第一章 砂の楽園
黄色い砂が、見渡す限りどこまでも続く枯れた大地。
紫色の空は雲一つなく、赤く輝く大小二つの太陽は、容赦なく乾いた大地を照り付けている。
生ある全てのものを、死へと誘う灼熱の地獄。それでもわずかばかりの生命にとっては、生きていくための大切な世界であるこの砂の楽園を、今、小さな四つの影が移動していた。
「あっちいよ~~」
「うるっせーな…」
影はマントを頭から被った人間だった。背の高い二人の男と、小柄な男、それよりさらに小柄な女。フードからのぞく顔は、みなどれもまだ若い。少年と言っても差し支えないほどだ。とくに女は、そこに浮かべた表情はともかく、その外見はまだ年端もいかない少女のものである。
彼らはある目的を持って旅していたが、この暑さに閉口してか誰も無口だった。一人不平を漏らした少年でさえ、その後はずっと口を閉ざしている。
そう。彼らの旅は、あの日に始まった。
それはいつもと同じ、表面上は平凡で平和な、そしていささか退屈な一日だった。
いや、正確に言うならば、そうなるはずの日の、その午後のことであった。
「透ぅ…透~、ちょっと来てみなよ!」
教室内は昼休みとあって騒がしい。皆、弁当を食べたりお喋りしたり、はたまた集団で騒いでみたりとその様子は様々だ。
冷暖房完備の教室でも、こう喧騒に満ちていては有り難みも半減以下というものだろう。現に冷房だけでは足りなくて、下敷きで仰いだりベランダに出て涼んだりしている生徒もある。
そんな中、透と呼ばれた少年は、まわりの喧騒も、室内の蒸し暑さすらも気にならない様子で、一人静かに本を読んでいた。まるでその体の周りに、目に見えない壁でもあるかのような、涼しげな顔をして。
「おーい、透~。本ばっか読んでねーで来てみろって。面白いぜ?」
ベランダから顔を覗かせ、再び彼に誘いかける少年───名を風間聖といって、彼、大地透の親友なのだが───は、とかくお祭り騒ぎが大好きで、たびたび問題を起こしては謹慎処分を受けたりする結構な問題児だった。
「またか」
盛大な溜息と呆れた表情をお供にして、透がしぶしぶ手にした本を閉じる。
聖とは幼稚園の頃からの長い付き合いだが、彼がこんな声で『面白い』などと発言する時、透はたいていろくでもない騒ぎに巻き込まれてしまうのだ。
「…で?今度は誰と誰が喧嘩してるって?」
「大輔のアホ。ほら、二年の団体さんと。…なあなあ、行ってみっか?」
いかにも楽しげな聖の指差す先に、校舎の裏へ団体移動する男子生徒の姿があった。そしてその先頭を恐れげもなくスタスタ歩くのは、確かに透と聖二人にとって一年年少の親友緋川大輔である。
「心配は要らん。大輔も楽しんでるみたいだしな」
「誰が野郎の心配なんかするか。そうじゃなくて」
「黙れ。お前は大人しくしてろ。ついこの間、停学処分を受けたのを忘れたのか?いい加減にしないと、本気で退学させられるぞ。……良いから『奴ら』の『処理』は、大輔に任せておけ」
不満そうな聖を沈黙させると、何ごともなかったように席に着いて、透はまた本を読み始めた。聖もしばし未練らしく外を眺めていたが、クラスの女子に呼ばれると喜んで未練を断ち切った。
「はいは~い!!何かな、美人さんたち~!」
「んも~、風間くんったら、調子良いんだから~」
彼は喧嘩騒動も大好きだが、女の子の方がもっと好きだったのだ。
一方裏庭では、知らぬ間に親友二人から見捨てられてしまった大輔少年が、贔屓目に見ても味方ではない男五、六人にまわりを取り囲まれて立っていた。
いずれも体格の良さとは正反対に、性格の悪そうな連中である。
「……んで??毎度毎度なにが気に食わないわけ?」
一五九センチと、わりに小柄な大輔は、彼らよりも頭半分は小さい。なのに大輔には、ちっとも恐れている様子がなかった。むしろウキウキとして嬉しそうでもある。
「てめえ、チビのくせに生意気なんだよ!!」
