25.5 修道衣の男、あるいはMの悲劇
路地裏で老人――名をマンナと言う――は包みを前にうなだれている。
すでに自分の周りには誰もいない。
施しをくれた少女は、連れの二人組とともに出発した。
マンナはずっと自分のこれまでの道程を振り返っていた。
思えば人の暖かさというものを知らない人生だった。
15の時に蹄鉄職人である父の跡を継ぎ、店を切り盛りした。
しかし23の時に親友だった男に金を騙し取られ、家族全員が離散。
それからはさまざまなところを転々としたが、その先々で裏切られ続けた。
共に貯金して店を建てようともちかけ、資金を奪って夜逃げした仕事仲間。
貴方だけを愛しているとささやき、家の権利をだましとった女。
飲みに誘ったその次の日に、強盗の罪を押し被せてきた男――
――ヤケになって騙す側になろうかと考えたこともあった。
しかし善良な人々を前に、彼らの行く末を考えるととてもそんなことはできなかった。
そして今度こそはと思い、また騙される。
自分自身のお人好し具合に、嫌気がさした夜は数え切れない。
そして流れ流れて、全身がぼろぼろになって仕事一つこなせない体になった頃。
マンナは彼女に出会った。
彼は涙を流していた。
これまでの苦悩に満ちた人生にではない。
裏切られ続けてきた道程にではない。
薄汚い自分に暖かな光を与えてくれる人がいた。
乾いた心に水を与えてくれる人がいた。
その献身に、どこか報われた気分になったのだ。
自分が人を信じ、裏切られ、それでも人を信じてきたことは、間違っていなかったのだと。
彼女の施しが、それを教えてくれたように思えたのだ。
「神よ……この巡りに心から感謝いたします」
彼がそうつぶやき、包みに手をかけようとした
――その時である。
「もし、そこの人」
不意に男の声がマンナを呼び止めた。
見上げると、そこには身の丈180ほどの大きさの大男が立っていた。
全身が黒と白で包まれている。彼はその風貌に見覚えがあった。
エルノア教……この世界で広く信仰されている宗教の、その修道衣に酷似している。
察するに修行中の修道家だろうか。
「はい……この老いぼれめに、なにか御用でしょうか?」
マンナはうやうやしくもそう答えた。
男は柔和なほほ笑みを浮かべながら老人を見つめる。
信心深い者特有の、全てを推察した視線である。
「さきほどの光景、僭越ながら物陰で見させていただきました。
なんと美しい光景でございましょうか。
献身というもの、その美しさを改めて拝顔した気分ですとも」
そういって、晴れやかな顔で語る男。
……なんと、この男はさきほどの光景をみていたという。
ということは大の男である自分が泣いているところもみられたのだろうか。
そう思うと、急に恥ずかしい気分にマンナは襲われる。
「それはそれは……なんとも見苦しい所をお見せしてしまいましたな。
しかしながら、彼女の施しには感謝してもしきれませぬ……
このマンナ、その優しさに思わず涙してしまった次第でございます」
「ええ、ええ。この私めも思わず涙してしまいました
こんなにも! こんなにも世界は素晴らしい!」
男は両手を広げて天に向かってそう叫ぶ。
いささか大仰ではあるが、しかしマンナも同意見であった。
と、おもむろに男はマンナへと向き直った。
その様相は告解を前にした聖職者さながらである。
「してご老体、一つ問いかけを願いたいのです。
――貴方は、神を信じますか?」
神を信じるか? 至極簡単な質問だった。
その表情も、先程と同じく極めて柔和な笑み。
……だが、様子がおかしい。
さきほどまでと全く同じ笑顔であるはずなのに、まるで異質。
その勢いに気圧されながらもマンナは答える。
「し、信じますとも。
このようなめぐり合わせも、きっと神様が与えてくださったに違い有りませぬ」
実際そのように思っていた。
信心深いたちではなかったが、それでも彼はこの出来事に対して神に感謝しないほどの無神論者でもない。
対する男の方は、その返答がたいそうお気に召した様子で、何度も何度も満足気に頷いている。
「然り、然り……
無垢なる民の善行が世界をめぐり、そしてまた世界をも救いうる。
神功というものはさながら歯車のようにして、衆徒に恵みをもたらすのです。
……ですが」
そこで男は言葉を区切り……一歩、マンナへと近寄った。
途端に、強烈な寒気が老人の全身を襲う。
見上げるマンナの視線に、男の笑顔が映りこむ。
まるで尋常ではない、邪神の如き禍々しさであった。
「それもまた、黙示への選定においては無為にすぎませぬ。
なぜならば……そうなぜならば! すでに我々は選ばれているのです。
誰がパライソへ、誰がインヘルへ向かうのか。神に依って、選ばれているのです。
善行悪行に意味はありません。なぜなら既に選ばれているのだから!!」
また一歩、男は近づいていく。
逃げなくては。
マンナは本能でそう決意する。
しかし、心の何処かで気づいていた。
既に手遅れであると。
「な、なにをおっしゃっているのか……」
怯えた子羊のような声で、マンナは戸惑いを口にする。
「ご老体、貴方は神を信じていると言った。
すばらしいことだ、信仰は美徳でございます。
……しかしそのことも選定には無意味。
神はただ、創世より全てを定め、そして維持し続けている。
……故に」
ゆっくりと、男は右手を老人に向けて伸ばしていく。
一瞬、違和感が脳裏に走ったが直後額に触れられた指先で、違和感は確信に変わる。
この男の右手は……
「慈悲として、恩寵として、せめてその眠りが安らかであられますように。
……恵みに感謝を、そして子羊に安寧を」
「な、なにを……!」
「――裁定権利証書」
一瞬の静寂の後、何者かが崩れ落ちる音が路地裏に響いた。
修道衣姿の男がそこから出てくる。そこに一切の汚れはなく。
それっきり、何も、誰も、其処から出てくることはなかった。




