「君がそうなんだな」
「わたしが何?」
「会えて嬉しいよ。《時の魔女》、藤堂刹那」
わたしはぎょっとした。彼がいま口にしたそれは、誰も知らないはずの名前。ずっと昔に捨てたはずの名前だった。
「その名前をどこで聞いたの」
思わず声を荒げて詰問する。答えはなかった。ふいに背後からばたばたという足音が聞こえ、頭蓋囲いをかぶった人影が現われる。
「姐さん、大丈夫ですか」
「遅い」わたしは舌打ちまじりに答えを返した。つくづくタイミングの悪いやつ。「いいところはもう全部終わったわよ」
「殺したんですか?」
血を流しながら床に横たわっている男の姿を見て、フレッドがおそるおそる訊いた。「重要参考人だったんじゃ?」
「痛みで気を失ってるだけでしょ。この程度の傷じゃ死なないわ。念のため麻酔をして、医療パッチで止血をしておいて」
そう言い捨てて、部屋を出る。フレッドがもごもごと抗議するような音を出していたが無視した。これ以上、この廃屋の空気を吸っていたら気が狂いそうだ。魔法を使った反動で、頭の奥が早くも鈍い痛みを訴えはじめていた。
足早に階段を下りて、新鮮な風が差し込む方向へと歩く。風は玄関ホールの方から流れてきていた。崩落した天井の穴から空が覗き、外の空気が流れ込んでいる。わたしはホールの中央で足を止めた。時間封鎖が解けかけているのだろう。青い霧はさっきまでとは比べ物にならないほど薄くなり、雪のようなものが天井の穴から降り注いでいる。
わたしは怪我をしていない方の手をポケットに突っ込み、銀色の球体を取り出した。左手の中指からはまだ血が流れ続けている。この調子では、しばらく使い物にならないだろう。自分が年を取ったと感じるのはこういう時だ。少女だった頃は、こんな代償を払わなくても簡単に魔法が使えたのに。
球体は夜空に輝く月のように、わたしの掌を転がっていた。どう見ても、生命を根絶する危険な兵器には見えない。生物爆弾。人類史上最悪の兵器に洗剤の名前がつけられるとは、なんとも皮肉な話だ。
しかし、厄介なことになった。わたしは心のなかでため息を吐く。製造された生物爆弾がこれ一つならいいが、それはあまりに楽観的すぎる推測というものだろう。
少しでも手がかりが見つかればと、わたしは手の中にある銀の球体をくまなく観察した。上部のクレーターには小さなダイオードが埋め込まれ、チカチカと点滅を続けている。製造番号のようなものは記されていなかった。球面に沿って走る溝は完全に規則的で、何の意味も持っていないようにしか見えない。けれど、底の部分にそれらの溝とは違う感触があった。比較的広範囲にひろがる、浅い窪みのようなもの。何かの紋章だろうか? わたしは銀の球体をひっくり返し、そして危うく取り落としそうになった。
「嘘」
それ以上の言葉は出てこない。自分の見ているものが信じられずに息を呑んだ。
「ありえない」
そこに描かれていたのは、翼を広げた巨大な梟のシルエット。それは、かつて魔法使いだったわたしたちの、四人だけの秘密のマークだった。