「ちょっ、うわあ!!なんと使い古されたお言葉!!化石かよ!?ったく、毎度毎度オリジナルティーに欠けるなぁ」
大輔の挑発にリーダー格の男が、さっそく怒りマークを額に浮き立たせた。頭より腕力、短気で暴力的、口よりも手が先に動く典型的なタイプだ。そいつが周囲の仲間らに合図を送った。
「うおらっ!」
真っ先に飛び掛かってきたのは、大輔の真後ろにいた大男である。完全に意表を突いた拳が、うなりを上げて大輔の後頭部に迫る。しかし、
「うがっ?!」
鈍い音がして、男の拳がヒットした──だが、
「えっ……!?」
ふっ飛んだのは何故か大輔ではなく、彼の正面に立っていたリーダー格の男だった。
「えっ、え!?なっ…なんで…ッ」
大男は顔を青ざめさせて、自らの拳を見詰める。一瞬、何が起こったのか、自分でも理解できなかったらしい。
「わはははははっっ、大外れ~。どぉこ狙ってんの!!」
揶揄する大輔の言葉で、大男は事態を理解した。
そう、渾身の力を込めた彼の拳は、軽く屈んだ大輔の後頭部を掠りもせずに通過し、そのまま反対側に立つ仲間の顔面に炸裂したのである。
「この……ッ!」
「てめえっ!避けるんじゃねえよッ!」
「馬鹿言うな。俺は大人しく殴られる義理なんか持ち合わせてねえぞ。アホかお前は。…ああ、そっか。だから留年したんだよね。わりィわりィ」
「くそっ、減らず口のクソチビが。やっちまえ!」
「おうっ!」
「舐めてんじゃねえぞ、チビ!!」
わなわなと怒りに震える大男の号令で、周りを囲んだ全員が口汚く罵りながら殴りかかるも、身軽な大輔にはただの一発も当たらなかった。どころか逆に、大輔の攻撃に次々と打ち倒されてしまっている。
器用に拳や足蹴りを避けながら闘う大輔には、屈強そうな大男も手下たちもかたなしだ。
「のやろ!」
「……てめえがラストだっ!!」
最後まで残っていた大男を、助走をつけた腹部への重い一撃で撃墜する。
全員倒すのに三分とかかっていなかった。
「ちぇっ。はあ~……まったく、面倒ばーっかかけやがって。腕力だけじゃなくて、ちょっとは精神面の修行をしろよな。でないと今度は保健室くらいじゃ済まないぞっ……て、もう聞いてねえか」
大きな声で独り言を呟きつつ、でっかいため息をつく大輔。彼はいかにも億劫そうな動作で、倒れているリーダーの背中へ手を当てた。かと思うと、すぐに立ち上がり、
「これでよし!」
そう一人呟いて、校舎へ向かって歩き始めた。
楽し気に鼻歌を歌いながら。
もしもこの場に他の誰かがいたとしても、おそらく今の出来事の意味に気付かなかっただろう。
背中へ当てた大輔の手から、常人の目には見えない赤い光が放たれ、男の体に吸い込まれていったこと。
そして、男の体から黒い靄状の物が滲み出て、蒸発するみたいに消えていったことなど……。
まるでそれは、目に見えない生物が、もがき苦しみながら死んだ様に見えた。
「って訳で、だいぶ『穴』が大きくなってるんじゃないかな?なにせ、今月三回目だし…」
「はぁん。……で?憑かれてたのは一人だけなんだな?」
六時間目の授業中。
さんさんと光が降り注ぐ初夏の太陽の下、三人は校舎の屋上へ集まって、先刻の件について話し合っていた。
もちろん授業はさぼっている訳だが、彼らの持つある『特殊な能力』によって、彼らが教室に居ないことは生徒はおろか先生にすら気付かれてはいない。
「ああ。一人だけだよ。他の奴には気配がなかった」
「下霊だったんじゃねえの?」
「ちげえよ。下級のやつだけど、羅刹だった……本当だって!!」
『誰も嘘だなんて言ってねえだろ』と口では言いつつも、どこか馬鹿にした目付きで見下ろす聖に、むっとした大輔が突っかかる。
喧嘩するほど仲が良いというが、この二人はその典型的な見本だ。
顔を合わせるとど突き合いの喧嘩を始めるくせに、いないと妙に寂しがってしまう。いいコンビなのだが周りからすれば、単にはた迷惑なだけであった。
「青竜か……」
終始黙っていた透が、東の方向を見つめながら呟いた。
「封印の力が弱くなっている事は、百年も前から解っていた。おそらく、もうすぐ…破られるだろう、な」
神話の時代。
神に背いた悪神がいた。彼は、神の造りし世界を蹂躙し、思うがままに支配した。しかも悪神はそれだけには飽き足らず、『神の庭』と呼ばれるもう一つの世界、この『人界』までも侵そうとしたのだ。
そうと気付いた神は、彼の邪心を抑えるために、『四匹の獣』を遣わした。そしてその聖なる四匹の獣は彼と戦い、眷族ともども悪神を世界の果てへ追い詰め、二度と人界に手出しできぬよう四つの門で封印したのである。
その後、四匹の獣は、封印の守護者として人界へ降り立った。
天より来たる四匹の聖獣……その名を『玄武』『白虎』『朱雀』『青竜』という。
そうして世界の封印を任された四聖獣は、人界で生きるための『肉体』を神から与えられた。もともとは精神生命体の彼らであるが、封印を密かに監視し守護するためには、人達の間に紛れ潜む必要があったのだ。
『楽園』の住人である人間達に、異なる世界の存在を気付かれぬために。
だが、ここにひとつの問題があった。
彼ら四人の魂は、それ自体が封印の『鍵』なのである。彼らの魂が四つ揃って現世にあることこそが、つまり封印の持続に直結する。しかし、彼らに与えられた肉体には、絶対に越えられない限界があったのだ。
血の通った『物質』である以上、いつか必ず訪れる運命─────『死』である。
そこで神は彼らのために、特殊な転生サイクルを用意した。
通常、人の魂は器である人間の体を、百年から数百年に一度得て現世に転生する。
しかし彼ら四人の魂だけは、二十~四十年で次の身体を転生させる事ができたのだ。その転生の間隔はおよそ一世代置き。つまり結果として、前世と後世が同時期に存在する事になるのである。
前世の存命中に生まれた後世は、最初『記憶』も封印の『神霊力』も持ってはいない。
それゆえ前世は、後世の自分が封印に充分耐えうる年───十才の誕生日を迎えてから、記憶と神霊力と『隠名』としての本名を、後世へ譲り渡すのだ。
そうして数千年もの間、封印を守護し続けてきた彼らだったが、いつの頃からか突然、それまで正確だった転生サイクルに狂いが生じてきたのである。
四人はいつも常に同年齢で転生してきた。だがある時を境に一年、二年と、年齢が離れ始め……いまやその年齢差は、封印にまで影響を及ぼすまでになっていた。
「青龍は限界だ。なのに青龍の姫はまだ……」
「あと二ヶ月で十才だろ。じいさん、なんとかもってくんないかな」
『玄武』透、『白虎』聖、『朱雀』大輔。
この三人はどうにか大差なく転生し、前世から使命と神霊力とを無事引き継いだ。だが、ただ一人『青龍』の転生だけは大幅に遅れてしまい、いまだ封印に耐えられる年齢を迎えていない。
であるから現在も『前世』である青龍が、高齢に鞭打って『門』の封印を続けているのだ。
「あ~あ。こんなことならさ、いっそ不老不死にしてくれりゃ問題なかったのに」
不満そうにぼやいた大輔へ、ここぞとばかりに聖が突っ込みをいれる。
「阿呆。不老不死なんて物がこの世に存在したら、それだけで人間にとって毒なんだ。んな、ありもしねーもんを求めたばっかりに、いくつの国と人間達が滅んだと思ってんだ?」
人間の歴史に不干渉でいるためには、なるべく『特別』な部分を隠す必要があった。
そう、あくまでも彼らは『普通』の人間でなくてはならなかった。なぜなら『特別』な物は、それだけで時に人を狂わせ、国を滅ぼす力となるからだ。
「ちぇっ~、わかってるよ。冗談だって」
『神霊力』は完璧に隠す事ができる。しかし話が不老不死となると、それを知られずに生きるのはおそらく無理だった。
何年、何百年と姿の変わらないその異常さは、どれほど細かく気を付けていても、いずれ周囲の人間に知れ渡ることになるだろう。
「ちょっと言ってみただけなのに……本気で怒ることねーじゃん。聖の怒りんぼ」
「なにまだブツブツ言ってやがんだ?俺にぶん殴られて病院行きてえのか?……って、あ、そうだ」
自分で言った言葉に何か思い当たったのか、聖はまだ不満そうな大輔を無視すると、透に向かって話しかけた。
「龍二、今日来てるんだろ?今朝見たんだけど、ずいぶん顔色良かったぜ」
あまりにも唐突な話題転換に、さすがの透も少々面食らってしまう。
「あ、なんだ。退院してたんだ?龍二。教えてくれりゃ良いのに。そしたらパーっとお祝いでもしたのにさ」
「うるせーな。ご馳走目当ての馬鹿は黙ってろっての」
「なっ…!?そんなんじゃねーよ!俺は純粋に龍二のことを思ってだなあ…そーゆー聖こそ……」
「俺がなんだって?ああん?」
自分を無視して口喧嘩を始めた二人に、黙ったまま透は切れ長の瞳で睨みをきかせた。途端に気まずそうな顔で黙り込む二人。
「……突然なにを言い出すかと思えば。龍二の入退院はいつもの事だろう?それに、今回はどこが悪かった訳でもなくて、ただの検査入院だ。いちいち報告する理由もないし、その必要もない」
聖が口にした『龍二』とは、透の大切な現世における『弟』の名前である。
龍二は透や聖とは五つ違いの小学六年生で、彼らの通うこの学園の小学部に通っていた、
黒髪、黒瞳、白い肌、日本人離れした恐ろしく綺麗な顔の美少年だ。
ただ先刻の会話にもある通り、生まれつきかなりの虚弱体質で、それこそ日常的に病院への入退院を余儀なくされていた。正確に計算した事こそなかったが、おそらく一年の内半分は、白い病室の中で過ごしているだろう。
そんな不幸な境遇にもめげない素直で明るい弟を、物事に対する執着心の極めて薄い透が、なにより大切にしていることを、聖も大輔もとても良く知っていた。
もちろん、弟のことを語る時の彼の冷淡さや、一見してそっけないその態度が、すべて照れ隠しであると言うことも。
「い、いやさ、念のためなんだけど、龍二、こっちに連れてきといた方が良くね~かな~と思ってさ。マジな話、俺、なんか今日は嫌な予感がすんだよ」
「……そうだな。もうあと三十分くらいだが、こちらに連れて来るか」
言葉の途中から真剣な表情になった聖を見て、透も思うところがあるのか頷いてそう言った。そして、さっそく担当教師へ連絡しようと、携帯を手に透が腰を浮かせて立ち上がりかけると、
「あ。待て待て。俺が迎えに行ってやるよ!お前は座って待ってな!!」
どういうつもりかそれを制して聖は自分が立ち上がり、透が何か口にする前にさっさと屋上のドアをくぐっていた。
「……おかしなことがあるものだな。普段は俺が龍二に甘いのなんのと文句をつける聖が」
「あ、なんかさ、小等部に将来有望な可愛い転校生が来たって言ってたぜ。この前」
「……………」
携帯を操作しながら、透は呆れたため息を付く。
風間聖……やはり、ティッシュよりも軽い男であった。
空は青色。白い雲は厚く層をなし、緑は不安げに揺れ動き、風が悲鳴のような警告を伝える。
犬や猫やたくさんの動物たちは皆、恐れ、脅えて、あるものは逃げ出し、またあるものは巣の中に丸くなって、なんとか来るべく災厄を逃れようとしていた。
世界のすべてが、危機を間近に感じていた。
地球のあらゆるものが、震えていた。
しかし────。
なおもこの時、人間だけが気付いていなかったのだ。
いつもの平穏さを装った空気の中に潜む、暗黒の気配に。
「………地震?」
最初は、ほんの小さな振動だった。座っている人でさえも気付かないほど、それほどに微細な揺れだった。
おそらくは計測機にさえ記録されないであろう、小さな地震。
それが始まりだった。
微震は続いた。しかも、次第に大きくなりながら。
そして人が、ようやく揺れている事に気が付き始めた、その時!
「きゃあああああっ!」
大地は突如、爆発的な力を解放した。人間界すべてに──地球上の、ありとあらゆる場所に!その人知を越えた驚異の力で、容赦なく襲いかかってきたのである。
「うぁああああっ!」
「た、助けて……っ!」
「ひいいっ」
ビルが壊れる。道路が割れる。地盤が浮沈し、山が崩れ落ちる。
火山は次々誘発し、真っ赤な炎を噴き上げた。
人々は秩序なく逃げ惑い、止めどなく発生する二次災害。事故。爆発。火事。墜落。
その被害は増大する一方だ。しかもこの地震は、特別製のようだった。
何故なら、最初の微震からすでに五分。
なのに地震は弱まるどころか、ますます激しさを増しながら揺れ続けていたのだ。
「くそっ!この地震、普通じゃねえぞ!?」
聖は小等部の校舎に入った途端に、この巨大な地震に見舞われた。
剥離するコンクリート、落下してくる鉄材、割れた電球やガラスの破片などといった、もろもろの障害を避けながら走るので、さすがの聖もなかなか前へは進めない。
教室からは悲鳴が聞こえ、廊下を走る生徒や先生たちと、何度も何度も擦れ違った。しかし、他の誰もが自分の事だけで精一杯だったのと同じで、聖も自分と、これから助ける龍二の事だけで手一杯だった。
「早く行かねえと、マジでやばい!」
そして聖は壊れゆく階段を、恐れげもなく駆け昇り始めた
一方、屋上で聖と龍二を待っていた二人は、地震が始まったあとすぐ校舎内へ戻っていた。
もちろん一人でも多くの、人間らを助けるために、だ。
『これから会話は心話でおこなう。俺はこの棟から、朱雀はA棟から救助してくれ。とにかく建物から離して、裏の林へ誘導するんだ』
地震の発生と同時に役立たずと化した携帯を投げ捨てると、透はこれまで緊急時以外の使用を禁じていた『心話』で仲間達に指示を出し始めた。
『オーケー。わぁったぜ、玄武』
『解っていると思うが、心話以外の神霊力は使うなよ』
彼らの言う『心話』とは、所謂テレパシーの事である。
透の言うように彼ら四人の神霊力は、どんな場合でも人間に対して使ってはならなかった。
たとえそれが、人や他の生物の命を救うことでも、あるいはその逆でも。
神霊力は人間界に侵入した悪鬼羅刹を『狩る』ためと、この世界に施された四つの封印を護るためにのみ使用することになっていた。何故なら、それ以外での無用な神霊力の行使は、かえって人間の野心や欲望を刺激してしまう事になるからだ。
神霊力という未知の強大な力を持つ、この世界でたった四人の特別な存在。
それが他者に知られたらその結果、人は争って彼らを手に入れようとするだろう。
それは彼らの望むところでないばかりか、神の意志にも反する事態なのだ。
しかし、だからといって彼らは、いつ、どんな時でも、人間を見殺しにしたりする訳ではなかった。
彼らは今まで、ごく普通の人間としてできる範囲内でのみ、目の前の人々を助けてきたのである。
────そう、この時と同じように。
『つくづく頭固いっつーか…融通が利かないよなあ。まあ良いけど』
心話で独り言を呟きながら、大輔は指示された場所へ向かった。彼は口ではなんのかんの言っても、言われた事はちゃんと実行する男である。一言多いのが、玉に傷だが。
『しかし…変だ。この地震は…』
そんな大輔の様子に苦笑しつつ、もくもくと救助を続ける透は、この巨大な地震の奥に何か不審な影を感じとっていたのだった。
「やっとだぜ……くそっ!!」
降りかかる瓦礫と収まらぬ振動の二重苦に対する悪戦苦闘のすえ、ようやく聖は当初の目的を達成した。
どうにかこうにか、小等部校舎三階にある、龍二のクラスへ到着したのである。
「龍二!!」
聖が発見した時、龍二は下半身を潰され、両足から血を流して倒れていた。
どうやら不運な事に、隠れていた机の上にコンクリートの塊が落下してきたらしい。
「…っ!良かった…気絶してるだけか…しっかりしろ、龍二!」
ホッとしつつ頬を軽く叩いたが、青白い顔に目覚める気配はない。
聖は手早く止血を済ませると、龍二の小さな体を抱え上げた。
普通の人間ならともかく、この少年は極端に生命力が弱い。正常なら命に別状のない傷であるが、彼の場合出血による心理的ショックの方が心配だった。
なにはともあれ、早急に脱出を図らねばならない。
「頑張れよ龍二…きっと助けるからな」
意識のない龍二に語り掛けると、聖は教室内を振り返り大声で指示を出した。
「…こらっ!てめぇらもとっとと逃げんだよ!ここに隠れてたって死ぬだけだぞ!」
「はっ…はいいッッ」
「馬鹿ッ、慌てるな!!壁を伝いながら慎重に行け!」
「はいっ!!」
聖は、まだ残っていた何人かを順に避難させると、最後に気絶した龍二を肩に担いで、壊れ続ける教室から自らも脱出したのだった。
依然、危機的状況は変わっていない。
巨大地震はまだ続いていたし、全校生徒の脱出も済んでいない。
しかも、彼らは今助かったからといって、最後まで無事でいられる保証は何もないのだ。
なによりもこの地震が、おさまらないことには。
『もう二十分になる。こんな長く続く地震があるか?…答は否、だ』
透は、最初からおかしいと思い続けたこの災害に、今は大きな『魔』の力をハッキリと感じ取っていた。
『巧みに隠していて解らなかったが……迂闊な』
『透っ。反省は後にしよーよ!早くなんとかしなくちゃ、俺も死んじまう!』
『勝手に死ね。このくそ餓鬼』
『だぁれがくそ餓鬼だぁ?覚えてろ聖!』
それぞれ別の場所で脱出に手間取っているくせに、心話で交わされる会話には、いつもと変わらぬ余裕さえ伺えた。実際の心中が会話ほど穏やかではなかったにせよ、その根性は立派と言うほかない。
『自然のものではない。と、すれば心当たりがある。これは……幻震だ』
『幻震……って、まさか、透っ!?』
大きな破片が、透の直ぐ横に落下する。
大量のホコリが舞い上がって、彼の視界を塞いだ。
『青龍門が破られた!羅刹の王、ラーヴァーナが目覚め、この世界に魔力を注ぎ込んでいる!』
走る聖の足元が崩れ、廊下が陥没する。
とっさに飛び退いて下へは落ちずに済んだが、脱出の道が完全に途絶えてしまっていた。
『で、どーすりゃいいんだ?教えろよ、透!』
『このままじゃ脱出できねえよう~ッッ』
大輔の眼前で、階段が次々と崩落する。
『目覚めろ。これは精神世界に張られた罠だ。目覚めるんだ…現実の自分へ戻れ!』
透が目を閉じた。続いて聖と大輔が。集中した神経で一心に念じる。
蔓延する邪悪な魔力を断ち切り、己が精神を解き放つ。
そうして自分自身に働きかけた。
『目覚めろ!』────と。